ガンジス・河の流れ

インド・ネパール。心の旅・追想

ジャンキーの旅      薬物後遺症と心の傷・・・8

2011-12-21 | 3章 デリー中央精神病院・入院記録

   「デリー中央精神病院・入院記録」・・・6


 12月のデリーの夜は少し冷える。マリーのアパートからこの病院までは随分と遠いところだと思う。11日裁判所に提出するドクターのメディカル・レポートは昨日には用意されていなかったのだ。その為、今日再び受け取りに来てくれた。マリーから新しいニュースが伝えられた。上手くいけば退院後、ぼくは帰国出来るかもしれない。大使館と弁護士が裁判所に働きかけ、ぼくの審理を終了させ帰国させる可能性を捜していると彼女は言った。どちらが良いのか、裁判が終了せず保釈の状態が長引きインドから出国が出来なければ、またスタッフをやり始める。メインバザールに留まれば絶対にスタッフは切れない。しかし帰国してぼくはどう生きていけば良いのか。何がどう狂ってしまったのか、これから先どう生きていけば良いのか何も分からない。
 入院前、ぼくはランジャンと注射器を買いに行った。ホテルに戻ったぼくは高濃度のスタッフ液を作り注射針を腕に刺した。今回も又失敗してしまった、どじな野郎だ。生きる事が何故こんなにも辛いのか、自分で走ったのがドラッグの世界だった。ドラックが新しい何かを生み出す可能性があるかもしれないと思った。しかしドラッグの世界は何も生み出す事などない、ぼくに残されたものは深い心の傷だけだった。
 大使館員のCさんが面会に来てくれた。ぼくが逮捕、連行された翌日、パールガンジ警察署に突然面会に来てくれた2人の日本人の内の1人がCさんだった。インド服を着てヒンディー語を堪能に話す女性をぼくはインド人だと思っていた。保釈後、何度か大使館で顔を合わせ相談に乗ってもらった事もある。インド滞在は長いだろうと思っていたが今日、聞いたら十六年になるそうだ。とても素晴らしい方だ。薬物中毒者のぼくに
「苦しいでしょうけど頑張ってください。まず健康が第一です。それを得ることができれば状況に対する正しい認識と理解力が生まれてくると思います」
種々のドラッグとヘロインを求めインド、ネパール、タイを旅して四年が過ぎていた。逮捕されアシアナで治療を受けていた50日間を除いて、デリー中央刑務所内でさえスタッフを吸い続けていた。元、妻だった女性から離婚請求があった時の条件に、ぼくの銀行口座に残されている預金の全ての所有について関与しない、と言うことだった。日本ではなくここインドではドラッグを含めた年間生活費用100万円は十分過ぎる。十五年間ヘロインをやり続けられる保証を得た事にぼくは満足した。心身共にぼろぼろになっていた。              
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