いいもの見ぃ~つけた!

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< 訃 報> クインシー・ジョーンズ -追記あり-

2024-11-15 14:59:56 | MUSIC

 またまた偉大なアーティストがこの世を去った。

 その名は「クインシー・ジョーンズ」。

 91歳と年齢を聞くと、それほど驚く話ではないのだろうけど・・・

 とても残念である。ご冥福をお祈りいたします。 2024-11-05 10:33:50

<追記>

 クインシー・ジョーンズさん、死因が判明 シネマトゥデイ によるストーリー

 著名な音楽プロデューサーでミュージシャンのクインシー・ジョーンズさんの死因は、膵臓がんだったことが明らかになった。

 CNNなどが入手した死亡診断書に記載されていた。クインシーさんは何年もの間、がん闘病をしていたのだという。TMZ.comによるとすでに身内での葬儀は済まされており、後日大規模な追悼式を行う予定だという。

 クインシーさんは現地時間11月3日、家族に囲まれロサンゼルスの自宅で死去した。91歳だった。『ミニミニ大作戦』『ゲッタウェイ』『カラーパープル』など映画音楽の世界でも活躍した。(朝倉健人)

*https://www.msn.com/ja-jp/health/other/%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%BC-%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%BA%E3%81%95%E3%82%93-%E6%AD%BB%E5%9B%A0%E3%81%8C%E5%88%A4%E6%98%8E/ar-AA1u6Txl?ocid=msedgntp&pc=U531&cvid=db9039c3e682466f9ed39c7d17a7a279&ei=346 より

 

 クインシー・ジョーンズさん死去91歳 マイケル・ジャクソン「スリラー」など手掛け 久石譲氏の名前由来 スポニチアネックス

https://news.yahoo.co.jp/articles/f15d7d61e6bbeb6a6fa76703b230a0002854d930

久石譲の名は、大学在学中に友人と話し合った結果、当時活躍していたクインシー・ジョーンズの名前(ク=久、インシー=石、ジョーンズ=譲)をもじり漢字に当てたものに由来する。

 本名:藤澤 守

*Wikipedia より

 

<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-クインシー・ジョーンズ

https://blog.goo.ne.jp/admin/editentry/?eid=923a36554bae3937d55ce800d8aa4297&sc=c2VhcmNoX3R5cGU9MCZsaW1pdD0xMCZzb3J0PWRlc2MmY2F0ZWdvcnlfaWQ9YTBkZTA0MTZhNjRkZWFjOTg4MmY4ZjVkM2JiMjgzZDgmeW1kPSZwPTE3

こちらもご参考に

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< 訃報 > セルジオ・メンデス

2024-10-01 09:57:20 | MUSIC

 「セルジオ・メンデス」

 セルジオ・サントス・メンデス(Sérgio Santos Mendes、1941年2月11日 - 2024年9月5日)は、ブラジル生まれのピアニスト、作曲家、編曲家、バンドマスターである。

 生い立ち
 ブラジル南部、リオデジャネイロ州リオデジャネイロ市近郊のニテロイで生まれる。幼少の頃からリオ市内の音楽学校でクラシック・ピアノを学ぶなど、恵まれた環境で音楽の基礎を身に着ける。しかし、その後はクラシックの道へと進まなかった。

 ボサノヴァ

 1950年代後半にジャズ、そしてアントニオ・カルロス・ジョビンやジョアン・ジルベルトの影響を受けボサノヴァに移行し、彼らを誘って国内外で活躍するようになる。

 1962年に「ヴォサ・リオ・セクステット」を結成。1965年にはアメリカに活動の場を移し、ジョビンやジルベルトとともに、1960年代中盤から後半にかけて巻き起こった世界的なボサノヴァ・ブームの推進役となった。

 1966年、セルジオ・メンデス&ブラジル'66としてのファースト・アルバム『Herb Alpert Presents Sergio Mendes & Brasil '66』を発表。シングルカットされた「マシュ・ケ・ナダ」はビルボード・Hot 100で47位、イージーリスニングチャートで4位を記録。日本を含む世界の多くの国で有名になった。

 その後も、ビートルズの「フール・オン・ザ・ヒル」や「デイ・トリッパー」といった曲をボサノヴァ風にアレンジしたカヴァーなど、欧米の音楽市場にとって親しみやすいボサノヴァをつくり、世界へ普及させた。1970年の大阪万国博覧会のステージ等、来日公演の経験も多数ある。77年にはランバート&ポッター制作のレコードを発表している。1983年には「愛をもう一度」が全米4位まで上昇するカムバック・ヒットとなった。

 晩年

 1970年代後半以降、セルジオ・メンデスはAORやソウルを基調とするアメリカナイズされた音楽に傾いていたが、1992年にはブラジル音楽に回帰したアルバム「ブラジレイロ」を発表。翌年のグラミー賞にて最優秀ワールドミュージックアルバム賞を受賞した。

 2006年の発表されたアルバム「Timeless」では、スティーヴィー・ワンダーやブラック・アイド・ピーズのウィル・アイ・アム、ジル・スコットら別のジャンルの大御所とのコラボレーションを実現し、世界的なヒットで話題を呼んだ。

 2006年と2008年、2016年(3月の福島復興支援コンサート、9月の東京JAZZに出演)に来日公演を行っている。

 2024年9月5日、ロサンゼルスでロングCOVIDにより死去。83歳没。

*Wikipedia より

 

 先日、ラジオから訃報を聞いた。

 83歳かぁ・・・

 一度はライブに行きたかったが、願いかなわず。

 なぜかボサノヴァが好きだった。長年なぜ?と思っていたが、たぶん若い頃に聴いた「マシュ・ケ・ナダ」が一番の影響だったか? 

 2006年発売のアルバム「Timeless」からの曲が心を震わせた。

 「ブラック・アイド・ピーズ」をフューチャリングしたバージョンは特に斬新だった。

 ご冥福をお祈りいたします。

 

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-高石ともや 追記あり

2024-08-19 10:52:31 | MUSIC

 「高石ともや」

  1941年12月9日生まれの79歳。

 1/16・17と「大学入学共通テスト」が行われたが、高石ともやの代表作といえば「受験生ブルース」。

 まぁこの曲が発表されたのは1968年-昭和43年。もう50年以上前の曲だが、ラジオではこの受験シーズンに1度は流れてくる。

 

「受験生ブルース」 中川五郎作詞・高石友也作曲


おいで皆さん 聞いとくれ
僕は悲しい 受験生
砂をかむような あじけない
僕の話を 聞いとくれ

朝はねむいのに 起こされて
朝めし食べずに 学校へ
1時間目が 終わったら
無心に弁当 食べるのよ

昼は悲しや 公園へ
行けばアベック ばっかりで
恋しちゃならない 受験生
やけのやんぱち 石投げた

夜は悲しや 受験生
テレビもたまには 見たいもの
深夜映画も がまんして
ラジオ講座を 聞いてるよ

<セリフ>
今晩は英文法。テキストは58ページを開いてください。
それではコガラシユウジロウ先生、お願い致します。

テスト終われば 友達に
全然あかんと 答えとき
相手に優越感 与えておいて
後でショックを 与えるさ

かあちゃんも俺を 激励する
一流の大学 はいらねば
あたしゃ近所の 皆様に
あわせる顔が ないのよ

ひとよ ひとよに ひとみごろ
ふじさんろくに オームなく
サイン コサイン なんになる
俺らにゃ俺らの 夢がある

<セリフ>
アドリブを一発

マージャン狂いの 大学生
どろぼうやってる 大学生
8年も行ってる 大学生
どこがいいのか 大学生

<セリフ>
結論でございます

大事な青春 無駄にして
紙切れ一枚に 身を託す
まるで河原の 枯れすすき
こんな受験生に 誰がした

<セリフ>
附録もついてるよ

勉強ちっとも しないで
こんな唄ばっかり 歌ってるから
来年はきっと 歌ってるだろう
予備校の ブルースを

 

 50年以上前とは状況は違えど、受験生の心を読んだ歌詞は今も顕在か?

 

 高石ともや、年忘れコンサート 関西タイムライン 2020年12月18日 2:00

 
 「受験生ブルース」などのヒット作で知られるフォーク歌手の高石ともやが29日、サンケイホールブリーゼ(大阪市)で「年忘れコンサート2020」を開く。坂本健(バンジョー)、河合徹三(ベース)、村尾あい(ハーモニー)らも出演する。

 年末恒例の「年忘れコンサート」は今年で45回目。「フォークは、歌う人と聴く人と、同世代だけで作り上げてきた不思議な文化。その不思議な世界がいまだにここ大阪で成り立っていることが、関西の奥深さだ」(高石)。今年演奏する曲目は、「おくれて来た少女」「さすらい人の子守唄」「遠野物語」などを予定する。

*https://www.nikkei.com/article/DGXZQOIH095640Z01C20A2000000 より

 

 まだまだ現役のようですね。

 

 フォーク歌手の高石ともやさん死去 82歳 「受験生ブルース」 マラソンランナーとしても活躍 2024年8月19日(月)8時16分 スポーツニッポン

 フォーク歌手の高石ともや(たかいし・ともや、本名・尻石友也=しりいし・ともや)さんが、17日に京都市内の病院で亡くなっていたことが分かった。82歳。所属事務所が公式ホームページで19日に発表した。葬儀は近親者のみで行う。後日、お別れの会を開く予定。

 高石さんは北海道出身。立教大在学中に初ステージ、1966年12月に「かごの鳥のブルース」でデビューした。現代社会へのメッセージ性の強い歌で、学生運動全盛期の京都を中心に活動。68年には「受験生ブルース」が大ヒットし、関西のフォークソング界をけん引した。一時活動を休止したが、71年にバンド「ザ・ナターシャー・セブン」を結成し、京都市内に事務所を構えて再開。全国各地で野外コンサートを開いた。「年忘れコンサート」は昨年末まで61回を数えた。また、80歳を迎えた2022年には大阪市内での取材会で「あと10年ぐらいで自分のフォークソング史をつくりたい」と90歳までの現役続行を宣言していた。

 一方でマラソンランナーとしても活躍。国内外のマラソン、トライアスロンの大会にも数多く参加。81年には日本初のトライアスロン大会「皆生トライアスロン’81」で優勝。ホノルルマラソンでは77年から参加して毎年出場し、昨年まで47年連続で出場した。

 同事務所は以下のようにコメントした。

 フォークシンガー 高石ともやに長年ご厚情いただきまして、ありがとうございます。高石はかねてより入院療養中でしたが、去る8月17日 82歳の生涯を閉じました。とても残念でなりません。葬儀は密葬で近親者のみで執り行います。また、御供花、御香典等は勝手ながらご辞退させていただきます。なお、お別れ会は後日開催予定です。

 高石ともや事務所

*https://news.biglobe.ne.jp/entertainment/0819/spn_240819_1289758698.html より

 残念です。とても残念です。ご冥福をお祈りいたします。

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-フジコ・ヘミング -追記あり-

2024-05-02 12:37:58 | MUSIC

 「フジコ・ヘミング」

 1932年12月5日生まれの88歳?

