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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-細野晴臣

2021-02-28 07:00:37 | MUSIC

 「細野晴臣」

 1947年7月9日生まれの73歳

 細野晴臣 “巻き込まれ型の50周年”記念インタビュー 2019.12.09
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 今年(2019年)はデビュー50周年。はっぴいえんど、YMOといった伝説のバンドのメンバーとして活動し、1980年代には松田聖子や中森明菜など歌謡界のトップアイドルに楽曲を提供。『万引き家族』など映画音楽も手掛け、小山田圭吾や星野源など後続からの熱いリスペクトも集める。長年一貫して音楽シーンに多大な影響を与え続ける希代の音楽家、細野晴臣。

 今回のアニバーサリーイヤーに際しては、セルフカバーアルバム『HOCHONO HOUSE』の発売、アメリカ公演や展覧会『細野観光1969-2019』があり、ドキュメンタリー映画『NO SMOKING』が上映された東京国際映画祭ではレッドカーペットを歩いたり……。

 ファンにはお祭り騒ぎだが、ご本人は「巻き込まれ型の50周年」とあくまで淡々とほほ笑むばかり。どこまでもそのたたずまいは軽やかだ。そんな細野さんの、“いま”の音楽づくり、そして、ひょうひょうと自由に「いま」を旅する秘訣(ひけつ)をインタビューした。前後編に分けてお届けする。

 “巻き込まれ型”で迎えた50周年
 デビュー50周年記念のイベントなどが目白押しだ。ファンとしては非常にうれしいが、シャイなイメージもある人だけに、細野さんがこれだけ人前に出られることが続いているのは意外な気もする。

 「自分がいちばんびっくりしてます(笑)。最初は他人事のようなつもりだったんですけど。のんびり構えてたら、だんだん巻き込まれていって。巻き込まれ型の50周年ですね」

 “巻き込まれ型”。つまり、周りが細野さんを放っておかない、ということだろう。ともあれ結果的に、50年の軌跡を概観する機会の中で、過去のご自身と向き合う時間が続いたのではないか。

 「できれば向き合いたくないんですよ。僕は普段、鏡を見ずに暮らしていますから。それは比喩的な意味じゃなくて、実際に鏡を見るのが好きじゃない。自分の姿をいいと思ったことがないんで」

 本当ですか? と思わず返してしまった。今日もモノトーンのセットアップスーツにハンチング帽を合わせた独特のスタイル。いつも気負わず圧倒的におしゃれな細野さんである。

 

 自分に向き合いたくないという細野さんだが、音楽では、今年、1973年のファーストソロアルバム『HOSONO HOUSE』をリメイクしたアルバム『HOCHONO HOUSE』を発売している。セルフカバーの制作過程はどんなものだったのか。

 「『HOCHONO HOUSE』を気軽にやり始めたんだけど、だんだんその難しさがわかってきてね。自分の過去の作品と向き合うっていうツラい作業を、なんでやり始めちゃったんだろうって……(笑)。まずは後悔したんです。本当は過去の作品は過去のままで放っておくべきなんです。でも、なんか魔が差したというかね。『HOSONO HOUSE』は自分ではあまり聴かないアルバムなんですよ」

 とはいえ、『HOSONO HOUSE』は、今の若いリスナーにも、とても人気があるアルバムだ。

 「それをここ数年、だんだん知るようになって。若手のミュージシャンたちから言われることが多かったんです。『音が良い』とかね。『どこが良いんだろう?』とか思いつつ(笑)。自分ではわからないけど、みんなコレ好きなんだな、っていうことがわかってきたんで。じゃあちょっと……『からかいたいな』っていうか(笑)、『HOSONO HOUSE』が好きな人たちの反応を見たくて」

 人生、退屈しちゃうのが嫌
 細野晴臣の50年を見て改めて驚かされるのは、その大胆で柔軟な「変化」だ。「日本語ロック」を立ち上げた「はっぴいえんど」から、エキゾチックな音楽の桃源郷を探し求めたハリー細野の時代、テクノポップの旗手として国際的な活動を展開したYMOなどへと、長らく時代の先端で日本のポップ・ミュージックをリードしながら、音楽性と共にルックスまで変わっていく。

 そんな細野さんからはいつも「いま」の匂いがする。”変わらずに、変わり続ける”という柔軟な変化と一貫してブレない定点を両方持続していくコツはあるのだろうか。

 「大ヒットしないことですね」

 このひと言。思わず笑ってしまった。しかし1980年代には松田聖子や中森明菜など歌謡界のトップアイドルに提供し、大ヒットした楽曲はたくさんある。

 「曲はあるんですけど、個人のキャラクターがヒットすると、そこから抜けられなくなるんですよね。もちろん歌謡曲の歌手の皆さんは、一曲大ヒットすれば一生食べていけるっていうメリットはありますよ。ただその替わり、そのヒット曲をずーっと歌い続けなきゃいけないし、他のことが自由にできなくなるんですよね」

 ピークをあえて作らない、と。どこか心に留めているのだろうか。細野さんは「いや、作らないのではなく、作れない」と苦笑いした。でも細野さんがずーっと時代の中で気ままに横滑りしていく感覚というのは、僕らが追体験しても面白い。

 「たぶんね、アーカイブが進んだ今の時代だからこそ、僕の50年の活動なんかも俯瞰(ふかん)できるんです。自分の音楽的変化の様子を皆さんが一望できるし、自分でも見ることができる。そういう動きのおかげで、過去の活動や作品も楽しんでいただけるようになってきたのかなと。でも自分がその時代時代で一所懸命やっている最中はね、50年の全体像なんて当然まったくわからないですから。リアルタイムでは“細野さん、急に変わっちゃったね”とかいろんなこと言われてきました(笑)。全然違うように見えるフィールドに突然行っちゃうものですから、後をついてくる人があんまりいなかった」

 失礼な言い方をすると、興味や好奇心の赴くまま遊んでいる子供みたいな感じ。

 「全然失礼じゃないですよ。その通りです。僕の場合は自然にそうなっちゃうんですね。飽きちゃったことを続けるのが本当に好きじゃないんで。人生、退屈しちゃうのが嫌なんですよ。さすがにこの年齢(72歳)になると、別になにもしなくてもいいかなって、やっと思い始めたんですけど。若い頃は“退屈したくない”っていう気持ちが強かったし、実際好きなことが次から次へと出てきちゃう。基本的には今もそうなんですけどね」

 細野さんは、実生活でも引っ越しを繰り返すことでも知られる。都市に住みながら、旅人のようでもある。

 「生活していると、日々の生活の雑多なものはどうしても溜まっていきますよね。それがたまりすぎると、引っ越しのチャンス(笑)。でも、なかなか自由になりきれないのが悩みなんですよ」

 試みが新鮮なうちは面白いけれど、それが次の段階に移ったときにはもうつまらなく感じる。それが細野さんの「飽きる」ということだろうか。「心が躍るかどうか」に忠実になる、それが「いま」を渡り歩く秘訣(ひけつ)なのだろう。

 

細野晴臣 いまの音楽には何かが足りない感じがする 2019.12.11
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 今年、デビュー50周年を迎えた細野晴臣さんへのインタビュー。後編は、細野さんの音楽の聴き方や、自身のドキュメンタリー映画『NO SMOKING』で語っていた、今のバンドに欠けている“秘伝のタレ”について深掘りして聞いた。細野晴臣さんが思う、いまの音楽の面白いところ、足りないところとは?

