聖書の読みづらさについて、大貫氏自身の回顧と分析を、そして学生たちのアンケートから幾つかの項目をあげたが、読みづらさに対処するため大貫隆は次のような提案をしている。
1 キリスト教という名の電車に乗ってみる。その電車の乗客はキリスト教徒、すなわちイエスを救い主(キリスト)と信じ、十字架で死に復活したと信じている人たちで、この根底をなす思考を一応了解してそこで語られる事柄を理解しようとすればよい。著者はキリスト者の思考を基本文法と呼ぶ。(ただ、規範的な読み方、例えば聖書の記載を全て文字通り受け容れる上意下達式な考えは取らない。)
このような電車に乗ると、車内の人にとって何かを落とした時、まっすぐ垂直に落ちたと見えるが、車外の人にとってはかなり移動した地点で床に落ちる(放物線を描く)ことになる。著者は車内の人々の思考方法を、想像力と感受性を働かせて受け入れ、車内の人になってみることを勧める。そうすると語られることが理解できるようになるという。しかし、その際、下車してできるだけ客観的、歴史的に知ろうとする研究的な読み方も併せてすることを勧めている。そしてその努力は不信仰を意味するわけではない、と保証する。
2 読む順序について。(この項、沼野が自分なりに旧約に即して説明させていただく。)同じような内容が繰り返されたり(列王紀、歴代誌)、内容が微妙に異なったりして(創世記 1, 2章)、聖書は読者に親切ではない。これに対しては、著者が言うように「文書ごとに」手引き書を併せ読むことでかなり解決できるのではないかと思う。読もうとしている文書をまとまりのあるものとして理解に努めること、そして大貫が言うように全体とのつながりにも注目することである。私は現行の和訳聖書の目次に従って読み進めていっても、差支えないと思っている。( 途中律法の細目や延々と続く人名リストなど忍耐を要する箇所がある<読者が一部飛ばして読む知恵を働かせても、誰も咎めることはない>が、全般的には時系列に並んでいる)。
3 ごく普通の常識的判断を大切にする。旧約でも新約でも読んでいて記述の流れに不自然さを感じたら(矛盾や異なる描写、姿勢の相違など)、「何の誤りもない」はずというような説明に安易に迎合せず、その違和感は心に留めて考え抜けばよい、と著者は言う。彼はそういった不自然さを欠け多き「土の器」(人間。IIコリ4:7)が作成したものとして受けとめるべきではないか、聖書はいくつも「隙間」を残しているという。榊原康夫も「聖書だからといって文字どおりであると思い込まないで」、文学的なコモンセンスを働かせて聖書を読むように勧めている(「聖書読解術」1970年)。
4 初めから教会の伝統的・規範的な読み方に従って、全ての文書を調停的に、しかも拾い読みするような読み方はしない。文学で言えば、芥川龍之介と夏目漱石の間に個性の違いがあるように、聖書の諸文書間にも個性の違いがある。それを認め、尊重して読むことが大事である。その上で違いを越えて共通するもの(広い意味での聖書の一体性)を探るよう著者は提案する。
聖書はこのようにそれぞれ個性に富んだ「多声性」の書物である。その呼びかけを耳にし、鳴り響いてくるどの声に最も強く共感を覚えるか、その声だけに応答していけばよいのか、など読者が呼びかけに応答し、自問自答してこそ聖書が生きてくる。「初めから伝統的・規範的な読み方に従って、すべての文書を調停的に、しかも拾い読みするのでは」聖書の声は聞こえてこない。
5 異質なものを尊重し、その心を読む。天地創造の物語は現代人が戸惑うものである。古代の世界像(天地の二層構造)を擁護して近代科学の知識を否定することはできない。それで聖書学は「非神話化」の試みにより、神話的記述から現代人に通じるはずの核心を取り出そうとしてきた。著者はこの核心は、「人間は神によって造られたもの(被造物)」ということではないか。それは詩篇(121, 104:10-14)や福音書(ルカ12:22-28, マタ5:36)を読めば、「命が人間の勝手になるものではない」と読み替えることができる。命の尊厳、人間性の尊厳の考え方に通じる。そして聖書を読む際、「周縁に躓くことは無駄死に」であると言う。
6 書き手の労苦と経験に肉薄する。聖書はメッセージや物語を伝えることはしても、そこに至る書き手の挫折や苦労の過程、認識の道のりについては語らない。読者はその点についても理解し共感する努力と感性が必要である。そのような理解は、聖書から得られる少ない手がかりをもとに研究者が整理してきた、と大貫氏は言う。(一般の読者も注意深く読むことが求められるが、やはり解説書や注解書を活用するのが近道ということになる。沼野)。
7 即答を求めない。真の経験は遅れてやってくる。聖書の記載は、語り手が経験してから暫く時間が経過して、物語り始めたものである。その時改めて言葉で「作り直す」ことになるが、実はそれが真の意味の経験を表す、と著者は言う。人の生涯で起こることも渦中にあるときは、その意味が了解しきれないことがある。イエスの十字架の意義も弟子たちは遅れて理解するに至っている。
聖書の中には読んですぐ解る名言もあるが、異質に感じられ読みづらいものもある。そのような箇所にこそ「新しい自己了解」に至らせる可能性が眠っている。読者にそれが気付く時が遅れてやってくる。それぞれの人生でそのような時が来るのを、開かれた態度で待つ用意が大切である、と著者は説く。
以上、大貫の提案は聖書を理解する聖書学者の立場から、やや抽象的に聞こえてI部の質問にいちいち具体的に答えていないように思われるかもしれない。私の要約が不足しているためかもしれない。ともあれ、聖書理解に助けとなる書物に出会えて喜んでいる。ブログ訪問者の役に立てれば幸いである。
参照書籍: 大貫 隆「聖書の読み方」岩波新書 2010年
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