夏休み、子供達には沢山遊んで欲しいです(ゲーム機以外で)
野外での遊びには十分注意しましょう。自然界の生き物を不必要に怖れることはありませんが
彼らの世界に入っていくにはそれなりの予防と知識を得ることを怠りなく。
彼らは人間同様驚いたときに相手を攻撃します。
万が一蛇などに噛まれたら、念のため医療機関を受診しましょう。
楽しい夏休みを
夏休み、子供達には沢山遊んで欲しいです(ゲーム機以外で)
野外での遊びには十分注意しましょう。自然界の生き物を不必要に怖れることはありませんが
彼らの世界に入っていくにはそれなりの予防と知識を得ることを怠りなく。
彼らは人間同様驚いたときに相手を攻撃します。
万が一蛇などに噛まれたら、念のため医療機関を受診しましょう。
楽しい夏休みを
ニュースでヒアリの女王蟻がみつかったといっていた。
ちょうどレイチェル・カーソン著「沈黙の春」のヒアリの項を読んだところ。
ヒアリは蜂に刺されるのと 同じような症状がでるらしい。だから刺されてもすべてのケースで亡くなるわけではない。そして防除といって、見境なく殺虫剤を使用しても効果は上がらず、 人間も含めかえって他の生物に害を及ぼす。ヒアリは土まんじゅうを作る性質があるので、そこを防除すれば良いと記載されている。
だから、都市部では特に土のある公園などはよく注意した方がいいかもしれない。
もちろん生態は変化している可能性もあるので、必ずしも当時の手法だけが正しいかは判らないが、人の住んでいる場所から来ていることを考えれば、あまりヒ ステリックに騒ぐのもいかがなものかと思う。現状では蜂に刺されるリスクのほうが高そうな気もする。
蟻を見つけたからと言って見境なく殺虫剤を使うのは人にも環境にも良くないと思う
本を読んでいたら、こんな記述が目にとまりました。
「自分の時間の使い方をちゃんと考えたほうがいい。自分の時間が自分の人生の集積になるのだから」
当たり前のようですが、案外気づいていないことかもしれません。
世の中便利になって、一昔前では考えられない体験をすることになった。
当館は夫婦二人で経営する最小零細事業の宿である。一応公道に面して
玄関へのアプローチも造ってあるし、公道に面して駐車場も整備してある。
だけれども別の公道に面して、人様の土地と土地の間に僅かばかりの
歩けそうに見える道があり、建物の裏手に繋がっている。
その空間は当施設のボイラー室の裏手に繋がり燃料貯蔵施設へも繋がっているけれど、
綺麗なお庭スペースとは決して思えない空間が広がっている。
現在、営業施設として車の通る公道等(私道は別としても)で舗装されていない道
(アプローチ)を通らなければ、駐車場へも入れないし、玄関アプローチへたどり着かないなどと言うことは、
殆どないはずである。
最近道案内と言えばナビである。どこに行くにもナビが頼りであり
ナビが指し示す方向が「正しいアプローチ」だと考えられている風潮がある。
そこで一部のナビが指し示す「みち」が下の写真の空間である。
幾ら自然豊かな空間の中に存在しているとしても、ここから入らなければならない所に
営業施設が存在しているとしたら、建物入り口までの空間は刈払などをして見通しを良くするのが
お客様をお迎えするマナーだと思う「常識」が、一部のナビには通用しないようで、
この写真の先が当施設と表示されるらしい。
無粋は承知の上で致し方なく迂回案内図を作成して、公道から見えるように設置させて頂いた。
何かとても心が寂しいし、早く撤去できることを願っている。
今の時代を生きるのにはこういう視点も大切ではないでしょうか
版画家の長島充さんという方
http://blog.goo.ne.jp/mitsuru-nagashima-h24-5
の記事から抜粋させて頂きました。
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江戸時代の臨済禅の名僧、仙涯義梵(せんがい ぎぼん 1750 - 1837 ) のこの狂歌。
「気に入らぬ 風もあろうに 柳かな」
仙涯義梵
風に揺れる柳の木が勢いのいい筆致で描かれた禅画に書かれた狂歌である。
絵を挟んで反対側には「堪忍」と二文字が書かれている。
意味は「吹き付ける風の中には耐え難い風もあるだろうが、柳はいずれの風をもさらりと受け流してやり過ごす」ということ。
日本に渡来した禅宗を含む大乗仏教の基本的な修行に「六波羅密 ろくはらみつ」というものがある。悟りを得た僧侶となるための6種の実践徳目で、この中の一つに「忍辱 にんにく」という修行がある。
それは、あらゆる侮辱、迫害、中傷などに耐え忍んで怒りの心を決しておこさないということだ。
この狂歌を詠むと背景にその精神が込められているように思える。
仙涯はその自由奔放な生き方でよく知られていて、数多くの狂歌を詠んだ。また昨年も禅画の展覧会が開催され、その「ユーモラスでカワイイ禅画」は大人気となった。
だが、その生涯を辿ると若い頃は禅の雲水として悩み苦しみ、とても厳しい修行を続けてきた求道の人でもあった。
かの世界的な禅者である鈴木大拙も「自分は仙涯の弟子である」と常に語っていたということだ。
仙涯は八十八歳で遷化するが、辞世の言葉は「死にとうない」だったという逸話が遺されている。
我々も毎日の仕事や生活の中で、苦しいこと、辛いこと、嫌なことがあってもこの狂歌の柳のようにユラリ、ユラリとなにくわぬ顔で、かわしていける心の余裕を持ちたいものである。