 好きな音楽を聴く時は音質にこだわらない
 音楽の聴き方について――。例えばオーディオにこだわる人もいる中で、細野さんはどうなのだろうか。

 「場合によるんですけど、だいたい、その音楽が好きな場合は音質にこだわらないんですよね。例えば『あの曲、何だったかな?』とか気になったことはインターネットで検索して、そのままYouTubeで聴いちゃったりするんで。あとはiTunesとか」

 特に細野さんの世代で、パソコンから流れてくる音をこれだけポジティヴに捉えている音楽家は珍しいのではないか。

 「かもしれないですね。ひとつには、聴く立場と作る立場で違うんですよ、音に対する接し方が。作る時は大きなスピーカーをフルボリュームにして、良い音を作ろうという気持ちが強い。常に良い音を探している。

 ただリスナーとしては、良い音楽はちっちゃい音量で聴いても良いから。あるいは『つまんない曲だな』と思ってボリュームを上げて聴くと、『ああ、音は良いんだ』とかね(笑)」

 昔、評論家・コラムニストの植草甚一が安価で小さなレコードプレイヤーでジャズを聴いていたというエピソードを思い出す。

 「ああ、わかるなあ。僕自身、本当にそうやって一般の人々と同じように音楽を聴いてますからね。特殊な聴き方をしてるわけじゃなくて。オーディオマニアの人には憧れますよ。自分のリスニングルームを作って、理想的な音でレコードを聴くのは、なかなか贅沢な趣味ですよね。でも自分はやらない、というか、やれない(笑)。

 今はCDやレコードは専用の倉庫に入れてあるんですよ。自分のアーカイヴはいっぱいありますから、全部データ化して保管してあります。だからパソコンさえあれば大丈夫なんです」

 音楽ビジネスの変化でいうと、最近またアナログレコードの復権の動きもあるが、レコード、CDから、ダウンロードやストリーミング配信へ……特にここ10年くらいは劇的な変化が進んでいる。この流れを細野さんはどう見ているのだろうか?

 「僕はもともとレコードで育ったんで、アナログ再生の音は大好きなんですね。ちっちゃい頃はSP盤(1970年頃まで生産されていたシェラック素材の78回転レコード)でしたし。それでアナログからCDに変わった時にちょっと抵抗があったんですよ。『音があんまり良くないな』って。でもだんだん耳が慣れてきちゃって(笑)。『ま、いっか』みたいな。

 流れには逆らえない。こちらの耳も現在に至るまでの聴き方の層が重なっていくもので、“慣れ”も含めてリスナーとしての耳の感覚も勝手にアップデートされちゃうんでしょうね。善し悪しは別にして、ですけど」

 音楽も、二番煎じ、三番煎じはおいしくない
 「今の時代の音はすごく面白いなって思うんですよ。いろんな意味で変革期だなって。今までと違う音が聴こえてきたりするんです。“音像”が変わってきたってことですかね。

 ヘッドフォンで聴くと良く分かるんですけど、最初、その変化に気づいた頃は耳が取りつかれましたね。聴いたことのなかった音像の心地よさに、心が奪われるんですよ」

 細野さんは一時期、流行音楽の“音像”が変わってきたことに注目(注耳?)していたという。

 「例えばマイケル・ジャクソンの晩年の作品とかブリトニー・スピアーズの最盛期とか、あの頃から今までになかった音の表情が聴こえるようになってきて……。最近はもっと進化していて、例えばテイラー・スウィフトもすごい音がする。ちっちゃい音量で聴くとわりと普通のポップスなんだけど、実は音が複雑にデザインされているというか。

 一時、そういった音像の変化にすごく心を奪われていたんですけど……。ただね、しばらくするとちょっと飽きてきて(笑)。自分の興味はそんなに長くは続かなかったですね。

 もう一方では非常にパーソナルな音世界を作ってくる作家主義があってね。インターネット世代と言いますか、若い皆さんがそれぞれのやり方で良い音を作ってるんで、今はそちらに可能性を感じています。ただ僕自身の音作りと言えば……どっちつかず(笑)。どのスタンスで行くかは固定していないというか、まだ決めかねてる」

 メジャーな音とインディーな作家主義の音の両方に刺激を受けた細野さんの、その狭間にある何か鳴ったことがない音……。

 「そんな感じです。だから『HOCHONO HOUSE』の音作りに関しては、迷いながらやってたってところもありますね」

 思えば自身の半生と音楽活動を振り返ったドキュメンタリー映画『NO SMOKING』の中で「今のバンドには“何か”が欠けている。秘伝のタレのようなもの」という印象的な発言があった。その“何か”にはどんな思いが詰まっているのだろう。もうひと言付け加える言葉はないか聞いてみた。

 「う~ん、ひと言はないな……(笑)。足りない感じがするかな?っていう程度で。難しい。わからないですよ。僕はわりと衝動的なところが強いですからね。音楽を聴いて“これ良いな”って思う瞬間があるんですけど、それは分析じゃないんですよ。感覚なんです。匂いとか触覚とかと同じで、心が躍るとか、感情が揺さぶられるとか。非常にフィジカル(肉体的)な感覚。それが今の音楽にはちょっと足りないなっていう感じです。

 子供の頃はブギウギを聴いて、反射的に踊り出しちゃうってことがあったので。ロカビリーもロックンロールもそうでした。面白いポップ・ミュージックってみんなそうだったんで。理屈の前に気持ちやカラダが動くというか。それが当時の“新しさ”だったんですね」

 なるほど、この音像の問題は映像に似ているかもしれない。テクノロジーの進化に連れて映像の質はどんどん更新される。ただしCGIやVFXの発展と共に失われていくのは、まさに生身の肉体性だ。

 「ただヴァーチャル的な映画も素晴らしく成長する時はいろいろ発見があって面白い。そういう時期もあるでしょ? だけど最新の手法をみんなが使い出すと、何か平均化されて面白くなくなるっていう。音像も映像も、それが今の感じですよね。お茶と同じで二番煎じ、三番煎じはおいしくないんです」

 最後に、細野さんの音楽に影響を受けたと自ら語る“フォロワー”のアーティストたちの音楽を、細野さん自身はどのように聴いているのだろうか。

 「うーん……あんまり聴かない(笑)。というか、僕に影響を受けたと言ってくれる人の音楽を聴いても、『どこに自分の影響があるんだろう?』ってわからないことが多いんです。

 ただ最近、15歳のキーポン(KEEPON)君っていう子がね、いろいろ自分の音源を送ってきてくれて、それはびっくりしました。僕の曲のカヴァーを送ってきてくれて。『パーティー』と『終わりの季節』。オリジナルも面白いですね。それが非常にはっぴいえんど的だったり、大瀧詠一にそっくりの声だったり。僕が作るような曲だったりね。こんな子がいるんだなって、それは非常に面白かったですね」