 

 本名、イングリット・フジ子・へミング。
 日本人ピアニストの母、大月投網子とロシア系スウェーデン人画家/建築家ジョスタ・ジョルジ・ヘミングを両親としてベルリンに生まれる。母の手ひとつで東京に育ち、レオニード・クロイツアーに師事、青山学院、芸大を経てNHK毎日コンクール賞、他受賞。
 渡辺暁雄指揮日本フィルなど数多くの国内オーケストラと共演。
 たまたま来日中のサムソン・フランソワは日比谷でフジ子のショパン・リストの演奏を聴き絶賛。その後、ベルリン国立音楽学校を優秀な成績で卒業。以後、長年にわたりヨーロッパ在住、演奏家としてのキャリアを積む。ウィーンでは後見人でもあったパウル・バドウーラ・スコダに師事。今世紀最大の一人といわれる作曲家・指揮者のブルーノ・マデルナにウィーンで才能を認められ、彼のソリストとして契約したことは彼女が最も誇りとしているところのひとつである。ちなみにこの成約に際しては、彼女の演奏に感銘を受けたレオナード・バーンスタインからの支持/援助もあった。
 
 ヨーロッパでの多くの演奏会はオーケストラとの共演もふくめて大成功をおさめた。 1968年すでにドイツの代表的新聞は「日本から“ピアニスト”が出た」「ショパンとリストを弾くために生まれてきたピアニスト」と報じている。ドイツ、オーストリア、スウェーデンでの演奏収録番組は好評につきたびたび放送された。

 NHKより制作・放送されたETV特集「フジ子~ピアニストの軌跡」は大反響を呼び、再、再々放送。また2003年フジテレビ系全国ネットで放送された、愛と感動の特別ドラマ企画『フジ子・ヘミングの軌跡』もやはり大反響を呼び、再放送となった。

 アルバム『奇跡のカンパネラ』『憂愁のノクターン』で、クラシックでは史上初の快挙となる、2年連続「日本ゴールドディスク大賞 クラシック・アルバム・オブ・ザ・イヤー」を受賞、04年『フジ子・ヘミングの奇蹟~リスト&ショパン名曲集』、そして05年『フジ子・ヘミング こころの軌跡』で再び2年連続同賞を受賞する。 4度の受賞もやはりクラシックでは史上初の快挙である。

 徹底した動物愛護者でベジタリアン。

*https://www.jvcmusic.co.jp/-/Profile/A013737.html より

 

 フジコ・ヘミング「今は20匹の保護猫のためにピアノを弾くの。恋をしている瞬間が一番幸せ」 2021/2/9(火) 18:01配信 婦人公論.jp

 「演奏会の次の日は、いつもぺちゃんこになってしまう。体にカビが生えたかと思うくらい疲れてね。」

 世界で活躍するピアニスト、フジコ・ヘミングさん。年齢を重ねた今も、毎日3時間はピアノに向かうというその原動力はどこからくるのか。保護猫たちと暮らす自宅でグランドピアノを前にして語る(構成=玉居子泰子 撮影=木村直軌)

 ◆可哀想な生き物を助けるために

 ちょうど1年前、2020年の1月はアメリカのサンタモニカにいました。そうしてしばらくしたら新型コロナウイルスが流行し始めてね。アメリカ人は誰もマスクなんてしてなくて、「今、日本に帰ったら大変なことになる。このままここにいなさい」って言っていたけど、言うことを聞かなくてよかったわ。3月23日に日本に戻って、その数日後にはアメリカからの入国が制限された。ラッキーだったわよね。

 その後、世界中の演奏会の予定が延期になってしまった。フランスやドイツでのコンサートもいつ再開できるのか。でも、いいこともあった。久しぶりに日本に長く滞在できたし、時間が取れたから10年以上前に頼まれていた絵本の挿絵を、ようやく描き終えることができたの。出版社の人たちもとても喜んでくれて。これまでが忙しすぎたのね。

 それに、日本では全国でずいぶん演奏会が開けたからありがたかった。地方公演は席を一つずつあけていたけれど、東京公演は満席になって。嬉しかったです。でも演奏会の次の日は、いつもぺちゃんこになってしまう。体にカビが生えたかと思うくらい疲れてね。だから一日は休んで、次の日からまた練習。やれるうちにやっておいたほうがいいと思うから。

 だけど、私はもう自分のために舞台に立って、弾いているわけではない。東京のこの家にいる20匹の猫たちに餌をあげるため。最初に私が拾ってきた猫はもうみんな歳をとって死んでしまったけど、猫シッターさんがまたあちこちからもらってくるのよ。

 うちにいるのは、《出来損ないの猫》ばっかり。きっと人間にいじめられたんでしょうね。お客さんが来ると、ほら、姿を見せないでしょう? この猫たちを食べさせていくことが、私の生き甲斐。自分の食べ物を買うためじゃなくて、自分以外の可哀想な生き物を助けるために生きているところはあるわね。

 ◆急逝した最愛の弟にまた会えると信じて

 ーースウェーデン人の画家の父と、日本人ピアニストの母との間に、ドイツ・ベルリンで生まれたフジコさん。5歳の時、家族で日本に帰国するも、第二次世界大戦が始まる前に父は強制送還されてしまう。

 その後、ピアノを教えながら女手ひとつでフジコさんと弟のウルフさんを育てた母、大月さんは、フジコさんのピアノの才能に気付き、厳しい指導をするようになる。戦中・戦後、外国人の父を持つフジコさんはいじめにもあったが、ウルフさんとは幼少期を支え合って仲良く過ごした。

 20年には大きな別れもありました。8月に弟の大月ウルフが急逝したことは、まだ信じられない。1年くらい会えていなかったの。今も「オーイ!」と大きな声で、ここに入ってくるんじゃないかと思ってしまう。幼い時はケンカもしたけれど、思い出を話せる家族がいなくなるのは本当に寂しいこと。

 弟は俳優としてそこそこ人気者でしたよ。でもね、彼は癪に障るとすぐに相手をぶん殴るものだから、あちこちで出入り禁止になってしまって。私のコンサートのプロデュース業もしてくれていたけど、サントリーホールも東京オペラシティもNHKホールも、全部出入り禁止。仕事もたくさん失って、バカみたいでしょう? だからあまり出世しなかったな。もったいないわよね。

 そんな弟を純粋だと褒める人もいたけど、私は彼とは正反対で、周囲とはうわべだけで付き合うようにしてるのよ(笑)。口は災いの元。本当にちょっとしたことで相手を傷つけてしまうことがある。それがとても嫌で、だから何かあってもグッと耐えて、相手に恨みを持たないよう心がけています。

 でも、弟もすごく悪いことをしたわけじゃない。地獄には行ってないはずよ(笑)。今頃きっと天国で母と会ってるだろうし、私もまた会えますよ、絶対にね。

 ◆神様は私を見捨てたりしない

 ーー幼少期から母の指導のもと研鑽を積み、やがてピアノの才能を認められたフジコさん。28歳でドイツに留学するも、そこでも東洋人として差別を受けるなどして、辛酸をなめた。さらに指揮者レナード・バーンスタインの支援で実現したウィーンでのリサイタルの直前に、風邪をこじらせて聴覚を失う悲劇に見舞われる。それでも諦めずピアノを弾き続けた。

 いよいよピアニストとしてのビッグチャンスを掴もうという時に、一夜にして耳が聞こえなくなってしまった。当時はピアニストとして成功する道は断たれた、と運命を恨んだわ。

 2年間はまったく聴力が戻らなかった。それでも少しずつ、自分のためだけにはピアノを弾き続けていたし、ピアノを教える仕事でなんとか生きてきた。だって、母はそのために私に教えてくれたんだもの。ピアノさえあれば世界中どこにいたって、教えて暮らしていけるのだから。厳しい人だったけれど、母には感謝しています。

 ただ、自分に才能があるかどうかなんて、40歳を過ぎるまではわからなかったわね。昔はCDなんてないし、たまに流れてくるラジオの音楽だってそれほど音質が良くはないでしょう。だから比べようがなくて。

 でもウィーンで一人ピアノを弾き続けていたある日、近所の大学教授の奥さんが、私のピアノを聴いて「一体誰が毎日、あの神様のようなピアノを弾いているの?」って言ってくれたんですって。それを聞いた時は、すごく嬉しかったわね。勇気がもらえた。「わかってくれる人はわかってくれるんだ」って。それにやっぱり、ヨーロッパで何人かの音楽の大家から認めてもらった経験が、励みにもなっていた。神様は私を見捨てたりはしないって思い続けたわ。

