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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-キダ・タロー

2021-04-01 07:56:22 | MUSIC

 「キダ・タロー」

 誰か忘れていませんか?とずっと気になってたんだが・・・

 ようやく思い出しました(笑

 「浪花のモーツァルト」この人を忘れていたとは・・・大阪人として失格ですな(笑

 代表曲といってもCM曲ですが、「♪ピィ~チ、ピィ~チ、とぉれ、とれカニ料理~」「♪有馬兵衛の向陽閣へ」「♪出前いっちょ」などなど、ワンフレーズのインパクトが強い。その総作曲数は5000曲とも(笑

 

 意外と知られていないのが本名。

 本名は「木田 太良(きだ たろう)」。そのまんまやん!

 1930年12月6日生まれの90歳!まだまだお元気なようです。

 

 【一聞百見】「まだまだ作曲を」90歳迎える浪花のモーツァルト、キダ・タローさん 2020.7.17 16:00

 関西人には特段、説明は要らないだろう。「♪と~れと~れ、ぴ~ちぴ~ち、かに料理~」をはじめ、この人が手掛けたメロディーは関西人の脳内のみならず、DNAに染みついていると言っていい。これまでに「分からんけど、3千曲から5千曲」を世に送り出したという〝浪花のモーツァルト〟は何と今年の12月6日で卒寿(90歳)を迎える。これはぜひ、一度しっかり話を聞かねばと、取材に伺ったのだが、創作意欲に全く衰えはなかった…。

(聞き手・岡田敏一編集委員)

■人生変えたジャズの輝き

 取材はコロナ禍以前の3月上旬に行った。取材場所の大阪府豊中市内のホテルに現れたキダ・タローさんは、テレビでおなじみのにこやかな風貌と親しみやすい佇(たたず)まい。年内に90歳を迎えるとはとても思えない元気溌剌(はつらつ)さと明るさで迎えてくれた。

 今では押しも押されもせぬ超大物だが、五男一女の末っ子として生まれたこともあり、幼少期は意外にも自分が前に出ていくタイプではなかった。「はにかみ屋で引っ込み思案であまえたで、どうしようもない末っ子。食べ物も好き嫌いがあって。人見知りもするし…」

 そんなキダさんが音楽の道に入ったきっかけがアコーディオンだった。太平洋戦争真っただ中の当時、不治の病といわれた結核で亡くなった兄(長男)の遺品だった。「自宅の2階で療養していた兄が欲しがったのがアコーディオンでした。親父(おやじ)は警察官で、本格的な物を買う経済的余裕はなく、おもちゃに近いものでしたが、出てくる音は本格的でした。亡くなったとき、両親は大層悲しみ、床の間にずっと飾ってあったんです」。小学生だったキダさんは、流行していたハーモニカを吹いて遊んでいたが「アコーディオンの教読本にはハーモニカの楽譜が併記してあった」ことから、たまたま、興味本位で演奏すると「姉に褒められましてね。まあ、おだてられて始めたようなもんですわ(笑)」。

 戦時下の日本。ラジオから流れてくる歌謡曲といった大衆音楽に親しみながら、アコーディオンを楽しむごく普通の少年だったキダさんの人生を決定的に変える出来事が起きた。終戦と、それに伴って日本に流れ込んできた米国の音楽、ジャズとの出会いだ。「終戦直後、旧制中学の4年生の時だったと思います。ラジオから流れてくるジャズを初めて聞きました。今まで聞いたことのない輝きと楽しさと明るさを持っていましたね。世の中にこんな音楽があったのかと。カルチャーショックという文字が色あせるほど新鮮な驚きを受けたのをはっきり覚えています」。その驚きや感動は、単に楽曲のメロディーからではなく、音楽が持つ本質的な部分から受けたものだった。

「これまで日本で親しまれた海外の音楽は、イタリアの歌曲やドイツのオペラみたいなクラシック音楽。要するに、ありがたい音楽ばっかりやった。なのに、これほど人生に密着した心から楽しめる音楽があったんやと…」

 トランペット奏者のハリー・ジェイムスやカウントベイシー楽団、女性歌手ダイナ・ショア、男性歌手フランク・シナトラらのジャズ・サウンドに夢中になった。作曲家キダ・タローさんの原点は、実はここにあった。

■浪花のモーツァルト誕生

 「後にも先にも、これを超える衝撃はありませんでした」と振り返るジャズとの出合いを経て、音楽活動を本格化させたキダ・タローさん。ちょうど、周辺では第1次ギターブームが到来し、バンド活動が活発化。アコーディオンが弾けるキダさんも同級生から誘われてバンドに。「バイオリン奏者もいたので、アコーディオンとバイオリンというわけで、タンゴバンドを組むことになりました」

 5人組のこのバンド、バイオリン奏者が俳優の藤岡琢也氏だったのは有名な話だが、レパートリーはたった3曲。しかし「関学の大学生主催のダンスパーティーに週1回くらい呼ばれたりして。みな金持ちやから、でかい家ですねん。そこで3曲演奏してお金をもらえました」。

 珍しがられて、演奏の場はどんどん増えた。神戸のダンスクラブでも専属扱い。しかし、アコーディオンでの作曲作業に限界があるので、同じように鍵盤が付いているピアノに転向。十数人編成のジャズのビッグバンドのピアノ奏者として、大阪にできたばかりのダンスホールや進駐軍のクラブなどで腕を上げた。