 この音楽界の軽やかな巨人は、きっと今日も、そして明日も何かに夢中になったり、飽きたりして、退屈するヒマもなく時を重ねていくのだろう。細野さんの自由な旅はひたすら「今」を楽しみながらずっと続きそうだ。

 (取材・文=森直人 撮影=野呂美帆)

 細野晴臣(ほその・はるおみ)
 1947年東京生まれ。音楽家。1969年、エイプリル・フールのメンバーとしてデビュー。1970年、はっぴいえんど結成。73年にソロ活動を開始。同時にティン・パン・アレーとしても活動。78年、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を結成。また歌謡界での楽曲提供を手掛け、プロデューサー、レーベル主宰者としても活動。YMO散会後は、ワールドミュージック、アンビエント・ミュージックを探究、作曲・プロデュース、映画音楽など多岐に渡り活動。2019年にデビュー50周年を迎え、3月にファーストソロアルバム『HOSONO HOUSE』を新構築した『HOCHONO HOUSE』をリリースし、6月にアメリカ公演、10月4日から東京・六本木ヒルズ東京シティビューにて展覧会『細野観光1969-2019』を開催。自身の半生と音楽活動を振り返ったドキュメンタリー映画『NO SMOKING』が公開中。

*https://www.asahi.com/and_M/20191209/7696736/ より

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<日本酒> 栃木 澤姫/井上清吉商店

2021-02-28 06:50:28 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(関東信越国税局)】
 〈栃木〉 澤姫/井上清吉商店

 

 澤姫のふるさと 「白澤宿」
 奥州街道の宿場町・白澤宿は、古来より生活用水・農業用水として活用されてきた水路が街中を巡り、今も水車が廻る水の街として知られ、宇都宮市の景観形成重点地区として指定されている。その中心地に位置する当蔵・井上清吉商店は、その肥沃な土壌と豊かな水資源を活かし、地域に根差した日本酒造りを営んでおります。

 銘柄の由来
 「地域に愛される酒を造りたい」という願いから、地元の地名・白澤から「澤」の字を譲り受け、そこに愛される象徴である「姫」の字を合わせ「澤姫(さわひめ)」と命名したとされています。商号である「井上清吉商店」は2代目当主の名から。そして「下野」とは我々の愛する地元・栃木県の旧称。古来より「名は体を表す」との諺がありますように、「澤」という字の持つ清冽で爽やかなイメージと、「姫」という字の持つ優しく優雅なイメージが共存するような美酒造りを追及しています。

 澤姫のこだわり
 コンセプトは「真・地酒宣言」!!
 澤姫は普通酒から大吟醸・鑑評会出品酒まで、全製品の原料米に栃木県産米を100%使用しており、とことんまで地元・栃木県産素材にこだわります!
 全国に目を向ければ、兵庫県産「山田錦」や岡山県産「雄町」など、素晴らしい酒造好適米が存在し流通しているのは百も承知ですし、それらの優良品種の育種に関わられた先進県の技師の方々や、その品種を用いた王道的酒造法を編み出した先人たちには畏敬の念を抱いてやみません。

 だからこそ、我々は地元産米のみを用い、伝統の技術に革新というスパイスを加えながら、誇りをもって王道に挑み続ける酒蔵でありたいと考えています。いや、決して反骨精神ではありません。アンチテーゼでもないんです。栃木に生まれ育った酒造家としての必然的な宿命であり、本当にごく自然な挑戦であると感じています。

 仮に我々の酒造りがある一定の評価をされたとすれば、当然用いている原料にもスポットが当てられます。県内外からの酒米の受注が増加することで栃木県産酒造好適米の需要と生産量が伸びれば、地元農業への貢献ができるかもしれません。我々の蔵の周りの田んぼが酒造好適米になれば、当然我々にもメリットはあります。酒処のイメージが増し、酒蔵自体が観光資源として地域貢献なんていうのもいつかはできるかもしれません。何と言いますか…まあ夢を語ればキリがありませんが、地域資源にとことんまでこだわることで、我々の酒造りが名実ともに地元に笑顔を生み出す源になるんじゃないかなってのを、我々は大真面目に考えている次第です。そして、それこそが我々の信じる製造コンセプト「真・地酒宣言」の基本指針であり、我々を様々な挑戦に駆り立てるエネルギーの源なのです。

 ・・・とは申し上げましたが、基本的に我々は奇抜な酒造りを追い求めているわけではありません。
 杜氏をはじめとした蔵人は若手職人が中心ではありますが、伝統を重んじ、日本文化の担い手として、後世に残せる酒造りを常に追い求めています。決して器用な蔵人ばかりではありませんし、斬新な設備があるわけでもありません。だからこそ、我々にできる精一杯を、愛する地元産素材の持つ潜在能力を引き出すという一点に注いでいる次第です。日本中の名だたる酒米を使いこなすことはできなくても、地元・栃木の厳選素材だけは世界中の誰よりも上手に使いこなせる、無骨ではあれ実直な積み重ねを活かす、そんなスタイル・社風でありたいと考えています。皆様に美味しいと喜んで頂ける美酒造り。そして新・地酒王国とちぎ確立へ。澤姫の挑戦は日々続いています。

 ◆こだわりのポイント◆
 古きを訪ねて新しい知見を得るという意味の「温故知新」という言葉がありますが、澤姫では古来伝統の天然醸造法である「生酛(きもと)造り」と「山廃造り」にも同時に取り組んでいます。目指す酒質は必ずしも昔ながらの重厚なタイプではありませんが、失敗を恐れず古き技術を積極的に実践することで、いわば「澤姫スタイル」の復活醸造酒が近年確立しつつあります。また、近年では超濃醇酒質である「試験醸造純米酒 GOLD」のような新しいタイプの日本酒も発表し、国内外から大きな評価を得ています。これからも澤姫蔵人達の挑戦にどうぞご期待ください!