 今、私のところに、助けになってほしいってたくさんの若い音楽家がやってくる。でもチケットが売れなければ、私がいくら推薦しても撥ねのけられてしまう。厳しい世界ですよね。

 実力がないのに自分を高く見せたり、他人の評価を求めすぎたりせず、自分がやるべきことを信じて続けるしかないんじゃないかしら。人生はそんなに簡単にはうまくいかないものですよ。私だって、60代になってからのデビューですからね。

 だけど私は、今みたいに有名になりたいとは思っていなかった。元来恥ずかしがり屋で、ビデオを撮られたりするのが恥ずかしくて仕方がない。変な格好で演奏していないか、みっともなくないか、いつも気にしているの。今でもそう。新しい衣装を着て舞台に立つ時なんか、クマみたいに見えてないかしらって心配しちゃう。もちろん、たくさんの観客が来てくださるのは何よりも嬉しいことですけれどね。

 ◆いくつになっても楽しいことはある

 ーーピアノを愛し、猫を愛し、生涯独身を貫いてきたフジコさん。一方で「四六時中恋をしていた」とも。「今、いちばん楽しいことはなんですか?」との質問に、少し顔を赤らめてこう答えた。

 あまりこういうことを言うのは良くないのかもしれないけれど、やっぱり恋人と一緒にいる時間は幸せね。

 私は昔から惚れっぽくて、すぐに恋をしてしまう。若い頃はずいぶん苦労したわ。一度なんてほかに恋人がいるドイツ人の男に騙されて、有り金全部に、アパートまで取られたことだってある。でも私は、ああ、もうこいつはダメだなと思ったらすぐに身を引くの。憂鬱なのは一日くらいだけ。(笑)

 今の恋人は、近くにいるし毎日会えるから、楽しいですよ。尊敬できる人だし、お互い猫が好きで、いろんな話をするわ。

 でも、周りの人を見ていると、みんな「結婚すると相手に飽きる」って言うのね。どうして? 猫を飼っていて、その猫が歳をとって醜くなったからって飽きないし、捨てようなんて思わないでしょう? きっと、みんな相手に期待しすぎなのね。

 私は好きな人と一緒にいたら幸せ。だけど、依存しすぎることはないわね。スウェーデン人の父の血が入っているでしょう。スウェーデン人は孤独を愛するの。私も一人の時間が絶対に必要。絵を描いたり考え事をしたりね。

 歳を重ねていくと、若い時には気がつかなかった自分に気づくことができる。似合わない服を着てバカをやったりしない。だんだん自分のダメなところも直していけるじゃない。だから私は歳を重ねている人のほうが好きね。それに、いくつになっても、楽しいことはある。

 人間なんて、矢のような人生で、あっという間に歳をとって死んでしまうけど、それで終わりじゃないもの。私は、この世での記憶や自分の才能、千代紙やなんかで一所懸命作ったものも全部、せっかくだから天国に持っていきたいわ。誰かに庭で焼かれたら悔しいじゃない。(笑)

 聖書に書かれているように、天国じゃお好み次第、どんな家に住んでもいいのよ。私は、子供の頃に住んでたような、日本家屋と洋館を合わせたような家に住みたいの。ピアノもあってね。父や母や弟や、ファンの人たちを呼んで演奏会を開きたいわ。

*https://news.yahoo.co.jp/articles/b7968995d728461e0694efa2bc3edd05f9e66b85 より

 

 ピアニストのフジコ・ヘミングさん死去 2024年5月2日(木)7時24分 TBS NEWS DIG

 聴力を失いながらもコンサート活動を続け、ファーストアルバム「奇蹟のカンパネラ」がクラシック界で異例の大ヒットとなったピアニストのフジコ・ヘミングさんが先月21日、死去しました。92歳でした。
 フジコ・ヘミングさんは、スウェーデン人の建築家の父親と日本人ピアニストの母親のもと、ドイツ・ベルリンで生まれ、母親の手ほどきでピアノを始めました。
 幼い頃に日本に帰国し、東京芸大を卒業後に本格的な演奏活動に入り、28歳でドイツに留学。
 その後はヨーロッパを転々とし、演奏家としてのキャリアを築くなかで風邪をこじらせて一時、聴力を失うアクシデントに見舞われたものの、演奏活動を続けました。
 そんななか、1999年に発売されたファーストアルバム「奇蹟のカンパネラ」がクラシック界で異例の大ヒットとなりました。
 演奏活動は去年まで続けていましたが、今年3月に実施した検査ですい臓がんと診断され、先月21日に容態が急変し死去しました。92歳でした。

*https://news.biglobe.ne.jp/international/0502/tbs_240502_4825699962.html より

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-坂本龍一 追記あり

2023-04-03 08:04:29 | MUSIC

 「坂本龍一」

  1952年1月17日生まれの69歳-追記時、71歳

 またまた訃報が・・・

 2023年3月28日、長い闘病生活の末、ご逝去されました。今年に入って高橋幸宏氏に続いての訃報はとても残念です。

 所属事務所のメッセージの中に

 坂本さんの好きだったという次のことばで締めくくられています。

「最後に、坂本が好んだ一節をご紹介します。
 Ars longa,vita brevis
 芸術は長く、人生は短し」

 ご冥福をお祈りいたします。

 

 坂本龍一と “音楽の自然回帰”(前編)──『Ryuichi Sakamoto | Art Box Project 2020』制作リポートVol.07
By 宮谷行美 2021年3月19日
 坂本龍一の2020年の活動をまとめた『2020S』が2021年3月30日に発売される。豪華アートボックスが完成するまでの制作過程を数回にわたってレポートする本連載「BEHIND THE SCENE」の7回目は『2020S』の音づくりについて。

 坂本龍一の1年の活動をまとめるコンプリートボックス『2020S』。音楽作品として、そしてアート作品として超越したものを目指し、“日本文化を象徴するもの”というコンセプトのもと制作が進められてきたが、いよいよ制作は全工程を終了し、あとは3月30日の発売を待つのみとなった。

 これまでの「BEHIND THE SCENE」では、外装や「陶片のオブジェ」などの制作過程をインタビューとともに紹介して『2020S』の魅力を紐解いてきたが、何よりも忘れてはならない今作の魅力といえば、坂本龍一の音楽そのものにある。

 『2020S』には、2020年に坂本が制作・発表した楽曲に加え、今作のテーマの1つである“記憶の断片”をもとに書き下ろした新曲が収録される。新曲には、坂本の念願であった“陶器を割る音”を使用する。計7枚のアナログレコードで綴るのは、坂本龍一の1年の記憶であり、“音楽の自然回帰”である。今回は“コンプリートアートボックス”という原点へ回帰し、坂本の2020年の音楽について、そして陶器を割る音を使用した新曲「fragments, time」について触れてみたい。

 音楽家・坂本龍一の妙
 前年度のコンプリートアートボックス『Ryuichi Sakamoto 2019』では映画のサウンドトラックを中心に構成されていたが、『2020S』ではジャンルレスなコラボレーション楽曲が集う。蔡明亮監督作品『あなたの顔(英題:Your Face)』、コゴナダ監督作品『After Yang』のオフィシャルサウンドトラックにはじまり、イタリア発の高級ラグジュアリーブランド、ボッテガ・ヴェネタのショートフィルム用に書き下ろされた「BV」や米シアトルのNPO法人MOR(Music of Remembrance)のために制作された「Passage」、さらにはテレビ東京のミニドラマ『きょうの猫村さん』の主題歌となった「猫村さんのうた」など、そのラインナップを見るだけで坂本の多岐にわたる音楽活動が伺える。

 中でも現代アーティスト・李禹煥の個展のために制作された『S/N for Lee Ufan v.2』は、ピアノの線を弾く音から電子的なフィードバックノイズ、銅鑼の唸り、金属片やガラス、石などを用いた表現など、坂本らしさを感じる独特な手法がふんだんに詰まった楽曲となっている。いっぽうで、無印良品のCM音楽として制作された「MUJI2020」は、ピアノひとつで心温まる2分間を紡ぎ、心地良くも一度聴いたら忘れられない印象強さを残す。ピアニストとして、そしてメロディーメイカーとしての妙を感じさせる1曲だ。

 坂本が目の前で演奏をしているような「fragments, time」
“陶器を割る音を使って音楽を作りたい”

 『async』のリリース以降、坂本が強く思い描いていたアイデアが『2020S』でついに実現される。楽曲で使用するのは、坂本自身が絵付けを行い、唐津の陶芸家・岡晋吾が焼き上げた陶器の皿だ。坂本は10月末にNYの自宅にて陶器を割る音を採取し、制作期間へ移行。12月初旬には「fragments, time」という曲名ともに完成した楽曲が届いた。

 楽曲から聴こえるのは陶器とピアノの音のみ。静寂の中で陶器は不規則に鳴り響き、その隙間を埋めるようにピアノが丁寧に紡がれてゆく。一音一音が情緒的で、記憶の片隅にあるような懐かしい風景やにおいがふと蘇ってくるようだ。シンプルな素材である分、すべての音色がダイレクトかつ立体的に耳に届き、耳を澄ますと坂本の不意のひと息まで聴こえてくるなど、まるで坂本が目の前で演奏しているような身近さが感じられる。


 人力では再現できない陶器の繊細な揺らぎや余韻を味わう
 “陶器が割れる音”と聞くと耳当たりの強い衝撃音を想像するが、実際に楽曲から聞こえてくるのは耳をつんざくものではなく、どこか透明感のある柔らかな響きである。陶器の断片は転がるたびに1つずつ異なる余韻を残し、坂本がこの楽曲に使用するために作ったという「簡易な楽器」は、複数枚の陶器がランダムに触れ合い自由な音色を奏で合う。

 陶器同士が触れ合う面積や角度、回数が異なるたび、人力では再現できない陶器の繊細な揺らぎや余韻が生まれる。ひとつとして全く同じ記憶というものが存在しないように、5分間の中に1度も同じ瞬間が訪れない音楽を導き出したのだ。また、楽曲には静寂とともに聴く時の環境や気分を反映する余白がある。曲を聴くタイミングごとに新しい記憶が生まれるのもまた、この曲の一興なのかもしれない。

