さきほどの記事の延長上にあるのが、「ネット言語」について。
前述のものは、ある程度の「情報機関」が発信するものに当てはまる。
しかし、同じ「ネット」上では、私のような稚拙な「無責任」な文章を書くものもいる。同一ネット上には、ありとあらゆるレベルの「ネット言語」が存在する。
携帯で使用される場合は、もっと簡略した「短縮言語」も存在する。自分と相手だけが分かる「言語」。絵文字も多用し、ある意味ビジュアル化されたものまで。
「受け手」によって、「言語」「文章」は当然のように変化する。
「目上の方」「尊敬する方」と「友人」とでは、自ずと全てが変わってくることだろう。
ただ現在では、それほど「かしこまった」ものを書くことが少なくなってきているかも知れない。学生時代でも、「先生」を敬うこともなくなってしまっているし、場合によっては「両親」に対してでも。
だから「必要性」が薄れ、勉強することもなくなってきているのかも知れない。
もちろん「受け手」「読み手」が限定される場合は、それはそれでいいのだが、ネットではある意味「出し手」「書き手」が望んでいない「不特定多数の受け手」に対して届いてしまうことがある。それまでが同一ネット上にならんでいる世界である。
こんなことを言っている私も、ココで書いている文章・文体と、本業のブログ(http://ameblo.jp/okome-only-komeya/)とではかなりの差があるように思う。
二重人格のようなものになってはいないか?とちょっと心配もしているのだが・・・。
今後も「発展」「進化」ある意味「退化」するかも知れない「ネット言語」。どこまでなら許されるとか許されないとかの指針がない以上、まだまだ変化していく「ネット言語」に興味は尽きない。