 

 澤姫は、「後味の軽さ」にこだわります!
 日本酒は、食べ合わせによっては一緒に楽しむお料理の旨味を格段に膨らますことができる「究極の食中酒」であることが知られています。私どもの作品「澤姫」も、ご家庭やレストラン・酒宴の場で食卓に彩りを加える食中酒でありたいと考えています。過去のワインブームの影響もあり、食中酒の条件として「酸味」が注目されていますが、かつて日本酒業界では過ぎた酸味をタブー化していた時期もありましたので、現在のこの風潮には酒造家として純粋に楽しさ、そして喜びを感じています。表現の幅が広くなり、様々なタイプのお酒の提案が可能になりました。

 私どもは決してトレンドを追いかけているわけはありませんが、長いスパンで考えると、全国的に日本酒の味わいはライフスタイルの変遷に伴い、時代と共に常に変化していると言っても過言ではありません。かつて隆盛を極めた淡麗辛口スタイルから濃厚芳醇型にシフトし、近年は甘口傾向が顕著になり始めているのも感じています。旨味や香り、甘さ辛さなど、何かしらの極端かつ強烈なストロングポイントを持つニューウェーブ系の日本酒も目立つようになりました。

 例え話になりますが、現在の斬新なインパクトを持つG系ラーメンブームの中で、「古き良き昔ながらの中華そば」という古典王道的スタイルを売りにして、毎日長い行列を作っている話題の名店の主人に繁盛の秘訣を尋ねたところ、「スープや具材の見直し、追加の努力を見えない所で毎日怠らないことだ。」との答えがあったと聞いたことがあります。つまり常に更新するレシピでありながら、オールドスタイルという不変カテゴリーの作品を時代に合わせて作り上げていたということです。目からウロコ、とはこの事だなと思った瞬間でした。考えてみれば当たり前ですよね。戦前のように屑野菜とダシガラだけから取ったスープで、現代のラーメンファンの舌を魅了させることができるわけありませんから。

 さて閑話休題。「澤姫のお酒は甘口ですか?辛口ですか?」という質問をお客様から非常に多く頂きます。香り華やかで口当たりソフトな甘口タイプに仕上げている純米大吟醸酒や、爽やかな香味でキレの良い辛口タイプに仕上げている純米吟醸酒など、澤姫でもジャンルによって様々なタイプをご用意させて頂いております。淡麗、濃醇にしても、香りの高さ・要素にしても然り。同じタイプの味はひとつとして存在しません。製品個別の味わいについては、各種製品のご案内ページをご覧ください。しかしながら、前述の例のように澤姫にもブランドとしての共通不変のカテゴリーがあります。それは「後味の軽さ」。我々が大切にこだわり続けている澤姫の「個性」です。

 余韻が長いタイプのお酒も時には魅力ですが、万能的な食中酒であるためには、ある程度お料理の味わいを膨らませたところで、潔くスッと消える後味の軽さが重要ではないかと我々は考えています。そして、「もうひと口お料理を食べたい!」、「もうひと口お酒を呑みたい!」と思わせるお酒。決して飲み飽きせず、杯を重ねるごとに魅力が高まる。そんなお酒が食中酒として最高であり、それこそが「澤姫」の理想形なのです。

 ◆こだわりのポイント◆
 後味の軽さを生み出すポイントは、その蔵の水質や環境などによる蔵グセも含めて多くの要素がありますが、我々澤姫蔵人が最も意識しているポイントは「菌糸の繁殖量に関わらず、使用時に硬く締まった清潔な米麹を造る」ことにあります。そのため、澤姫の米麹を造る麹室(こうじむろ)は湿度が極端に少ない超乾燥環境にしています。

 株式会社 井上清吉商店 栃木県宇都宮市白沢町1901-1

 ブランド一覧

 「澤姫」大吟醸 真 地酒宣言-「ひとごこち」使用・吟醸酒 真・地酒宣言・大吟醸
平成30年全国新酒鑑評会 金賞受賞酒 など

 

 「ひとごこち」とは、

 長野県農事試験場にて、信交酒437号と信交444号を交配させ誕生した酒米が「ひとごこち」です。ひとごこちは、美山錦よりも米粒のサイズが大きいこと、心白の発現がはっきりしていること、そして、栽培及び生産性に優れていることから非常に酒造適性が高く、たとえ50%まで搗精したとしても、美山錦よりも淡麗かつ幅のある清酒に仕上げることが出来るという特徴を有しています。そのため、ひとごこちを使用している蔵元によってはひとごこちを「新美山錦」という名でラベルに表記している場合があります。
 長野県オリジナルの酒造好適米ですが、現在では山梨県や栃木県などでも栽培が行われています。

*関東地方の酒造好適米② より

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<地理的表示(GI)保護制度> 登録番号 65.  岩出山凍り豆腐

2021-02-28 06:32:47 | 食品

 登録番号 第65号 岩出山凍り豆腐
 
 特定農林水産物等の区分 第16類 豆類調整品類 凍豆腐

 特定農林水産物等の生産地 宮城県大崎市岩出山
 
 登録生産者団体 新みやぎ農業協同組合
 
 特定農林水産物等の特性 色が白く肌理が整っており、弾力に富んだ硬めの歯触りと滑らかな舌触りを有している。独自の製法により雑味が少なく、大豆の風味が豊かで、煮崩れせずに形が整ったまま出汁がよく染み込む。郷土料理に欠かせない伝統的な具材として重宝されている。

 地域との結び付き 生産地は奥羽山脈の東側にあり、乾いた厳しい寒さにさらされるが、周囲の町に比べて雪が少なく、風もそれほど強くないことから、湿気や強風を嫌う凍り豆腐造りに適している。明治期の記録にも残る地域の伝統産業(最盛期:昭和35年に86戸)。現在、5戸の生産者により、年間およそ10万袋(20枚入り換算)を生産。

*https://www.maff.go.jp/j/shokusan/gi_act/register/i65.html より

 

 「岩出山凍り豆腐」は、弾力に富んだ硬めの歯触りと滑らかな舌触りをもった凍り豆腐です。
 地域独自の製法により、雑味が少なく、大豆の風味が豊かで、色が白くキメが整っていることが特徴です。
 煮崩れせずに形が整ったまま出汁がよく染み込むことから、地域では、郷土料理に欠かせない伝統的な具材として重宝されるとともに、その品質が高く評価され、市場での商品価格は一般の凍り豆腐に比べて2倍以上となっています。

 「岩出山凍り豆腐」は、先ず、ニガリと宮城県産大豆のみを原料として豆腐を作ります。出来上がった豆腐を5cm平方の形に切りそろえ、約-3℃の冷凍庫内で15日程度熟成させます。
 次に、一度水にさらして解凍し、水分をしぼり、アクや雑味をぬいた後、冷凍庫で2回目の凍結を行います。
 その後、戸外又は乾燥庫で乾燥を行います。
 出来上がった製品は、目視で外観を確認し、形状が不良なものを取り除いた後、金属探知機で異物混入の有無を確認します。
 以上の生産工程を、生産地内で行います。

 「岩出山凍り豆腐」の生産地は、奥羽山脈(1)の東側に位置し、乾いた厳しい寒さにさらされる地域ですが、周囲に比べて雪が少なく風もそれほど強くないことから、湿気や強風を嫌う凍り豆腐造りに適しています。
 「岩出山凍り豆腐」の生産は、明治期(2)の記録にも残る地域の伝統産業として位置づけられ、1960年の最盛期には86戸の生産者がいました。現在は5戸の生産者に留まりますが、当時の製法が受け継がれ、年間約10万袋の生産が維持されています。
 地域では郷土料理を始め、おでん(3)や鍋の具材として重宝されるほか、特に正月の仙台雑煮(4)(5)には欠かせない食材として利用されています。