 概念や制限を超え、音楽の原点へ回帰する
 新曲用に作られた7inch盤には、「fragments, time」からピアノのメロディだけを抜いた「fragments, time-debris」という楽曲も合わせて収録されている。より静寂さが増し、一つひとつの所作がより鮮明に聴こえる。さらには同音連打するピアノの存在感が強くなり、陶器の音色がより立体的な印象になるなど、同じ楽曲であるにもかかわらず、全体的な雰囲気が変わるのが魅力だ。

 何より「fragments, time-debris」をリピートすると、始まりと終わりに境目がなくなって聴こえるのも面白い。聴き続けているうちに5分5秒という時間制限がなくなり、永遠に音楽が鳴り続けているような感覚が生まれてくるのだ。そこにはいつの間にか音楽に根付いてしまった規則的なものや“時間”という概念はない。まるで音楽の原点へ回帰するように。

 坂本の記憶の扉を開く『2020S』
 音楽は非科学的かつ非同期的なものである。それを体現するように、坂本は“音楽の自然回帰”を追求し、自然のエネルギーに同化する音楽スタイルを築いてきたように思う。思考に左右されず、“あるがまま”を愛するということだ。その大きなきっかけとして、2011年の東日本大震災で津波に流れて壊れたピアノに出会ったことが挙げられるが、10代の頃から抱いていた「聴いたことがない音を聴いてみたい」という探求心も影響しているだろうし、さらには音楽の自由を追求し続けたクラシック音楽家、クロード・ドビュッシーの精神性を幼少期から自然と受け継いでいたのかもしれない。

 奇しくも“自然回帰”は『2020S』の主要テーマの1つ。今作は、木箱や陶芸、布地から見る日本文化の魅力を通じて、これからの人間の生き方を問いかけるとともに、楽曲たちを通じて音楽の自然な在り方を問うものとしても意味をなすものとなるだろう。また、何より「fragments, time」というひとつの音楽がこの世に生まれた過程の記憶が、「陶片のオブジェ」に宿っている。楽器の一部を所有していることで、より立体的に見えてくるものもあるだろう。

 これらの楽曲はアナログレコードに収録され、新曲が収録される7inch盤のみ箱上部に、その他12inch盤は引き出しのような構造となっている木箱内部に1段ずつ収納される。購入者は箱を開け、きっちりと収められた盤や「陶片のオブジェ」、冊子などをひとつひとつ引き出していくことになる。それは、坂本の記憶の扉を開く感覚にも近い。坂本の記憶を辿りながら2020年の活動を振り返りつつ、それぞれの記憶、それぞれの想いとともに、さまざまな角度から坂本龍一の音楽を楽しんでみてほしい。

 

 坂本龍一と “音楽の自然回帰”(後編)──『Ryuichi Sakamoto | Art Box Project 2020』制作リポートVol.08
By 宮谷行美 2021年3月30日
 坂本龍一の2020年の活動をまとめた『2020S』が2021年3月30日に発売される。豪華アートボックスが完成するまでの制作過程を数回にわたってレポートする本連載「BEHIND THE SCENE」の8回目は、アートディレクター・緒方慎一郎との対談。約1年の制作期間を振り返る。

 坂本龍一の2020年の活動をまとめるコンプリートボックス『2020S』がついに発売を迎える。本製品の発売に伴い、制作過程や制作陣の想いをお届けしてきた「BEHIND THE SCENE」もいよいよ最終回だ。ひとつのプロダクトが形となるまでのヒストリーを紐解くことで、『2020S』の秘められた魅力やこだわりに触れるひとつの手立てになったのではないだろうか。

 今企画の最後に、『2020S』の主宰者である音楽家・坂本龍一と、アートディレクター・緒方慎一郎による対談が実現。約1年の制作期間を振り返るとともに、主宰者から見た『2020S』の魅力や作品に込めた想い、2020年という忘れられない1年について深く迫りたい。


 自然に生まれたアイデアとクリエイションに導かれて
 『2020S』の制作の話が持ち上がったのは、同年に入って間もない頃。“コンプリートアートボックスを制作する”という目的以外はすべて白紙のまま、坂本は予てから交友があった緒方に制作を依頼。食文化を起点にさまざまなクリエイションを展開し、現代における日本文化の在り方を問いかけてきた緒方をアートディレクターとして迎えることで、自然に“日本文化を象徴するもの”という大きなテーマが生まれたそうだ。

 「知り合う前から緒方さんの作品やセンスの良さは知っていたのですが、一緒に時間を過ごすことでより深く知るようになり、“今回はぜひ緒方さんにお願いしよう”と決めました。緒方さんは“日本の美”を現代的に抽出することをずっと考えていらっしゃる方なので、彼にお任せすると決めたところで、“これは日本的なものになるだろうな”と思っていましたね」(坂本)

 サンプリングされたものから掻い摘むのではなく、物事の本質を捉え、熟考したうえで自分なりの展開を見出そうとする緒方の思考やものづくりの姿勢に、坂本は深く共感したという。緒方との対話から自然に生まれるアイデアやクリエイションに身を委ね、ディスカッションを重ねるなか、作品に陶器を用いる案が生まれた。

 「はじめは当然白紙の状態で、何かを見つけ出さないと次に進めないので、ふたりで色んな話をしていました。そのなかで、ぼくが3年前に前のアルバムをリリースしたときに“次のアルバムは音楽作品として焼き物を売って、買ってくれた人たちに割ってもらおう”と冗談半分で言っていた話をしたところ、“面白いから冗談じゃなくて本気でやってみようか”という話になりました」(坂本)

 丁寧さと実行力を兼ね備える緒方慎一郎の手腕
 坂本と緒方は間接的に同じプロダクトに関わったことはあるものの、スタートから二人三脚で仕事を進めるのは、今回が初めてとなる。ディスカッションから作品のコンセプトを導き、明確なキーワードと綿密なボックスデザインを提示する緒方の仕事ぶりに、坂本は感服したという。

 「今回密に一緒に仕事をして改めて思ったのが、緒方さんは本当に丁寧な人だということです。作ったものを見れば作り手の丁寧さというものはわかりますが、予想以上に丁寧な仕事ぶりです。最初のプレゼンテーションから完璧でしたし、デザイン案を見た時も9割がた出来ているようなもので、あとは形にするだけだと思いました」(坂本)

 また、原案が良いものほど、プロダクトを形にするための高い実行力が問われる。特に『2020S』は特殊な仕様であり、外装から収納品まで完璧に仕上げるためには、ものづくりとして高度な技術を要するのはもちろん、高いチームワークも求められるだろう。それを1年という限られた制作期間でスムーズに行い、さらにはほとんど原案通りに完成へ導くことができたのは、緒方の手腕あってこその成果だ。

 「いくらアイデアが良くても形にならないものもあるし、形にできない人もいる。だから思いつきやアイデアだけでは判断できない事も多いですが、緒方さんは実行する力が本当に強いと思うし、ゴールまで必ず持っていくという粘りや気力がある人だと思います」(坂本)

 緒方自身の経験に基づく発想力と行動力、そしてこれまで築き上げてきた人脈も含め、緒方の実力といえる。やや照れ臭そうに「光栄です」と言う緒方に対し、「褒めすぎたかな?」と笑いを誘う坂本。時折冗談を交えながら話すふたりからは朗らかな雰囲気が漂い、仕事のパートナーとしても友人としても良い関係にあることが窺える。

 2020年でしかできなかった感動的なものづくり
 『2020S』では、木箱制作には坂本が代表を務める森林保全団体・more treesの提携先である宮崎県・諸塚村の特別チームが、「陶片のオブジェ」の制作には緒方が信頼を置く唐津の陶芸家・岡晋吾が、それぞれ参加するなど、互いが持つ人脈を活かしてものづくりを進めてきた。“日本文化を象徴するもの”を作るにあたり、これほど適した人材がスムーズに集まったことは奇跡のように思えるが、緒方は「必然的な繋がりを感じた」と語る。

 「プロダクトはコンセプトありきなので、一番に守ることを考えてきたのですが、進めていくうちにすべて必然的に生まれた形や素材だったのだと思いました。たとえばmore treesとは、“自然と人は共生すべき”という意味でコンセプトに共感性がありますし、avexが麻世妙を手掛けていたのもたまたまではなく、『2020S』のコンセプトがあったからこそ、繋がっていったものです」(緒方)

 緒方はこれまでのインタビューのなかでも、自身の活動の一環として森林や大麻布について考えていたことや、「誰もがこれからの生き方を見直さなければいけない」という想いを語ってきた。坂本をはじめ、同じ想いを持つ人々が『2020S』を介して繋がることは、自然かつ必然的なものだったのだろう。

 また、世界がパンデミックに直面するなかで制作が始まり、日本とNY、さらには日本国内でも遠隔でやり取りを行いながら進めてきた。インタビュー当日、ほとんどのスタッフが「久しぶり」ではなく「初めまして」と挨拶を交わした。このイレギュラーな製作過程もまた、2020年でしか体験できない記憶となった。

 「コロナ禍に制作が進み、スタッフも今日初めて顔を合わせることができて、“やっと会えましたね”って感動し合っている。こんなに感動的なものの作り方ってないと思います。こういう経験も含めて、パンデミックがあった2020年でなくてはできなかったことだと思いますね。自然との繋がりはもちろん、人と人との繋がりも含めて、『2020S』という活動そのものが素晴らしかったです」(緒方)

 無為自然であることを楽しむ
 『2020S』の試作に触れ、木箱の仕様や内容物を細かく確認するなかで、坂本は「陶片のオブジェ」を手にとり、実際に飾ってみせた。本製品に同封される陶片は、坂本が自ら絵付けをした陶器の皿の一部である。初めての絵付けは、今回の制作のなかでも特に印象深いものだったそうだ。

