ずっと前に読んだ言葉で、不遜ながら少し同感を覚えたことがあった。少し長いが引用させていただくと次のような文である。これは哲学者宇野邦一(くにいち)が「群像」1991年9月号に寄せたエッセイ風短評の一部である。
「まだ読んでいない無数の本。それを数えることはできないから、確かに無限である。まだ生きていない有限の時。それは数えることができないが、確かに有限である。有限な存在によって、書かれ、読まれる無限の言葉。それは確かに無限なのに、読み続けていると、言葉はしだいに飽和してくる。いつのまにか、どんな本にも同じ言葉、同じ動きを求め、それを繰り返し読んでいるにすぎないのではないか。この同じ脳、同じ心身で読むのだから。まだ読んでいない本に、不遜かもしれないが、あまり期待は残っていない。」
これを読んだ時、なるほどと思った。私(NJ)にはおよそ言えたものではないが、そうかもしれないと感じたのであった。宇野は次のように説明する。
「まだ読んでいない本の無限を、自己の有限で囲んでしまっているのだ。それに比べると、もう読んでしまった本の有限のなかの無限の方が、はるかに囲いにくい。」
「もう読んでしまった本が、まだ読んでない本の方にシフトする。こんなことが書いてあったと改めて気づくことが多い。何度読んでも言葉は逃げていく。物語や意味としては了解できても、それ以外の信号で本は満ちている。そこにはちっぽけな無限があって、それを読了することはできない。もう読んでしまった本は、まだ読んでない本である。まだ読んでない本は、もう読んでしまった本である。」
そして、哲学者の宇野は読書を次のように譬える。
「読む行為は、一つの取引である。本の言葉と引き換えに、ある魂の状態が生まれ、記憶の交替、再編成が行なわれる。物語、意味、さまざまな信号が明滅する快楽。しかしこの取引には、いつでも非対称なところがある。十分読み切れないことが多く、書いてないことまで読んでしまうことも多い。『もう読んだ』と『まだ読んでない』の仕切りは、この非対称の間隙に消えてしまう。既知と未知との間に開く非知、それに無知。まだ読んでいない言葉と、それを読むための限られた時間。何かが取引される。時間、意味、欲望、死、・・・などが取引である。そこには、確かにどんな経済学も解いていない経済がある。」
この取引がやむことはない。与えられた時間になされる読書という営みが止まることはない。(なお、宇野邦一氏は1987年より立教大学で仏思想や哲学などを講義してこられたが、2014年3月末停年退職。)
参考
本ブログ 2008.05.06 聖書のテキストの意味とは?
2008.07.12 聖書における引用とモルモン書の場合 その2Intertextuality の部分
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