 (1)奥羽山脈:日本の東北地方の中央部を縦断する日本最長(およそ500km)の山脈です。青森県から、岩手県、秋田県、宮城県、山形県、福島県、栃木県に至ります。
 (2)明治期:1868年~1912年。日本の時代区分の一つ。日本が幕府による封建制から近代化に移行した時代です。
 (3)おでん:一般家庭や飲食店で作られる日本の代表的な鍋料理のひとつ。豆腐、がんもどき、こんにゃく、はんぺん、イモ、ダイコンなどの具材を、醤油や味噌で煮込んだもので、地域によりさまざまな作り方があります。
 (4)雑煮:餅に数種の野菜、鶏肉、魚介類、魚肉練製品、豆製品などを加えて煮た汁物の料理です。日本では正月三ヵ日(1月1日から3日)に食べて新年を祝う習慣があります。
 (5)仙台雑煮:ハゼの焼き干しをダシに使った仙台地域の雑煮です。千切りにした大根、人参、ごぼう(No.40「美東ごぼう」参照)を具材に醤油で味付けをします。最後にだしをとった焼きハゼを飾るのも特徴的です。

*https://gi-act.maff.go.jp/register/entry/65.html より

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<漢字検定> 1級 読み 3.回答 4.出題

2021-02-28 06:30:50 | 漢字検定

 前回の回答

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 


 問1 咫尺-しせき-
 1 距離が非常に近いこと。

 2 貴人の前近くに出て拝謁すること。

 

 問2 稼穡- かしょく-穀物の植えつけと、取り入れ。種まきと収穫。農業。 

 


 問3 刈穫- がいかく- 穀物をかりとる。

 


 問4 浅葱-あさぎ-

 1 緑がかった薄い藍色 (あいいろ) 。

 2 《着用する袍 (ほう) の色が浅葱であるところから》六位の人の称。

 また

 -糸=葱-あさつき
 1 ユリ科の多年草。地下茎はラッキョウに似る。葉は淡緑色の筒状でネギに似る。食用として栽培。せんぼんわけぎ。せんぶき。

 2 葉ネギを若いうちに収穫したもの。小葱。  

 


 問5 仇讐-きゅうしゅう-あだ。かたき。仇敵。

 

 今回の出題

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 

 問1 煢然  

 

 問2 飛礫  

 

 問3 関雎  

 

 問4 顧眄  

 

 問5 臚列

 

 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書・学研漢和大字典 より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 東京 東京手描友禅

2021-02-28 06:19:32 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「東京手描友禅」

 東京手描友禅(東京友禅・江戸友禅)の由来
 友禅染は、江戸時代の貞享(じょうきょう)年間(1684-1688)に京都の扇面絵師であった宮崎友禅斎(日置清親_ひおききよちか)により創始されたと伝えられています。

 扇面絵師として名を知られていた友禅斎が呉服屋の依頼により、小袖に小紋模様の多彩色の図案を描いたのが評判となり、友禅模様として脚光を浴びることとなりました。

 徳川家康が江戸幕府を開設したこと(1603年)を契機に大名家の参勤交代制度に伴って、絵師や染師も他の職人達と同様に京から江戸に移り住むようになりました。京のみならず各地方の各種技術・技法の交流がはじまり伝承され、江戸特有の文化にも育まれて、より洗練されたものづくりがされるようになりました。染物には水資源が欠かすことのできない重要な要素となり、このため隅田川や神田川の河川流域には多くの染師や職人が住んでいました。

 延宝元年(1673年)に日本橋に越後屋呉服店(現在の日本橋・三越)が開設されて、近年には、その染工場が神田川上流域の高田馬場付近に造られ、多くの染師や染物関連の職種に携わる人達が移り住むようになりました。

 特に関東大震災や第二次世界大戦を契機に東京の地場産業として、目覚ましい発展を遂げて来ました。その中にあって東京手描友禅は構想・図案・下絵・糸目糊置き・友禅の色挿し・仕上げまでの工程がほぼ作者の一貫作業となっており、華やかさを抑えて単彩のなかにも秘められた美しさと溢れる気品は、江戸の粋を現代に伝えています。

*https://tokyotegakiyuzen.or.jp/yurai より

*https://kougeihin.jp/craft/0202/ より

 江戸っ子の反骨精神を表していた、江戸友禅
 「昭和も早い頃までは、川で友禅流しをする光景が見られたんですよ。今はもう、古き良き時代の遠い記憶になってしまったけれどね……」
物心ついたときから絵を描くことが好きで、おもちゃのかわりに白い紙ばかりほしがっていた、という安達雅一さん。神田で染色工芸を創業した父に触発され、大学を卒業するとすぐ友禅染めの技法の手ほどきを受けた。
 京友禅が多色多彩できらびやかであるのに比べ、江戸友禅は渋くて地味である。江戸の町で友禅が町民の間に広く行き渡ったのは文化文政(1804~30)の頃。武士が凋落して商人が台頭し、江戸の文化は爛熟期を迎えていた。幕府は階級ごとに食事や着物などについて厳しい規制を敷き、とくに町人には華美な服装を禁じたのだ。町人たちは表向きはお触れに従ったかのように、無難で地味な縞模様などの着物をまとった。
 「ところが、吉原へ遊びに行くときなど、羽織りの裏をひょいと返せば華やかな金銀をあしらった生地がお目見えする。きっかけは権力に対する反骨精神だったものが、ふだんは隠れていて見えないところにこそお洒落をする、江戸っ子の粋に通じていったんだねえ」


 後継者育成のため心動かされるものを着物に写しとっていく
 爾来200年。今、東京の友禅は、多分に現代絵画の発想に近づいている。そもそもは「何を描くか」がテーマだったが、現代では「いかに描くか」に焦点が当てられるのだ。図案は花鳥風月であっても、単なる写実に終わるだけではない。自分ならではの花や鳥を表現するため、目に見えない発想の部分を重視し、着物自体に物語性をもたせるのだという。
 「もちろん、写実という基本的な技術をなおざりにしてはいけません。私自身、デッサンの練習は今でも欠かさないしね。向島の百花園、本郷の後楽園、六義園、皇居の東御苑なんかに、よくスケッチしに出かけていきますよ。」
技術の上に何を積み重ねていくか。それは、職人個人個人の感性と発想力の豊かさにかかっている。安達さんは、どこへ行くにも常にアンテナを張り巡らせているという。
 「麗しいもの、哀れを誘うもの……その瞬間瞬間でたくさん感じるものがある。たとえば、京都からの帰り道、ふと目に止まった黄昏時の近江富士、どんな名所旧跡よりも心に響いてきたね。そんなふうに心動かされるものを、着物に写しとっていきたいんですよ。」