 「ぼくは小さい頃から絵心がなくて、自分でもびっくりするくらい下手だったのですが、今回描いてみたら、形はどんどん出て来るし、力の入れ方を調整すると色んな変化も出て来るので、ものすごく気持ちが良くて。“ぼくって絵心あるんじゃないかな?”と思えるくらいすごく楽しかったです。結果がどうではなく絵を描くことを自分が楽しめたというのは、生まれて初めての経験かもしれない」(坂本)

 抽象的でありながら形にも見えるものを目指した結果、「月」や「山」といった漢字に見える絵も多く生まれた。無意識のうちに漢字のような絵を描いていたことには、坂本は「自分の発想が束縛されていることや人間の本質が見えるようで面白い」と答えた。自分の新しい一面を知る、という意味でも、絵付けは坂本にとって貴重な体験となっただろう。

 無意識に描くものがどのように仕上がるかわからないのと同様に、陶器もまた、焼き上がるまでその仕上がりを完璧に把握することはできない。呉須で描いたものが青く仕上がることはわかっていても、色の濃淡や線の浮かび方まで人為的に細かく調整することは難しい。「自分の思った通りのものではない形になるのも焼き物の面白さだと思います」という緒方に対し、坂本は「筆や焼き物も“自然”ですよね」と返す。

 「絵付けというのも、自然と自然の触れ合いのようなものです。そこにちょっとした力が加わることで接触の度合いも変わるので、あとはそのエネルギーに任せて動かすだけという。筆任せみたいな方がぼくは好きです」(坂本)

 自然が導く変化や揺らぎを愛する坂本にとって、人の意思が介入しない、あるいは介入できないものに触れることは、何よりもの喜びとなるだろう。また、坂本は『2020S』のマスターコンセプトである“箱”に対し、禅や中国の思想家である老子の思想を連想したというが、坂本こそ老子が説く“無為自然”(=ありのままでいること)の必要性を肌身に感じ、自身の活動を以て体現してきた張本人である。

 「“こうやるとかっこいいだろう”と思うとみんな外れてしまうからだめ。音楽もそうで、何十年とライブをやっていても、自分ではすごく良いものが弾けたと思っても、後で聴いてみると全然良くないことも多いし、逆に自分ではそんなに盛り上がらなかったものが、周りからは“ものすごく良かった”と言われることもある。あまり感情的になってはいけないのだなと思いますね」(坂本)

 音楽は静寂と共に
 坂本は、2009年にリリースした『out of noise』以降、より積極的にさまざまな環境音やノイズといった調律の外にある音を作品に取り入れてきた。『2020S』のために書き下ろした新曲「fragments, time」では、陶器とピアノのみを使用しているが、ピアノが主旋律を担うのではなく、陶器の不規則な音の響きやトーンに合わせて、ピアノが奏でられてゆく。音楽と自然が一体化していくなか、ピアノの弾き方にも変化があったようだ。

 「ピアノは人工的に作られたものですが、弾くときはなるべく自然の音に近づけようと思って弾いています。陶器に筆で絵を描くのと同じように、“響き”の力に任せたいですね」(坂本)

 ここで緒方から、今作のキーワードである“空(うつ)”に因んで、「坂本にとって“無音”とはどのようなものか」という質問が投げかけられる。坂本は「難しいよね」と頭を悩ませつつ、現在の音楽観について言及した。

 「無響室へ入っても、血が流れる音や神経の音が聞こえてきます。本当の無音を経験しようと思うと、宇宙空間にでも行かない限りは難しいでしょう。ただ、静寂というものは物理的に音がしない状況とはまた違うものだと思っていて。無音を感じることはできなくても、静けさや何かの気配は感じることができます。ぼくは無音よりも、そっちに興味がありますね」(坂本)

 近年では使用する楽器や音の数も少なく、これまで以上にミニマルな音楽へとシフトするとともに、“静寂のある音楽”が形成されていったように思う。静寂があるからこそ、小さな音の響きと微かな余韻を味わうことができるのだ。

 坂本は現在、クラヴィコードという楽器に興味があるという。クラヴィコードとは、18世紀ごろまでヨーロッパで作られていた鍵盤楽器で、楽器に耳を寄せないと聴こえないくらい音が小さいのが特徴だ。

 「今、職人さんにぼく用のクラヴィコードを作ってもらっています。職人さんは“聴こえるか聴こえないかわからないくらいの音”を求めて作るようになったとのことですが、ぼくも同じで、ここ数年ピアノや他の楽器の音が大きすぎてうるさく感じてしまうんです。自然界にそんな大きな音は本来ないはずです。ぼくは雨の降る音を楽しみながら、それを邪魔せずに一緒にいられるような音があれば、それでいいような気がするんですよね」(坂本)

 “このままではいられない”今、私たちができること
 『2020S』は、坂本の1年の活動をまとめるものであると同時に、2020年という歴史的な1年を記憶に残すという役割も果たす。新型コロナウイルスのパンデミックにより、世界中の人々の生活や価値観は大きく変わったが、根本的な原因を辿れば、利便性が重視される世の中が進み、自然と人が切り離されてきたことに起因する。

 「新型コロナウイルスという目に見えないような自然の不思議によって、人間の活動はすべての分野に亘り、アクティビティがガクッと落ちました。ぼくたちはそんな小さいやつらに、こんなにも影響されてしまう。でもそれが自然なのです。そのことを忘れて、近代以降は制御的なやり方を取っては、自然と敵対してきてしまった。コロナは“このままではいられない”という疑問をつきつけてくれているのだと思います」(坂本)

 以前より坂本は「いちばん身近にある自然は自分自身だ」と言い続けてきた。しかし、身の回りに人工的なものが溢れ、あらゆるもののデジタル化が進むなか、ふと自然との繋がりを忘れてしまう瞬間があるだろう。そこで、誰もが自然と向き合わざるを得なかった2020年を思い出せるよう、『2020S』が存在するのだ。

 アインシュタインが“ミツバチが絶滅すると4年後に人類も絶滅する”というように、地球上に存在する1000万以上の生物がすべて生態系で繋がっている。つまり、人が自然の一部である以上、我々の行いが自然やその他生態系に影響をもたらし、消えてしまうものもあるということだ。

 例えば日本食に欠かせないとされる北海道産の真昆布は、地球温暖化による海水温の上昇の影響を受けて絶滅の危機に曝されており、緒方は「このままでは本当の日本食はもう作れない」という。人々の生活を改めなければいけない今、我々がすぐにできることとは何だろうか。

 「日本に住むほとんどの人が、お水を買ったり、おかずを買ったり、コーヒーを買ったりと、1日に何度も買い物しているはずです。そのひとつひとつが選択であり、数ある選択肢のなかから何を選ぶかによって、大分変わってくると思います」(坂本)

 「個人の積み重ねでしかないのですが、その選ぶ基準も元に戻るとは思います。例えば水を使い過ぎたらいずれはなくなります。どの製品にどれほど水が使われているのかまで把握できなくても、自分が毎日どのくらい水を使っているのかはわかるはずです。そのなかで無駄を省いていくだけでも違うんじゃないかなと思います」(緒方)

 意識をアップデートするために、“今”を記憶に残す
 『2020S』のマスターコンセプトである“凵(はこ)”にも、日本の精神性を象徴するとともに、自然回帰を促す強いメッセージが込められている。「“空(うつ)”という何もない空間を作ることで、自然と人が繋がることができる」と緒方が言うように、古来より日本は自然と共生・共存する文化を持つ。自然と人の繋がりを改めて思い知らされる今、日本文化にこそ、これからの時代を生き抜くヒントがあるのではないだろうか。

 「たとえば林業の方たちは、先祖代々の土地や山を守り続けるうえで、木を切るごとに、その木があと何年で元通りになるのかを考えて切っているそうです。大体が200~300年を要し、その間に3代、4代と家系が続きます。つまり、200年後を考えて今日の仕事をしているということです。日本はまだそういう風習が残っている国だと思います」(緒方)

 資源や食糧を得続けるためには、同時に守ることも考えなければならない。それは、自然に生きるすべての生物に求められる共通事項だ。しかし、昔と今では環境も違えば、生活も異なる。数々のテクノロジーが生まれ、我々の生活の利便性が優遇され続けた結果、犠牲になるものがあまりに多すぎた。その現実を、この何十年のうちに起きた出来事たちを、無に帰すだけでは意味がない。これからを生きる我々にとって必要なのは、“今”を記憶に残し、未来を変えていくことだ。

 「こんなに大きな自然の脅威に直面するなんて、100年に1回くらいの出来事です。単純にワクチンが普及して、パンデミックが沈静化して、ただ2019年の頃のように戻ればいいとは思いません。また、人間の意識も消せといわれて消せるものではないし、消せばいいものでもありません。だからこそ意識をアップデートしていくことが大切ですよね」(坂本)

 『2020S』は購入者の手元に届いて、初めて“完成”する
 2020年という特殊な1年を象り、坂本や緒方をはじめ、制作に携わるすべての人々の記憶と想いが宿る『2020S』。麻世妙の大麻布を解くところから、この記憶の旅は始まる。木箱にアナログレコード、「陶片のオブジェ」、冊子──。そのすべてから2020年の記憶が蘇り、そして触れるたびに新たな記憶が生まれてゆくだろう。これを手に取る購入者に向けて、ふたりは「ただ楽しんでほしい」とコメントする。

 「記憶の断片というコンセプトに因んで陶器の破片も入っているのですが、木箱の中には“空(うつ)”があり、そこに皆さんの記憶や気持ちを自由に入れてくれたところで、この作品がようやく完成します。つまり、300カ所でこの作品は完成するわけです。それがこの作品の面白いところだと思います」(緒方)