 そんなある日、大阪・ミナミのパラマウントというキャバレーでバンドマスターから初めて作曲を依頼された。「18歳か19歳でしたね」。その曲を歌ったのが後の「かしまし娘」の長女、正司歌江さんだった。それにしても、なぜ、すぐに作曲できたのか? 「ジャズバンドでピアノを演奏すること自体が作曲作業なんです。楽曲はコード(和音)とメロディーとリズムでできており、決められたコードとリズムにアドリブ(即興)でメロディーを乗せる。すなわち、演奏中は絶え間なく、強制的に作曲してるわけですわ」。おまけに編曲もしっかり学んでいた。「ジャズピアノの楽譜には、コード進行とリズムのほか、各セクション(楽器)の動きが書いてある。どんなアホでも毎日、それを何万回も見て演奏してたら楽曲の構造が手に取るように分かって、編曲のノウハウが身に付く。当時、はやっていた映画音楽も簡単に楽譜に起こせましたよ」

 関西学院大学も中退し、そんな〝毎日が作曲と編曲〟の日々を30歳あたりまで過ごしたが、そんな頃、キダさんのバンドが在阪テレビ局の音楽担当プロデューサーの目に留まり、テレビ関係の仕事が増えた。ちょうどテレビが新媒体として影響力を発揮し始めた頃。テレビの番組やCMに音楽は不可欠とあって、キダさんには仕事が殺到するようになった。局側から「何でもええから数を作ってくれ」と注文を受けたキダさんは、夜のニュース番組のテーマ曲をはじめ、注文に素早く応えた。そんな芸当ができたのは関西ではキダさんだけだった。

 「名曲1曲で似たのは20曲は作れますからね。屁のような1曲も含めたら1日40曲くらい作ってましたかなあ(笑)」。〝浪花のモーツァルト〟キダ・タローの誕生だ。一体、これまでに手掛けた楽曲は何曲か知りたいところだが、当人は気にも留めていないらしい。「取材なんかで尋ねられたら、3千曲から5千曲いうてますけど、1万曲かも分からん。けど、あんまりアホなこと言うのもなんやし、3千曲くらいですかな~」

■実はモーツァルトが大嫌い

 30歳あたりから作曲活動を始め、昭和39年、女声コーラスグループのメンバーだった木田美千代さんと結婚。この年に作曲した「ふるさとのはなしをしよう」(作詞は伊野上のぼる、歌は北原謙二)から、プロとして数多くの仕事を引き受けてきた。テレビ番組では「プロポーズ大作戦」や「ラブアタック!」(いずれも朝日放送)、「バラエティー生活笑百科」(NHK総合)、CM曲だと「アサヒペン」や「出前一丁」、「チキンラーメン」(いずれも日清食品)など、関西人なら誰もが一度は口ずさんだことがあるメロディーを世に送り出した。

 そんなキダさんの代表作のひとつが「かに道楽」(歌はデューク・エイセス)だが、名作になった理由を尋ねると意外な答えが。「歌詞が良かったからです。あの歌詞は(作詞家の)伊野上のぼるさんが手掛けられたのですが、商品名や会社名より先に〝とれとれぴちぴち〟が前に来ていて、社名は一番印象の薄い場所にあった。ウリは〝とれとれぴちぴち〟やなと分かったので、あれができたわけです」。どんな時も、歌詞が全てを導いてくれるのだという。「歌詞が〝こう曲を書いてくれ〟と私にいうてくれるんですわ。素晴らしい歌詞を頂くと、それに導かれるんです」

 こうした創作活動に向かう真摯(しんし)な姿勢は大御所になった今も変わらない。「大抵の曲は恐怖から始まるんです。注文を受けたものの〝できなんだらどうしよう〟〝俺にできんねやろか〟と恐れおののきながら〝多分何とかなるやろう〟との思いで乗り切ってきましてん」。にわかには信じがたいが、この言葉に偽りはなさそうだ。「せやから、しゅっちゅう夢をみますねん。もうじき番組の本番やのに、曲ができてなくて、楽譜が真っ白なんですわ…」

 テレビの素人歌合戦に審査員として出演した際のユニークなコメントが受け、平成元年に「探偵!ナイトスクープ」に「岸和田の音痴な信号機」のネタで審査委員長として初登場。後に顧問を経て最高顧問に就任し、同番組が名付けた〝浪花のモーツァルト〟の愛称で存在感を高め、タレントとして茶の間の支持を集めた。辛辣(しんらつ)さの中にも愛とユーモアがあり、決して下品にならないトークは、文字通り人柄のなせる技といっていいが、実は、その根底には静かな反骨精神が宿っていた。

 「僕は〝浪花のモーツァルト〟と呼ばれてますけど、モーツァルトは大嫌いです。ああいう一見、冷(ひや)こい音楽は嫌いです。ショパンみたいに、切ったら血がガーッと出るような情熱のほとばしる音楽やないとあきません」。その反骨精神の源をたどると、戦時中の体験に行きつく。「あの頃、ラジオから流れてきたクラシックは、荘重で重々しくて、肩肘張っていた。権威主義といいますかね…。それに反感を抱いていました。その裏返しやと思います」

 年末に卒寿(90歳)を迎えるが、まだまだ現役。「仕事の依頼が来ると嫌で仕方ないんですが、いざ書き始めると楽しくて。まだまだ曲を書きたい。良い作曲をしたいですね」

【プロフィル】きだ・たろー 本名・木田太良(きだ・たろう)。昭和5年生まれ。兵庫県宝塚市出身。関西学院高等部時代にタンゴバンドを結成。その後、プロのピアニストに転向し、作曲活動をスタート。「プロポーズ大作戦」や「ラブアタック!」(いずれも朝日放送)といったテレビの人気番組のテーマ曲や、「かに道楽」をはじめとするCM曲など3千曲以上を作曲。〝浪花のモーツァルト〟の愛称で親しまれている。夫人はタレントの木田美千代。

*https://www.sankei.com/premium/news/200717/prm2007170005-n1.html より 


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