 伝えるためには、変わっていくことも必要
 安達さんには、友禅を通して世の中に語りかけたいことがある。もはや右肩上がりの経済成長はありえない、ゼロ成長の時代をどう生きるか――。
「本物の技術でつくられたいいものを大切にして、あなた一人の代で終わらせず、子供さんやお孫さんに手渡すことを考えてほしい。ものと一緒に価値観をも次の世代へ伝えていく。それが本当に豊かだということなんじゃないでしょうか。」
そのためには、伝統工芸も変わっていかねばならないというのが安達さんの持論だ。伝統の技法を用いながらも、新しい時代の感覚に添うよう自己改革すべきではないか、と。ときには、既製の概念をいったん壊すことも必要になるだろう。発想の豊かさを強調する安達さんの創造力は、とどまるところを知らない。何と今、縄文にハマっているという。
 「縄文文化に触れていると、肌で土の匂いを感じて胸が高鳴りますね。デザインソースは1万年前のものだけれども、友禅という作品として高めるときは私独自の表現でなければならない。一度壊して再びつくり上げていく、それは心踊る仕事ですよ。」
かつて京から江戸へと伝わったとき、友禅は土地の気風に合わせ融通無碍(ゆうずうむげ)に変化していった。今また、時代は大きな変わり目を迎えている。どうやら東京の友禅には、時空を軽々と飛び超える翼があるらしい。友禅を愛したゆまぬ創造を続ける人、その物語に引き込まれ袖を通したいと願う人の対話が途切れぬ限り、東京手描友禅は再生を繰り返しつつ後の世まで伝わっていくことだろう。

 一筆一筆、丹念に色を挿していく。

 安達さん独特の「うつし糊絵」技法。糊と染料を混ぜ合わせたものを糊筒に入れ、乾いては挿し乾いては挿しを繰り返す。友禅では重ね挿しは色が濁るから邪道とされていたが、あえて伝統の禁忌(タブー)に挑戦した

 職人プロフィール

 安達雅一

 1935年生まれ。
 父とともに完成させた「うつし糊絵」は、従来の友禅の既成概念を打破する画期的な技法。友禅染だけでなく、染屏風の分野でも活躍。

*https://kougeihin.jp/craft/0202/ より

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玩具にも変化が-LGBT

2021-02-27 12:38:18 | 米屋の親父のつぶやき

 世界的に「LGBT」が浸透しつつある。

 とうとう「玩具」にも変化が表れた。

 ミスターは時代にそぐわない、ただの「ポテトヘッド」に 米人気玩具 2021/02/26 14:21AFPBB News

 【AFP=時事】(更新)米玩具大手ハズブロは25日、ジャガイモの顔をした米国生まれの玩具「ミスター・ポテトヘッド」について、性別を区別しない「ジェンダー・ニュートラル」にすると発表した。

 ミスター・ポテトヘッドは、顔のパーツや身に着ける小物を付け替えて遊ぶことができる人形で、70年近くにわたって親しまれてきた。年内にロゴやパッケージから敬称が外され、単に「ポテトヘッド」となる。

 同社は公式サイトで当初、「象徴的なブランドのイメージを、現代の消費者に合わせて変更する」と発表。男女平等と社会的包摂(インクルージョン)を促す目的があるとし、今秋から発売される新シリーズで、子どもたちは「自分ならではのポテトヘッド・ファミリーを想像し創作できる」と説明していた。

 しかし、その後新たに出された発表では、キャラクターのミスター・ポテトヘッドとミセス・ポテトヘッドは引き続き何らかの形で存在し続けるとし、彼らは「どこへも行かない」と述べたものの、詳細は明らかにしなかった。また、男女平等と社会的包摂についての言及も削除された。 【翻訳編集】AFPBB News

*https://news.goo.ne.jp/article/afpbb/business/afpbb-3333754.html より

 

 Mr.ポテトヘッドが改名、時代の流れに合わせた名前に 妻からも重大発表! 2021-02-26
 ジャガイモの顔をした人形のおもちゃ「Mr.ポテトヘッド」が改名を発表。妻のMrs.ポテトヘッドからも、重大なお知らせが伝えられた。(フロントロウ編集部)
「Mrs.ポテトヘッド」が改名を発表
 アメリカの玩具メーカー、ハズブロ社が1952年に発売して以来、世界中で愛されている玩具「Mr.ポテトヘッド(ミスター・ポテトヘッド)」。

 ギョロリとした大きな目に赤い鼻、口ひげに大きめの耳が特徴的なジャガイモの顔をした人形で、着脱可能なパーツを好きなようにアレンジできる。

 日本でも発売初年度の売り上げが5億円にのぼるほどの人気となったMr.ポテトヘッドは、おしどり夫婦として知られる妻のMrs.ポテトヘッド(ミセス・ポテトヘッド)と一緒にディズニーアニメ『トイストーリー』シリーズにも登場。

 これまでも時代の変化に合わせて少しずつ改変がくわえられてきたけれど、ここへ来て、思い切って改名することがハスブロ社より発表された。

 昨今、子供たちに対するジェンダーの枠にとらわれない教育が推進されるなか、新たに発表されたMr.ポテトヘッドの商品名は「ポテトヘッド」。


 男性に使用する敬称である「Mr.」を排除することで、ジェンダーニュートラルな玩具として新たな一歩を踏み出す。

 Mr.ポテトヘッドの呼び名は、そのままだそうで、あくまでも商品名の変更となる。それでもパッケージからジェンダーを限定するフレーズを取り除いたことは大きな変化と受け取れる。


 家族のカタチもさまざま
 ポテトヘッドの進化はこれだけではない。これまで、男性のMr.ポテトヘッドと女性のMrs.ポテトヘッドが“夫婦”としてセット売りされてきたが、世の中には男性同士のカップル、女性同士のカップルも存在するため、おもちゃにも現実を反映すべきだと、子どもたちが自由に組み合わせを決めることができるよう、今後発売されるファミリーキットには男女2体ずつのポテトヘッドが含まれる。

 子どもたちにとって、玩具は社会について学ぶ一番身近なツール。ポテトヘッドを販売するハスブロ社以外にも、マテル社が2019年にジェンダーニュートラルなバービー人形を発表したほか、女の子向けのおままごと人形として親しまれてきたアメリカン・ガールに男の子の人形が登場。

 幼い子どもたちに性別にまつわるステレオタイプを植えつけず、自由な発想で遊び、学んでもらいたいという現代の親たちからのリクエストの高まりに応じて、さまざまな玩具メーカーが方向転換を行なっている。


Mrs.ポテトヘッドが「トランスジェンダー」をカミングアウト
 商品名の変更と合わせて、Mrs.ポテトヘッドからも重大なお知らせが。

 これまでずっと女性とされてきたMrs.ポテトヘッドは、じつはトランスジェンダー女性であると声明を通じて発表した。

 「ついに、みなさんに私がトランスジェンダーであるとお伝えできる日が来たことをとても嬉しく思います。今この瞬間、私のハートはポテトヘッドへの愛で満ち溢れています。これから2人で真実の人生を歩んでいけることにワクワクしています」。

 Mrs.ポテトヘッドは今後の展望について、「バッグコレクションのプロデュースに着手しています。あとは、自叙伝を執筆しないかというお誘いも受けています。まあ、最近はポテトヘッドに関する重大発表の準備で忙しかったので、あまりそれらについて考える時間はありませんでしたけど! ファンのみなさんには、もうすぐ良いお知らせができることをお約束します」と、米Jazebelにコメントしている。(フロントロウ編集部)

