前述のワークは、一日がかりの大きなワークの為、場所、画材、スタッフ等の準備も大変なせいもあるのだと
思いますが、同じ場所では、年に1~2回しか開催されないものだと記憶しています。
ですから、参加者にしてみれば、間が長いということになります。
なんでもそうですが、間があいてご無沙汰になってしまうと、つい億劫になったり、敷居が高いと感じて
足が遠のいてしまう傾向はあると思います。
そんな時「いつものあれ」という安心感には、絶大なものがあると思います。
そこにいけば、いつものあのワークをすることができる。
その安心感があればこそ、毎年ワークを楽しみにしているとか、数年ぶりにワークをしてみたら
前回とは違う発見があったとか、いろんな人間ドラマが生まれ、ひとりの人の心の成長に大きく貢献できるわけですよね。
私の場合は、大がかりなワークではない、こじんまりしたワークですが、それでも
繰り返しの大切さを、年々ますます感じます。
最初は、誰でもおっかなびっくりで始めますので、なかなか「自由な表現を楽しむ」までにはいかないものです。
同じ事をくりかえし、プロセスに慣れると、表現がより自由になり、頭で考え込むより
身体や心でキャッチしたものを表現しやすくなっていくと感じます。
わかりやすく言えば、
「えー、難しそうだなあ、できるかなあ、あ~みんな上手にやってるー、どうしよう~。」
が、
「わー、なんか楽しいー、なーんだこれでいいんじゃん、あ、そういえばもっとこんな風にやってみよう。
あー、なんか気持ちよくなってきた。あたしもなかなかじゃない。」
となるわけです。
でも、これはつまり、セラピストとしての私の未熟さの懺悔文なのですよ。
私は、セラピストになるための勉強中に、何度もいろんなワークを経験しているので慣れているけれど、
普通の方にとっては、どれも初めてのワークだし、だいたいが「アートセラピー」なんていう
あやしげなものも初めてなわけです。
セラピスト歴6年目にして、やっと、こういったことがわかってきた未熟さ。
私の周りの皆様ごめんなさああい。
それでも見捨てず、応援してくださる皆さん、ワークを受けてくださる皆さん、ありがとうございます!
まだまだ発展途上ということで・・・これからもがむばります
思いますが、同じ場所では、年に1~2回しか開催されないものだと記憶しています。
ですから、参加者にしてみれば、間が長いということになります。
なんでもそうですが、間があいてご無沙汰になってしまうと、つい億劫になったり、敷居が高いと感じて
足が遠のいてしまう傾向はあると思います。
そんな時「いつものあれ」という安心感には、絶大なものがあると思います。
そこにいけば、いつものあのワークをすることができる。
その安心感があればこそ、毎年ワークを楽しみにしているとか、数年ぶりにワークをしてみたら
前回とは違う発見があったとか、いろんな人間ドラマが生まれ、ひとりの人の心の成長に大きく貢献できるわけですよね。
私の場合は、大がかりなワークではない、こじんまりしたワークですが、それでも
繰り返しの大切さを、年々ますます感じます。
最初は、誰でもおっかなびっくりで始めますので、なかなか「自由な表現を楽しむ」までにはいかないものです。
同じ事をくりかえし、プロセスに慣れると、表現がより自由になり、頭で考え込むより
身体や心でキャッチしたものを表現しやすくなっていくと感じます。
わかりやすく言えば、
「えー、難しそうだなあ、できるかなあ、あ~みんな上手にやってるー、どうしよう~。」
が、
「わー、なんか楽しいー、なーんだこれでいいんじゃん、あ、そういえばもっとこんな風にやってみよう。
あー、なんか気持ちよくなってきた。あたしもなかなかじゃない。」
となるわけです。
でも、これはつまり、セラピストとしての私の未熟さの懺悔文なのですよ。
私は、セラピストになるための勉強中に、何度もいろんなワークを経験しているので慣れているけれど、
普通の方にとっては、どれも初めてのワークだし、だいたいが「アートセラピー」なんていう
あやしげなものも初めてなわけです。
セラピスト歴6年目にして、やっと、こういったことがわかってきた未熟さ。
私の周りの皆様ごめんなさああい。
それでも見捨てず、応援してくださる皆さん、ワークを受けてくださる皆さん、ありがとうございます!
まだまだ発展途上ということで・・・これからもがむばります