過日、上野の東京都美術館で開催中の「プーシキン美術館展」を見に行ってまいりました。
この展覧会の副題は「旅するフランス風景画」でした。
つい先日行ってきたターナー展は、もちろん最初から最後まで純粋な風景画でしたが、
こちらはやや違う印象でした。
18世紀くらいまでは、風景というのは宗教画や肖像画の背景として描かれていました。
風景をそれ単独で絵画のモチーフにするという考えは無かったのだと思います。
だって、豊かな自然の風景は、あまりにも普通に身近に当たり前に存在してましたものね。
それが19世紀コローのあたり、バルビゾン派のあたりから違ってきたように思います。
私はコローが大好きで、コローの絵に出会うと息が止まるほど嬉しくて、コローの絵の中の空気を吸うような
思いで、長い時間その絵を眺めてしまいます。
(コローの「夕暮れ」)
風景そのものの美しさに心を留めるようになったのが、この頃なのでしょうね。
でもたぶん、最初はこういう絵画は少数派だったでしょうね。
こう、なんていうか、それまではマグロのお刺身の絵、あるいはマグロを引き立たせるために
大根のツマを添えたマグロのお刺身の絵をみんなが描いていた。
ところがある時、長い西洋絵画の常識を破り、ツマの美しさに気づいた画家がツマだけを描いた。
それで、周りの画家たちは「なにそれ、ありえなーい!」と言った・・・みたいな・・・
うーん、ありえないほどくだらない例えになってしまったわ
次回は、もうちっとまともに書きます。
この展覧会の副題は「旅するフランス風景画」でした。
つい先日行ってきたターナー展は、もちろん最初から最後まで純粋な風景画でしたが、
こちらはやや違う印象でした。
18世紀くらいまでは、風景というのは宗教画や肖像画の背景として描かれていました。
風景をそれ単独で絵画のモチーフにするという考えは無かったのだと思います。
だって、豊かな自然の風景は、あまりにも普通に身近に当たり前に存在してましたものね。
それが19世紀コローのあたり、バルビゾン派のあたりから違ってきたように思います。
私はコローが大好きで、コローの絵に出会うと息が止まるほど嬉しくて、コローの絵の中の空気を吸うような
思いで、長い時間その絵を眺めてしまいます。
(コローの「夕暮れ」)
風景そのものの美しさに心を留めるようになったのが、この頃なのでしょうね。
でもたぶん、最初はこういう絵画は少数派だったでしょうね。
こう、なんていうか、それまではマグロのお刺身の絵、あるいはマグロを引き立たせるために
大根のツマを添えたマグロのお刺身の絵をみんなが描いていた。
ところがある時、長い西洋絵画の常識を破り、ツマの美しさに気づいた画家がツマだけを描いた。
それで、周りの画家たちは「なにそれ、ありえなーい!」と言った・・・みたいな・・・
うーん、ありえないほどくだらない例えになってしまったわ
次回は、もうちっとまともに書きます。