*https://front-row.jp/_ct/17434337 より

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<日本酒> 栃木 若盛 門外不出/西堀酒造

2021-02-27 08:24:36 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(関東信越国税局)】
 〈栃木〉 若盛 門外不出/西堀酒造

 

 酒蔵沿革

 西堀酒造は、初代西堀三左衛門が明治5年(1872年)に創業しました。

 時は、江戸時代幕末から明治維新の激動期。

 滋賀県蒲生郡朝日野村(現、東近江市)に居を構える西堀家の10代目当主、西堀源治郎(三左衛門)は、日光連山より湧き出す天然水と豊かな水田に魅せられ、現在の酒蔵1棟を買い譲り受けました。

※二代目、三代目、四代目(大正〜昭和期)

 酒蔵は、栃木県小山市南部の旧日光街道(国道4号線)沿いに位置します。

 栃木県は、3代将軍家光公の日光東照宮造営により、日光街道筋が賑わいを見せました。
 参拝に訪れる人が増えたことに伴い、酒の需要が増加し、現在の小山市・栃木市近辺には数多くの酒場が軒を並べました。

 明治7年のデータによれば、栃木県の酒類生産は全国第3位でした。
 江戸にも近く、酒造りに適した良質な水が得られる場所であったことがその理由と言われます。

 栃木県は、水系が那珂川水系(県北)、鬼怒川水系(県央)、渡良瀬水系(県南)の3つに分類されます。
 特に渡良瀬水系の硬度は醸造に向き、銘醸地の歴史を築いてきたことが歴史からも分かります。

 現代でも、日本酒の県内生産の7割以上が、小山市・栃木市近辺です。(2013年時点)

 当蔵の位置する小山市は、渡良瀬水系に位置し、この水系に則した酒造りを行ってまいりました。

 約3000坪の敷地内にある蔵の大半が江戸末期〜大正時代の建築です。
 創業当時からの酒蔵を今なお現役で使用している酒造場としては県内最大規模となります。

 平成20年3月、文化審議会より「長屋門」「仕込蔵」「瓶詰場」「煙突」の計4棟が国登録有形文化財として登録されました。

 平成7年には、国登録有形文化財である「仕込蔵」を改造した「前蔵アンテナショップ」をオープンしました。
 ここでは、蔵直売所ならではの試飲販売や、仕込み水をご堪能頂くことが出来ます。

 また、お客様との接点を積極的に持ち、より多くの方に日本酒の世界を知っていただきたいという想いから、毎年定期的に蔵開きイベントを複数開催しています。

・若盛祭(3月頃)
・日本酒ガーデン、灼躍の宴(夏〜秋)
・新酒初しぼりの会(12月頃)
etc.(詳しくはHP、Facebook)

 永らく地元に愛され続けてきた老舗酒蔵として、地域社会への恩返しの想いも込めた「若盛祭(わかざかりまつり)」には、毎回1000名を超えるお客様がいらっしゃいます。

 2013年、和食がユネスコ無形文化遺産に登録されたことも相俟って、ますます日本酒(Sake)が世界に注目されています。

 日本酒の伝統と技術を継承し、現代に於いて挑戦と革新を続け、国内および世界に向けて発信することで日本酒文化を後世に紡ぐことが私たちの使命と考えております。

 西堀酒造株式会社 栃木県小山市大字粟宮1452

 ブランド一覧

 「門外不出」純米吟醸 55・純米大吟醸 CLEAR BREW・大吟醸 W受賞酒 など

 「愛米魅」 I MY ME 金の純米酒

 「西堀」金箔 雄町 純米大吟醸

 「若盛」 赤ラベル・手造り本醸造 など

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<地理的表示(GI)保護制度> 登録番号 64.  ヤマダイかんしょ

2021-02-27 08:16:26 | 食品

 登録番号 第64号 ヤマダイかんしょ

 特定農林水産物等の区分 第1類 農産物類 野菜類(さつまいも)
 
 特定農林水産物等の生産地 宮崎県串間市
 
 登録生産者団体 串間市大束農業協同組合
 
 特定農林水産物等の特性 加熱すると快いもろさのあるホクホクとした食感と上品な甘さ。鮮やかな紅色。丁寧なひげ根の処理による美しい外観。

 地域との結び付き 宮崎県の最南端に位置し、温暖で日照時間が長いことに加え、水はけの良い火山灰地を有したさつまいもの栽培適地。周年出荷のための独自の越冬貯蔵方法を確立したほか、厳格な選別の実施等に昭和40年代から取り組み、全国有数の青果用かんしょ産地へ成長。近年は、輸出にも取り組んでいる。

*https://www.maff.go.jp/j/shokusan/gi_act/register/i64.html より

 

 「ヤマダイかんしょ」は、鮮やかな紅色で色つやが良い美しい外観のさつまいもです。
 果肉は淡黄色で、食味は加熱すると快いもろさのあるホクホクとした食感と上品な甘さを持つことが特徴です。
 1960年代以降、良質な青果用さつまいもの安定供給を進めてきた結果、主な出荷先である西日本の市場関係者からは、「かんしょと言えばヤマダイかんしょ」と言われるまでの高い評価を得ています。

 「ヤマダイかんしょ」は、「高系14号」に由来する系統である「宮崎紅」を用います(自然災害等の場合には、「高系14号」や、それに由来する系統を用いることもあります)。
 栽培方法は、「超早堀りトンネル(概ね1月から3月に定植し6月から7月に収穫)」、「早堀り(概ね3月から4月に定植し7月から8月に収穫)」、「晩掘り普通(概ね5月から6月に定植し、9月から11月に収穫)」のいずれかの作型で行います。
 収穫後にひげ根を丁寧に除去し、「JA串間市大束 青果用かんしょ 標準規格」として決められた4段階の品位基準(形状や外観)、7段階の選別基準(重量)に従い選別します。

 「ヤマダイかんしょ」の生産地である串間市は、宮崎県の最南端に位置し、東は日向灘(1)、南は志布志湾(2)に面しており、沖合を流れる
黒潮(3)の影響を受けた温暖な地域です。また、栽培地の主な土壌は火山灰土で水はけが良いことから、さつまいもの栽培に適した地域となっています。

 地域では1960年代から青果用さつまいもの栽培を開始、温暖な気候を活かした早出し栽培と独自の越冬貯蔵方法による周年出荷体制を確立しています。また、厳格な出荷選別に取り組むなど、市場ごとに異なる形状やサイズの要望に応えてきたことで、西日本有数の青果用さつまいもの産地としての地位を確立してきました。

 2016年現在、生産部会181戸、作付面積は500haで、年間出荷量も1万トンに達し、県内生産の約80%を誇る産地となっています。さらに、輸出にも積極的に取り組んでおり、2003年から全国に先駆けて香港への輸出を行っています。

 (1)日向灘:宮崎県南端の都井岬から大分県佐伯市の鶴御埼までの沖合を示す海域です。玄界灘(九州北部)、遠州灘(静岡県から愛知県沿岸)とともに、国内では波の荒い灘の一つとされています。
 (2)志布志湾:鹿児島県大隅半島の東「火崎(ひざき)」と宮崎県南端の都井岬との間に位置する湾の名称です。
 (3)黒潮:東シナ海を北上してトカラ海峡から太平洋に入り、日本列島の南岸に沿って流れ、房総半島沖を東に流れる海流で日本海流とも呼ばれています。南極環流やメキシコ湾流と並んで世界最大規模の海流です。