 「音楽も同じで、誰かに聞いてもらわないと音楽は完成しないと思っています。一人ひとり受け取り方が違うにきまっていて、聴いた人の数だけ違うものが生まれます。どう受け取るかは手に取ってくれた人にお任せします。ぼくたちも楽しんで作ったので、そういうエネルギーが伝われば嬉しいですね」(坂本)

*https://www.gqjapan.jp/culture/article/20210319-ryuichi-sakamoto-2020s-7 より

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-高橋幸宏 追記あり

2023-01-15 08:24:37 | MUSIC

 「高橋幸宏」

  1952年6月6日生まれの69歳-2021年6月時点

 残念ながら、2023年1月14日に亡くなられたと。2020年に脳腫瘍の摘出手術を受け、闘病中だった。下記に詳細。

 ご冥福をお祈りします。

 

 数日前にもジェフ・ベックの訃報をお伝えしたが・・・ とても残念な話である。

 

 YMOの高橋幸宏さん、脳腫瘍を摘出 初夏の頃から頭痛 2020年8月31日 13時04分
 YMOなどのグループでも活躍するミュージシャン高橋幸宏さん(68)が脳腫瘍(しゅよう)の摘出手術を受けたと所属事務所が8月31日、ホームページなどで公表した。13日に手術を受けて成功し、現在も入院しているが後遺症はなく、経過は順調だという。

 高橋さんは公表したコメントで、初夏を迎える頃から断続的な頭痛が続き、症状が改善しないためMRI検査を受けたと経過を説明。「今後は体力気力をつけて、じっくりしっかりと治療に専念し、できるだけ早い時期に皆さんの前に立てるよう努めていきたいと思っています」としている。

*https://www.asahi.com/articles/ASN8044TVN80UCFI001.html より

 

 高橋幸宏と細野晴臣のエレクトロニカ・ユニットSKETCH SHOW、過去作アナログ化 Rolling Stone Japan 編集部 |2021/05/24 12:24

 エレクトロニカ・ユニットSKETCH SHOWが、2021年7月21日に過去のアルバム3作をアナログ12inchでリリースする。

 高橋幸宏、細野晴臣の2人によるエレクトロニカユニット・SKETCH SHOW。2002年に1stアルバム『audio sponge』をリリースする際は、YMOの2人による新プロジェクトであること、しかも坂本龍一がゲスト参加することなどを含めて、音楽ファンたちを大いに湧かせた。SKETCH SHOWとしての活動は2005年頃までに留まるが、2002年から2003年にかけて発売した『audio sponge』、『tronika』、『LOOPHOLE』をアナログ化する。

 『audio sponge』は12曲入りで、『Wonderful To Me』『Supreme Secret』に坂本龍一が、『Turn Turn』『Return』にTOWA TEIが参加。また細野が作曲したスネークマンショー『咲坂と桃内のごきげんいかが1・2・3』、The Cyrkleの『Turn Down Day』、フランス映画『セシルの歓び』の挿入歌『Do You Want To Marry Me』など、2人のセンスを込めたカバー曲も収録。

 『tronika』は、北欧のフォークトロニカからの影響がより強まった作品に。生楽器と電子音が絶妙に溶け合う、温かみを感じさせる世界観が魅力だ。なお、収録9曲のうち2曲はコーネリアスによる『chronograph』『ekot』のリミックストラックで、3曲がインタールードとして収められる。
そして『LOOPHOLE』は、『tronika』で表現されたサウンドの傾向を深めつつ、シバオカチホによるスウェーデン語の声や電子ノイズを音楽的に響かせ、アンビエントやミニマルテクノの静謐な雰囲気も表現された1枚。坂本龍一が『MARS』『ATTENTION TOKYO』に参加したほか、コーネリアスとSAFETY SCISSORSによるリミックストラックを聴くことができる。

*https://rollingstonejapan.com/articles/detail/35931 より

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-ジェフ・ベック 追記あり

2023-01-12 12:23:52 | MUSIC

 「ジェフ・ベック」

  1944年6月24日生まれの76歳-2021年1月時点

 残念ながら、2023年1月10日 細菌性髄膜炎に罹患し、治療を行ったが78歳で死去。ご冥福をお祈りいたします。

 《孤高のギタリスト》ジェフ・ベック(Jeff Beck)
 ジェフ・ベック氏はエリック・クラプトン氏、ジミー・ペイジ氏と共にUKロック3大ギタリストと呼ばれています

 「ロックギタリストには2種類しかいない、ジェフベックとジェフベック以外だ。」 – ポール・ロジャース

 という言葉が象徴するように、既存の枠にとらわれない、常に新しいギターサウンドを追求する姿勢が高く評価されている自由で個性的なギタリストです。
 日本で言うところの「後期高齢者」となった現在でも過去の自己コピーに陥ることなく、音楽的な挑戦を止めようとしません。周囲に惑わされることなく、あくまで自分のやりたい音楽を追求する姿勢、他に類を見ない独特の存在感から「孤高のギタリスト」としばしば形容されています。今回は、このジェフ・ベック氏に注目していきましょう。

Biography
 今なお衰えないジェフ・ベック氏の経歴を追ってみましょう。世界を席巻するほどの人は、最初から凄かったんだなと感じさせられます。

 
 誕生~青年期(1944~)
 ジェフ・ベック氏(本名:Geoffrey Arnold Beck)は、1944年6月24日イギリスのウォリントンに生まれます。6歳の時にラジオでレス・ポール氏の演奏を聴き、エレキギターに心を奪われました。18歳の頃からバンドを結成し、当時勢いのあったジーン・ヴィンセント氏やエディ・コクラン氏などの曲をカバーしていました。10代のうちにジミー・ペイジ氏と知り合い、親交を深めています。


 63年にはオール・スターズというバンドに参加し、ニッキー・ホプキンス(key)らに混じって初レコーディングを体験します。その直後トライデンツというバンドを結成し、ジミー・ペイジ氏やロン・ウッド氏のバンドの前座を務めたこともあります。この頃はフィードバック奏法やレス・ポール氏から影響を受けたと思われるトリッキーなプレイで、かなり評判になっていました。

 ヤードバーズ時代(1965~)
 ベック氏はペイジ氏の手引きで1965年、大物ロックバンド「ヤードバーズ」に、エリック・クラプトン氏の後釜として正式加入しました。ビートルズとローリング・ストーンズがチャート上位を独占する時代にあって、ベック在籍時のヤードバーズは3回の米国ツアーを果たす活躍を見せ、ベック氏の名声も上がっていきます。この時がヤードバーズの黄金期だったと考えるファンもたくさんいます。しかし当時は病気がちでステージに立てないことがあり、また持ち前の完璧主義が災いしてメンバーと衝突し、ベック氏は「ツアー中に解雇」という憂き目にあいます。

 この時すでに凄い人だったが
 1966年の英国音楽誌の人気投票でベック氏は1位に輝いており、ジミ・ヘンドリックス氏が「クラプトンとベックに会わせてあげるから…」という誘いにのって渡英したという逸話があるほどの人気ぶりでした。ヘンドリックス氏が派手にプレイして有名になったフィード・バック奏法や大胆なアーム奏法、またピック・スクラッチなどはベック氏の奏法を取り入れたものです。いっぽうで当のベック氏は、ヘンドリックス氏を見たあまりの衝撃に「音楽辞めようかな…」と悩んだそうです。

 ふたつの「ジェフ・ベック・グループ」(1967~)

 Jeff Beck, Rod Stewart – People Get Ready

 1967年には、ソロとしてベック氏自ら歌も唄っているシングル「ハイ・ホー・シルヴァー・ランニング」を発表。これが全英14位の大ヒットとなり、続けて「タリー・マン」「恋は水色」のシングルもスマッシュ・ヒットさせました。1968年になると、ソロ時代のバック・メンバーを中心に「ジェフ・ベック・グループ」を結成しますが、いろいろあって短命に終わります。

 ボーカル:ロッド・スチュワート(vo)、(ハスキーボイスを持ち味とする大物ボーカリスト。このバンドでデビュー。サッカーがうまい)
ベース:ロン・ウッド(b)、(現、ローリング・ストーンズにギターで在籍)
 ドラムス:エインズレー・ダンバー(dsフランク・ザッパ、ホワイトスネイク、ジャーニーなど)
 キーボード:ニッキー・ホプキンス(key)らが在籍。(ビートルズ、ローリング・ストーンズらの録音に参加)
 メンバーチェンジが幾度も繰り返されましたが、主要メンバーはこのようなそうそうたる顔ぶれでした。
 1971年には第2期「ジェフ・ベック・グループ」を結成します。この時のメンバーにはドラムスにコージー・パウエル氏(レインボー、ホワイトスネイク、ブラック・サバスなど)、キーボードにマックス・ミドルトン氏(名盤「Blow by Blow」に参加)がおり、すばらしく進化を遂げたサウンドで周囲を驚かせました。このバンドでも2枚のアルバムをリリースし、セカンドの方は全米15位と、まずまずのセールスを記録しています。

 フュージョン・サウンドの先駆者(1975~)

 Jeff Beck – Big Block (Live in Tokyo)

 再びソロになったベック氏は1975年、名盤「ブロウ・バイ・ブロウ(Blow by Blow)」を発表します。当時では珍しい「全曲ギターインストゥルメンタル」アルバムでしたが、ロックやファンクのグルーヴにジャズ的なアプローチで演奏を展開していくサウンドで、「ロックとジャズの融合(フュージョン)」という新しい音楽を完成させました。本作は全米4位という大ヒットとなり、内容的にもジミー・ペイジ氏をして「ギタリストの教科書だ」と言わしめるほどのものでした。

 ものすごい「完璧主義」
 ベック氏は極端な完璧主義者として知られており、いつも一辺の妥協もない作品を作ろうとします。この「ブロウ・バイ・ブロウ」の録音では、自身の演奏に納得がいくまでしつこく録り直したどころか、帰り道で「やっぱり録り直す」とスタジオに舞い戻ることが何度もあったようです。全ての録音が完了して数ヵ月後に「やっぱりあのソロを録り直したい」とプロデューサーに電話し、「すまん。それな、もう店に並んでる」と返されたことまでありました。

