3月3日
滋賀県甲賀市水口町にある浄土宗三録山 唯称寺に立ち寄ってみました。何度が車で前を通ったことがあり、いつも気になっていたお寺さんですが、ようやく訪問することができました。
本堂
元々この地には二つの寺院(玉田寺、福勝寺)があり、康応元年(1389年)に無門和尚を開山とし、二つの寺院をひとつにまとめて唯稱寺(唯称寺)となりました。この場所に移ったのは貞享3年(1686年)ということです。
この唯称寺は2020年に日本遺産『忍びの里 伊賀・甲賀-リアル忍者を求めて-』の構成資産に追加されました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの直前、伏見城で徳川方として戦い、多くの戦死者を出した甲賀衆(甲賀武士、甲賀忍者)。その後、伏見城の戦いで討死した甲賀衆の子弟から与力十人、同心百人を集めた甲賀百人組が幕府お抱えの鉄砲隊となりました。江戸の千駄ヶ谷に組屋敷、権田原に鉄砲場を拝領し、江戸城大手三門の警備を担当したそうです。また、大坂の陣でも高性能の大砲を鋳造して功績を上げました。
本堂改修記念の鬼瓦のモニュメント
迫力のある鬼瓦 社寺や古民家の屋根の飾り瓦を見るのが大好きです。
伏見籠城戦から 250 年目にあたる嘉永2年(1849年)に、甲賀百人組の与力、同心の代表者が訪れ、この唯称寺をはじめとする甲賀衆ゆかりの5つの寺院で、籠城戦で戦死した先祖の250回忌法要を幕府の援助を受けて行ったそうです。
浄土宗のお寺なので、比叡山に旅立つ宗祖 法然の幼少期(お名前は勢至丸)の像がありました。
法然ゆかりのイチョウ
勢至丸が岡山の実家から比叡山に出発される時、使っていた公孫樹(イチョウ)の杖を地面に挿したところ、後にそこから根が伸び大きなイチョウになったそうです(岡山県久米郡の誕生寺の逆木の公孫樹)。
昭和55年に五重相伝のお礼参りに行かれた唯称寺第二十二世安譽上人がそのイチョウの銀杏を持ち帰り、植えたのがこの大きなイチョウです。
境内の墓地には、甲賀百人組の与力だった山中福永をはじめ、山中組10士の墓もありました。
甲賀百人組の歴史は知らなかったので、とても興味深いお寺散策となりました
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