*https://gi-act.maff.go.jp/register/entry/64.html より

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<漢字検定> 1級 読み 2.回答 3.出題

2021-02-27 07:07:27 | 漢字検定

 前回の回答

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 


 問1 邏卒-らそつ-
 1 見回りの兵卒。巡邏兵。

 2 明治初期の警察官の称。のち、巡査と改称。

 


 問2 闃然- げきぜん-ひっそりと静まりかえっているさま。 

 


 問3 間隙-かんげき-
 1 物と物との、あいだ。空間的・時間的すきま。

 2 人間関係の隔たり。不和。

  


 問4 千仞-千尋-せんじん-山などが非常に高いこと。また、谷や海などが非常に深いこと。ちひろ。  

 


 問5 蒐集-収集-しゅうしゅう-
 1 寄せ集めること。

 2 趣味・研究などのために集めること。また、そのもの。コレクション。

 

 今回の出題

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 

 問1 咫尺  

 

 問2 稼穡  

 

 問3 刈穫  

 

 問4 浅葱  

 

 問5 仇讐

 

 

 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書 より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 東京 東京染小紋

2021-02-27 06:57:56 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「東京染小紋」

 東京染小紋の概要
 1.東京染小紋とは

 繊細で上品な伝統柄による単色染めの「江戸小紋」と、型紙を何枚も使い、創作が比較的自由な「東京しゃれ小紋」の2つを総称して「東京染小紋」と言います。

 2.東京染小紋の特徴

 東京染小紋の特徴は、幾何学模様の繊細さと格調高い気品があることです。武士の裃への模様付けを起源としており、遠くから見ると無地に見えるほどの細かい模様を型紙で染め上げます。

 3.江戸小紋秘話

 江戸時代にはたびたび贅沢禁止令が出され、江戸小紋の豪華な柄も取り締まりの対象となってしまいました。そこで考えられたのが、遠めに見れば無地に見えるほど細かい模様にする事でした。
 身分が高い武士ほど細かい柄の着物を纏ったため、結果として高度な染色技術が発達し、より繊細で精密なデザインの江戸小紋が生み出されることになりました。


 東京染小紋の材料
 1.生地は絹織物

 染める前の白生地には絹織物を使用します。

 2.型紙

 柿渋を用いて手漉和紙を貼り合わせた地紙に彫刻を施したもの。

 3.糊(のり)

 元糊は、もち粉と米ヌカに少量の塩を混ぜて蒸して作ります。色糊は、よく練った元糊に染料を入れて、何度も試験染めをしながら作ります。


 東京染小紋の歴史
 1.小紋の発祥

 小紋とは室町時代に発祥し、江戸時代に普及した型染めのことです。大紋型染め、中型染めに対して細かい模様柄の型染めのことを小紋型染めと呼んでいたことからこの名が伝わったといわれています。

 2.小紋の発達

 小紋の発達は、江戸時代初期に武士の裃(かみしも)に細かな模様が染められるようになってからです。全国の諸大名家の江戸屋敷が置かれたことで、江戸の町には多くの武士階級が増え、小紋の需要もたいへん多くなり、諸大名家では各自特定の文様柄を決めて着用していました。はじめは武士だけの裃小紋でしたが、江戸時代中頃から町人文化が栄えると、小紋染めは庶民生活に必要な着物や羽織等に染め上げるようになり需要が拡大し、盛んに作られるようになりました。

 3.明治以降の発展期

 明治の初めに発布された断髪令や欧風化の影響により、男子の小紋の需要は大幅に減りましたが、女性の着物としての需要は増え続け、明治中頃には小紋に草花模様を描いた訪問着等ができ、女性の着物の華として今日まで親しまれています。

                  ‐引用:東京都染色工業協同組合‐

 4.国の伝統的工芸品に指定

 昭和51年、東京染小紋は通産大臣(現経済産業大臣)より伝統的工芸品に指定されました。


 伝統的な技術・技法
 色彩及び図柄は、小紋調とする。
 型紙は、柿渋を用いて手漉和紙をはり合わせた地紙又はこれと同等の地紙に彫刻したものとする。
 型付けは、手作業により柄合わせする。
 地染めは、引き染め又はしごきとする。
 捺染糊(なつせんのり)は、もち米粉に米ぬか及び食塩等を混ぜ合わせたものとする。
 引用:東京都染色工業協同組合

*https://www.japan-kogei.com/tokyosomekomon-about.html より

*https://kougeihin.jp/craft/0201/ より

 Description / 特徴・産地

 東京染小紋とは?
 東京染小紋(とうきょうそめこもん)は東京都の新宿区や世田谷区周辺で作られている染織品です。1976年(昭和51年)に伝統的工芸品として国から指定を受けました。
 東京染小紋の特徴は、幾何学模様の繊細さと格調高い気品があることです。東京染小紋には伝統柄による単色染めを基本とした「江戸小紋」と創作が比較的自由な「東京おしゃれ小紋」があります。そのため、おしゃれ着として着るだけでなく、柄や帯の組み合わせによって略式の礼装にも着られるなど幅広く楽しめる小紋です。
 江戸小紋の代表的な柄には鮫小紋や角通し小紋、行儀小紋などがあり、鮫小紋のうち特に細かい柄は「極鮫(ごくさめ)小紋」と呼ばれ、細かいものほどよい品とされています。
 また、「型染めの代名詞」とも言われる東京染小紋の染めに用いるのは、手漉き(てすき)和紙を貼り合わせてつくる地紙です。その地紙に熟練した彫師が細かな文様柄を手彫りし、さらに、生地に糊を塗る型付けの工程も職人が一つひとつ手仕事で行っています。

 History / 歴史
 小紋の名は細かい模様の型染めのことを小紋型染め(こもんがたぞめ)と呼んでいたことに由来し、小紋とは室町時代に発祥した型染めのことです。その後、小紋が広く普及するのは江戸時代の初期、武士の裃(かみしも)に細かな模様を染めるようになった頃からとされ、東京染小紋の起源も裃にあると言われています。
 当時、諸大名家の江戸屋敷があった江戸では各々の藩が特定の柄を藩のシンボルに使うようになり、後に東京染小紋の伝統的な文様柄となる小紋の需要が増えました。
 また、江戸時代の中期になると庶民の中にも小紋に染めた着物や羽織を着る人が増え、粋な柄が多くなるのもこの頃です。動物や植物、さらに七福神や宝づくしなどのユニークな柄も登場するなどバリエーションが豊富になるにつれて小紋は盛んに作られるようになります。
 明治時代になると断髪令の発布や欧米化などの影響を受けて男性が小紋を着ることは急速に減少しますが、女性の間では小紋を着る人がむしろ増えました。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/tokyosomekomon/ より

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