 満を持して、孤高の存在へ

 Jeff Beck – Hammerhead (Live in Tokyo)

 1985年のアルバム収録曲でグラミー賞を受賞、旧友ロッド・スチュワート氏とのコラボがヒットするなどトピックはありましたが、積極的にアルバムをリリースしていた1970年代とは打って変わって、1980年代ではそのペースがガクンと落ちます。その理由については「やる気が無くなったから」とも「ビッグになりすぎたプレッシャーに葛藤していたから」とも「耳鳴りに悩まされていたから」とも言われています。1989年のアルバム「ギター・ショップ」で健在ぶりを発揮したものの、それ以降はいくつかセッションワークに参加するのみでした。

 しかし、約10年もの沈黙を破った1999年のアルバム「フー・エルス!」以降、75歳を迎えた今なお積極的な活動を展開しています。ジェニファー・バトゥン女史(マイケル・ジャクソン氏のツアー参加で名高い)、タル・ウィルケンフェルド女史(チック・コリア氏やヴィニー・カリウタ氏らと共演した若き天才)という女性プレイヤーの起用、デジタルミュージックの採用、アンビエント・テクノやノイズ・ミュージックを意識したインダストリアル系サウンドの採用など、ギターと音楽の追及は、とどまるところを知らない勢いです。

 ギタープレイの特徴
 ジェフ・ベック氏はキャリア全体を通じて音楽的に冒険的であり、常に進化を続けています。若いころハマったロカビリーから始まって、ジャズ、ロック、ブルース、ファンク、テクノ、ドラムンベース、世界各地の民族音楽など、あらゆる音楽のエッセンスを次々と吸収しています。

 超多忙な右手
 ベック氏のプレイスタイルとして最も顕著なのは、「バリバリ弾きまくるのに、ピックを使わない」というところです。80年代中ごろからフィンガー・ピッキングに転向しており、速いオルタネイトピッキングでは人差し指をピックのように使います。これについてベック氏は「小さなプラスチック片の有無でギターが弾けたり弾けなかったりするのが嫌になった」とコメントしたそうです。頻繁なピックアップ切り替え、ボリューム操作、アーミングがあってのフィンガーピッキングは、常人ならば猫の手も借りたい忙しさです。

 「一回弾いたらもう飽きる」
 ベック氏は「何度も同じことをしない」ことを身上にしているらしく、「一度弾いたらもう飽きる」とコメントしたこともあります。これを最も端的に証明しているのが、名演と呼び声高い「悲しみの恋人たち」でしょう。「レードドー」のようなコンパクトなモチーフの連続でできているメロディですが、ベック氏はチョーキング、グリッサンド、ハンマリング/プリングなどの指技やリズムのアレンジを駆使し、全て違う弾き方で演奏しているのです。

*https://guitar-hakase.com/1716/ より

 2020年4月16日、ジョニー・デップとコラボしたジョン・レノンのカバー曲「孤独」をニュー・シングルとして公開。これが2人の継続的な音楽的コラボレーションの初リリースであることを明かした。このシングルがCOVID-19パンデミックのロックダウン期間中にリリースされたことに触れ、「ジョニーと僕はしばらく前から一緒に音楽に取り組んでて、この曲は去年スタジオにいた時にレコーディングしたんだ。こんなに早くリリースするとは思ってなかったんだけど、この困難な時代に人々が経験してるすべてのつらい日々と真の "孤独 "を考えると、今が皆さんに聴いてもらうのに良い時期かもしれないと判断したんだ」と説明している。

*Wikipedia より

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-ABBA 追記あり

2021-09-03 10:32:48 | MUSIC

 「ABBA」

 スウェーデンから飛び出したスーパー・ポップス・グループ、ABBA。誰もが一度は耳にしたことがあるに違いない"ダンシング・クイーン"や"恋のウォータールー"などの名曲。そこでの、美しいメロディと華麗なヴォーカル・ハーモニーには最高のポップ・マジックと呼びたい、あの胸がときめくような感触が封じ込められている。

 スウェーデンのビート・ポップ~ソフト・ロック・バンド、ヘップスターズ。に在籍したベニー (Benny Andersson)、フォーク・ロック・ユニット、フーテナニー・シンガーズ在籍のビヨルン(Bjorn Ulvaeus)が出会ったのは1966年のこと。意気投合した二人は、後の1970年にデュオを結成する。そしてそこに既にソロ歌手として活躍していたアグネタ(Agnetha Faltskog)とフリーダ(Anni-Frid Lyngstad)が加入し、ABBAの原型となるグループが出来た。1973年正式に4人で活動を始めた彼らは、ユーロビジョン・ソング・コンテストに出場。1973年3位を獲得した"リング・リング" 、更に"ウォータールー"で翌年の1974年に優勝するなど話題を集めた彼らは、それ以降世界的に通用するポップス・グループとして高い人気を得ていく。1977年発表の代表曲"ダンシング・クイーン"などを筆頭にヒット・ソングを数々生み出し、70年代の音楽シーンを彩った彼らだったが、1983年に発表予定だった未完のアルバムを遺して1982年に活動を停止。

 ベニーとビヨルンという優秀なソングライターを擁したABBA。そして勿論その楽曲のポップさを際立たせる要素がフリーダとアグネタによる透き通るような歌声、ハーモニーなのは言うまでもない。"ダンシング・クイーン"のカヴァーやリメイクも幾つかあるが、それらを聴いていていつも思うのは、やはり名曲/美しいメロディだな、ということ以上に、ABBA独特のコーラス・ワークがいかに優れてポップなんだろうか、という点だったりする。

 ABBAのポップス界における影響力は大きく、今でもヨーロッパから出現するディスコティックなダンス・ポップ・グループには、彼らの影を見出すことができる。同郷のエイス・オブ・ベイスなどはそうしたグループ/ユニットの筆頭株だろうが、彼らを含め最近のそうしたグループは、ヴォーカリゼイションという点においてはやはり先達とは趣を異にしているようだ。よりビートが強調されているのが最近の傾向だということがあって、ABBAのような古典的な歌ものに通じるポップス的要素はそれほどないのが主流である。ビートの利いたダンス系ばかりとは言い切れないメイヤ (こちらも同郷)などのオーソドックスなポップス要素を持つアーティストのほうが、どちらかというとABBAのスタンスに近いのかもしれない、と思う。また昨今各国でボーイズグループが続々とヒットを飛ばしているが、彼らの佇まいもモータウンなどのアイドル・ポップやABBA的なルーツをどこかに持っているような気がする。要はある種のポップス・ユニットの原型的なイメージをABBAが持っているとも言えるのだろう。

*https://www.hmv.co.jp/artist_ABBA_000000000000296/biography/ より

 メンバー

 アイネッタ・フェルツクグ 1950年4月5日生まれの71歳

 ビョルン・ウルヴァース  1945年4月25日生まれの75歳

 ベニー・アンデション 1946年12月16日生まれの74歳

 アンニ=フリッド・リングスタッド 1945年11月15日生まれの75歳

 

 なぜアバが再結成?解散35年、実は売れ続けていたABBAビジネスの舞台裏 草薙厚子

 4月28日、伝説的ポップグループ「ABBA(アバ)」が再結成と35年ぶりの新曲制作を発表し、世界が騒然となった。40~50代にとっては懐かしいアバ。でもなぜ今、再結成?

 昨年、現地スウェーデンで関係者を取材したジャーナリストの草薙厚子さんによると、実は、アバ・ビジネスは解散後も成功し続けてきたのだという(以下、草薙さんの寄稿)。

 2019年に、“デジタル・アバ”がヴァーチャル再結成ツアー


 「メンバーの名前は知らないけれど、ダンシング・クイーンなら知ってる」

 これが音楽ファンのアバに対する印象だろう。全世界で3億7千万枚を売り上げ、82年に活動休止した北欧スウェーデン出身の4人組の人気ポップ・グループ、アバ。70年代後半から80年代初頭に数多くのヒット曲を生み出し、日本でも大ブームを巻き起こした。

 メンバーは現在は離婚してしまったが、元々は2組のカップルだった。グループ名は、アグネッタ(A)、ビョルン(B)、そしてベニー(B)、フリーダ(本名のアンニフリッドのA)の4人の頭文字をとって「ABBA」と名付けられた。発表された作品は現在でも世代を超えて愛され続けている。


 そのアバが35年ぶりに4人でスタジオ入りし、すでに2曲の新曲を完成させたというニュースが世界を駆け巡った。その曲のタイトルは「I Still Have Faith in You」と「Don’t Shut me down」。12月に放送されるアメリカNBCとイギリスBBCの共同制作によるテレビ番組内で披露される予定だという。

 これまでアバの再結成に関しては、何度も噂されては立ち消えになっていた。様々なオファーはあったが、メンバーは「再結成に向けての動機がない」という理由で常に拒否していたのだ。

 実は今回の再結成では、実在のメンバーは登場しない。パフォーマンスをするのは“アバター”つまり“デジタル・アバ”なのだ。

 アバのビジネス関係者と親交が深い音楽プロデューサーの大越王夫氏に今回の再結成レコーディングについて訊いてみた。

「今回の再結成レコーディングの目的は、2019年にスタートするAIとVRを駆使したヴァーチャル再結成ツアーのためです。このプロジェクトにはメンバー4人全員が協力して作り上げています。文字通り『アバター』での再結成で、テーマは『1979年のアバ』と言われています。楽曲そのものが、時代に寄り添って形を変えながら生き続けている稀なケースではないでしょうか」

 

