ジョセフ・スミスの「見神録」について複数
の異なった内容のものがあることについて議論
が交わされている。教会が教えている「高価な
真珠」の内容と異なる物語が存在することは、
教徒にとって当惑であり、教会に批判的な者に
とっては有利な材料と映る事柄である。
しかし、神格者の顕現については、パウロの
受けた示現も異なる内容のものが幾種類かあり、
時間的には後で記されたルカによる使徒行伝の
内容が広く知られるようになり(パウロの書簡
が最も早い資料)、イエスについての福音書も
早い資料に基づくとされるマルコの福音書より、
マタイやルカによる福音書の内容がゆきわたり、
イエス誕生や復活の内容が定着するに至ってい
ることは周知のところである。(マルコには誕
生物語も復活の話も記されていない。16章後半
は後代の付加)
結局、神学者や伝記の著者が言うように神格
者の顕現については、異なった伝承があっても
これを信頼できないものと片付けることはでき
ない。天界の神格者との出会いの経験は、全く
個人的なものであって第三者としては正統とし
て継承されているものを受け取る以外にはない、
と言わなければならない。(関西学院小林信雄、
使徒行伝注解、ロバート・レミニ「ジョセフ・
スミス」参照)。
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>あってもこれを信頼できないものと片付ける
>ことはできない。
ジョセフの最初の示現(見神録)は
「異なった伝承」ではなく「ジョセフの創作」
ですよ。
それに、神に関することはすべて首尾一貫して
いるのであるという考え方をモルモン教会は
会員に押し付けていますし、そう見えるように
種々の出来事を粉飾し、教会に関することは
全て昔から変わらないとウソをついています。
異なった資料がある=信頼がおけない、
というのはモルモン教会が作り上げた思考です。
だから、ジョセフの見神録に複数のバージョンが
あると知っただけで会員が困惑するのです。
全てはモルモン教会側の態度が原因です。
こうした部分を無視しては、いかなる擁護論を
語ってもむなしいだけだと思います。
資料の異同よりももっと大切な、目を向けるべき
事柄があるのではないですか?
この件に関してはトゥゲザーさんを支持できそうです。
モルモンは聖典、聖典よりも現任預言者の言葉こそより真実であると説きます。
1年ほど前にある仏教著作の講義録を通読したのですがこの中で著者が新宗教とそうでない伝統宗教の違いについて自問自答しております。
新宗教はその歴史が浅いために教祖の言葉をそのまま鵜呑みにするしか手立てがない。つまり一点を見つめるより他はなく、それが真実であるか否かを見極める術が乏しい。一方で伝統宗教は悟りに至った人々が複数の点を構成しており点と点の交点を見出す、つまり自らの悟りを得ることについては信者に任されていると。
創設後1世紀半を過ぎてなおモルモン教が新興宗教と呼ばれ、私がそのように感ずる理由を見つけたような気がしました。
>教会が教えている「高価な真珠」の内容と異なる物語が存在することは、教徒にとって当惑であり、教会に批判的な者にとっては有利な材料と映る事柄である。
一連の議論をROMしていましたが、信じたくない、信じさせたくない。心の悲痛さが痛々しかったようにも思います。
現役信者にとっては当惑と言うより、過去の出来事は美化されている部分もあるだろうなと認識しながら理解しています。個人的に割り切って言えばパウロの場合もジョセフの場合も「啓示」の中の出来事。だと思います。それでも「最初の示現」は回復の出来事として証を持っています。
>モルモンは聖典、聖典よりも現任預言者の言葉こそより真実であると説きます。
これは、違うように思います。
聖典こそ真実の源でそれと異なることはたとえ預言者でも個人的意見となる。と読んだ記憶があります。
モルモンはそのように主張しています。
だからジョセフ・スミスや後の予言者は
平気で、過去に発表した聖典の内容を
書き換えることができたのです。
>聖典こそ真実の源でそれと異なることはたとえ預言者でも個人的意見となる。と読んだ記憶があります。
何の文書を読んだのかは知りませんが、
そんなモノはモルモン教義にありません。
何の議論をROMしていたのか知りませんが
LDS-Jの議論なら誰もそんな心の悲痛は
感じていませんよ。
深読み過ぎではないですか?。
私が書いた文章を読んで「それが真実であるかどうか祈ってください」とまで申し上げておりませんし意図すらしていない。
むしろ私の先の発言を読んでモルモン会員さんの心が揺らぐようならば「あなたのアイデンティティって一体ぜんたいどこにあるのですか?」と問いたくなってしまう。
オムナイさんはこのブログサイトでの以前の私の発言文を私が同意しかねる目的で無断引用されましたね。
無論今後の議論は辞退させて下さい。
>LDS-Jの議論なら誰もそんな心の悲痛は感じていませんよ。
(笑)まあそうでしょうね。
オムナイさんが他のmlで議論されたJS見神の複数バージョンに関して
>信じたくない、信じさせたくない。心の悲痛さが痛々しかったようにも思います。
とコメントされたのは、あのmlの構成員を考慮すると自然な反応ではなかったかと私は感じます。それに対し反論が寄せられていますが、それぞれ読者が感じるところが率直な感想ですから、それを受け止めたいと思います。
また
>聖典こそ真実の源でそれと異なることはたとえ預言者でも個人的意見となる。
というのは、正典(カノン)尊重の概念であって、lds教会にも基本的に生きている姿勢であると理解しています。少なくとも教徒は正典を受け入れ、それに制約されるものと私は考えています。(タルメージ、「信仰箇条の研究」1章)。
アメリカ在住の方がスラスラと答えていたのに本場は凄いなあと正直思いました。あちらには色々な情報が揃っているのも要因でしょうが、やはり信仰の室が違うのでしょうか。。
>少なくとも教徒は正典を受け入れ、それに制約されるものと私は考えています。(タルメージ、「信仰箇条の研究」1章)。
同意します。
8Pにはこうありますね。
わが教会の標準聖典は教義に於いて当教会の権威となる書籍である。さりながら、教会の心がまえとしては、更に「神の王国に関する」光明と知識をいつなりとも神の啓示によって受けることを用意している。
>というのは、正典(カノン)尊重の概念であって、lds教会にも
>基本的に生きている姿勢であると理解しています。少なくとも教徒は
>正典を受け入れ、それに制約されるものと私は考えています。
モルモン教徒の信仰は聖典に制約されますが、教会幹部
とくに予言者・見聖者・啓示を受ける者はそうではありません。
予言者がこれまで与えられた聖典の教えを覆す啓示を
与えられることは「有り」なのです。
・・・というのがモルモン教義です。
従って「正典(カノン)尊重の概念」とはいかにもキリスト風の
言葉ですが、モルモン教会では別の意味です。
教会員は聖典にも幹部の言葉にも拘束されますが、
幹部は何にも拘束されないからです。