12月29日の夕刻に訪れた日野城跡。
このブログでも度々登場する戦国武将の蒲生氏郷(がもううじさと)の居城があった場所で、今は日野川ダム湖のほとりにあります。駐車場や公衆トイレも整備された水辺公園のそばなので便利でした。
近江六角氏の重臣 蒲生賢秀の三男として日野に産まれた氏郷は、観音寺城の戦いで六角氏が織田信長に敗れると、信長に人質として差し出され、父の賢秀は信長に臣従しました。
氏郷は人質ながらも信長にその才能を見出されて寵愛され、信長の次女 冬姫と結婚し、日野に戻りました。その後は織田方の柴田勝家の与力となり、織田軍武将として、浅井・朝倉を攻めた姉川の戦い、武田と対決した長篠の戦いなどで武功を挙げました。
林の中に入っていきます
「石垣崩落の恐れあり、事故が起こっても責任は負いません」の看板がちと怖い。。
土塁跡だそうです。
天正10年(1582年)、本能寺で信長が討たれると、氏郷と賢秀は安土城内から信長の一族を助け出して保護し、日野城に戻って軍備を整え、明智光秀に対決姿勢を示します。
明智方は長浜、佐和山、安土を攻略、次はこの日野攻略の予定だったそうですが、その前に山崎で秀吉軍と激突して、光秀は敗死しました。
石垣に挟まれた谷筋・・・慎重に歩きます。
実はこの場所、映画『るろうに剣心 -伝説の最期編-』で、剣心と四乃森蒼紫が対決したシーンの撮影場所でした。
日野城(中野城)跡
1400年代半ばに蒲生氏によって建てられた日野の音羽城と区別することから、この城は中野城とも呼ばれています。
信長亡き後、蒲生氏郷は羽柴秀吉に従って、引き続き様々な武功を立て、伊勢松ヶ島12万石の城主となり、小田原征伐の後に会津黒川92万石の大大名となりました。
その後、氏郷は文禄4年(1595年)に京都で病死。1600年の関ケ原の戦いの後に日野城(中野城)は廃城となりました。
つづく
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