 1982年の活動停止後も売れ続けていたアバ

 新曲に関してメンバー4人は「私たちは年をとってきたかもしれませんが、その曲は新しくいい感じですよ」と公式コメントで述べている。いったいどんな曲調になるのか、待ちわびているファンは早くも想像を巡らせている。

 グループのマネージャーのヨレル・ハンサー氏は、曲について、「アバ全盛期と同じだった。素晴らしい化学反応が起こり、まるで時間が止まっているかのように感じた」とインタビューで述べている。

 1982年にグループとしては活動停止したものの、アバの曲はオリジナルであったり、カバーであったり形を変えながら、今日まで世界中の至るところで聴かれ続けている。

 日本でも2001年に滝沢秀明、深田恭子らが出演したTBS系ドラマ「ストロベリー・オン・ザ・ショートケーキ」の主題歌として「チキチータ」「S.O.S」の2曲が使用された。それに伴い日本編集のベストアルバムがリリースされたのだが、50万枚を超える大ヒットになっている。

 そこで時代を超えて生き続ける活動停止後のアバの曲の「進化の歴史」を追ってみる。

1990年代、若者やゲイの支持で世界的リバイバル


 活動停止後、メンバーはそれぞれソロ活動を行なった。特に女性二人、アグネッタとフリーダはアバから離れてソロアルバムをリリース。スマッシュヒットを記録したものの、アバの時代ほどの成功とはならなかった。一方、男性二人、ビョルンとベニーが制作したミュージカル・アルバム「Chess」は大ヒットを記録。その後もずっとミュージカル作品を作り続けていくことになる。

 80年代の後半になると、アバの曲は、移り変わりの激しい音楽業界の中で、「懐かしのヒット曲」「カタログ作品」として扱われていくことになる。

 ところが90年代に入ると、アバの音楽に影響を受けた世代が彼らの曲を蘇らせ、世界的なリバイバル現象が起こったのだ。


 1992年、イギリスの2人組のポップデュオ、イレイジャーが、「アバエスク」という4曲入りのカバーアルバムを制作。カバー曲「テイク・ア・チャンス」がイギリスでNo.1になり、全世界で大ヒット。

 またその年の秋、全世界共通のベスト・アルバム「アバ・ゴールド」をリリース。こちらも世界中で大ヒットを記録。現在までに約3000万枚を売り上げている。活動していた時にはあまり評価されていなかったアメリカをはじめ、世界的にリバイバルブームが起こり、アバの再評価が高まったのだ。

 またゲイ・カルチャーの中でもアバの楽曲の評価が高まった。熱狂的なファンが多かったオーストラリアで制作された、三人のドラァグ・クイーンが旅をする映画『プリシラ』(1992)では、アバのヒット曲「マンマ・ミア!」に合わせて踊るシーンも話題になった。

 大ヒット曲「ダンシング・クイーン」や「ギミー! ギミー! ギミー!」などは、ゲイ・アンセムとしても有名だ。同じくオーストラリア制作の『ミュリエルの結婚』(1994)という映画でもアバのヒット曲が劇中で使用された。

 

 舞台・映画『マンマ・ミーア!』ヒットの鍵は「歌詞の翻訳許可」』ヒットの鍵は「歌詞の翻訳許可」


 そんな世界的なリバイバルブームの中でもアバは決して再結成をしなかった。しかし、あるプロジェクトがアバの曲に新しい命を吹き込むことになる。それがミュージカル「マンマ・ミーア!」だった。

「マンマ・ミーア!」は、ギリシャの美しい島を舞台に、結婚する娘の父親探しをする母娘の物語をコメディタッチにしたストーリーだ。このミュージカルは、オリジナルのメロディはそのままに、全編ストーリーに沿った歌詞に“衣替え”した22曲で作られている。


 1999年にロンドンで初演。2001年にはブロードウエイに進出し、2002年には日本の劇団四季による上演がスタート。2016年までにイギリス、アメリカ、日本、それぞれの国で3000回を超える公演数を記録した。

 これだけのヒットミュージカルになった理由には、メロディはそのままで、それぞれの国の言葉に例外的に歌詞を翻訳する許諾を与えたということにある。「マンマ・ミーア!」は22カ国の言語に翻訳され、世界6大陸、50カ国以上で上演され、現在でも毎日、世界中のどこかで上演されているのだ。

 その人気がハリウッドの映画業界に飛び火、2008年にメリル・ストリープ主演で「マンマ・ミア!」は映画化された。サントラ盤も大ヒットを記録。ストックホルムで行われた公開プレミアでは、ついにアバメンバー4人全員が揃って公の場に登場した。

 アバ博物館にショーに、いまや一大観光資源

 2013年には、ストックホルムに全館アバづくしの「アバ・ザ・ミュージアム」がオープン。

 また、2016年にはストックホルムの大きなレストランで「マンマ・ミーア・パーティ」というショーが始まった。食事をしながらショーを見たり、アバの曲に合わせて観客が踊ったりするパーティだ。アバはいまや一大観光資源なのだ。

映画『マンマ・ミーア!』の続編がこの夏公開に


 このようにアバの曲は世代をつなぐ「バトンリレー」のように愛され続けてきた。

 しかし、彼らはもはや活動していないため、ファンはライブを見ることができない。当時からレコーディングを中心とした活動だったので、ライブはあまり行なってこなかった。

 それでも1977年のオーストラリア・ツアーは「アバ・ザ・ムービー」という映画になった。1979年には初の北米ツアーが行われ、1980年の日本公演は日本武道館を始め、福島の郡山でもコンサートが開かれ、12回で10万人以上を動員している。

 そこで登場したのが、いわゆるカバー曲を演奏する「トリビュートバンド」だ。オーストラリアで結成された「ビョルン・アゲイン」は、その中でも最も古く1988年に結成。今年は結成30年で、アニバーサリーツアーを今年の12月にイギリスで行うことが発表された。生のライブを見ることができない今となっては「トリビュートバンド」はニーズが高いのだ。日本でもいくつかのトリビュートバンドがコンサートを行なっている。

 マンマ・ミーア2 さらに、映画『マンマ・ミーア!』の公開からちょうど10年となる今年、続編となる映画『マンマ・ミーア!ヒア・ウィー・ゴー』が夏に公開される(日本では8月24日公開予定)。前回と同様、メリル・ストリープをはじめ、歌手のシェールも出演しており、再び“衣替え”をしたアバのヒット曲が全編に網羅されている。

 アバの「進化の歴史」はまだまだ終わることはないようだ。<TEXT/ジャーナリスト・草薙厚子>

*https://nikkan-spa.jp/1473527 より

 

追記:ABBA40年ぶり復活!11・5新作アルバム世界発売、来年ロンドン公演 [2021年9月3日2時0分]

 「ダンシング・クイーン」「マンマ・ミーア」など世界的に知られる名曲を世に送り出し、82年に活動を休止していたスウェーデンのポップグループ「ABBA(アバ)」が、約40年ぶりに復活することを2日深夜、発表した。11月5日に新作アルバム「Voyage(ヴォヤージ)」を全世界同時発売。来年5月27日(現地時間)には、デジタルと融合したロンドン公演を開催することも明らかになった。

   ◇   ◇   ◇

 伝説のグループが、40年の時をへて復活することになった。メンバーは「この数十年にわたり、何らかの方法で私達のことを辛抱強く見守ってくださった皆さんへ。大変お待たせしました。いよいよ新たな旅の始まりです」と高らかに宣言した。

 ギターのビヨルン・ウルヴァース(76)、ピアノのベニー・アンダーソン(74)の男性2人と、アグネタ・フォルツコグ(71)フリーダ・リングスタッド(75)の女性ボーカル2人による4人組は、1974年から82年までの実働8年間で、シングル・アルバム合計で3億8000万枚以上を売り上げた。一時はスウェーデンの世界的な自動車メーカーに次ぐ外貨獲得産業とも言われるなど、当時のディスコブームにも乗って、世界的な人気を誇った。

 82年に実質解散状態になり、メンバーはそれぞれで音楽活動などを行っていたが、92年発売の「アバ・ゴールド/グレーテスト・ヒッツ」は、104週連続で全米アルバムチャートにランクインするなど、全世界で2800万枚を超える売り上げで、人気は衰えず。日本でも、14年に世界で唯一ファン投票によるベスト盤「ABBA 40/40~ベスト・セレクション」が発売されるなど、根強いファンが多い。

 ファンの期待に応える形で、18年ごろからセッションを行うなど準備を進めてきた。今回のアルバムは、すでにレコーディングしたことが明らかになっている「I Still Have Faith In You」「Don’t Shut Me Down」の2曲をはじめとした新作。来年5月にロンドンの最新鋭アリーナ「ABBAアリーナ」で行われる公演「ABBA Voyage」は、4人と10人編成の生バンドがデジタルで共演する“革命的な”コンサートになるという。

 新たな“航海”に向けてメンバーは「若き日の自分たちの力を借りて、未来へと旅立つ。これは前例のないもの。皆さんに“お会い”できるのを楽しみにしています」と呼びかけた。

 ○…ABBAは80年に東京・日本武道館などで全国ツアーを行い、ディスコミュージックの定番曲としても、当時から日本で人気があった。活動休止中も、01年に滝沢秀明氏や深田恭子らが出演したTBS系ドラマ「ストロベリー・オン・ザ・ショートケーキ」で「チキチータ」や「S.O.S.」がテーマ曲に使用され、同年発売の「S.O.S.~ベスト・オブ・アバ」が100万枚出荷のヒットを記録。「マネー、マネー、マネー」がテレビ朝日系バラエティー番組「いきなり!黄金伝説。」などで使用されるなど、多くのファンに親しまれている。今回のアルバム「ヴォヤージ」では通常盤のほか、日本のみ、ベスト盤「アバ・ゴールド」や、DVD「アバ・イン・ジャパン」などが付属した形態でも発売される。

 ◆ABBAの過去のアルバム◆

 <1>リング・リング~木枯らしの少女(Ring Ring=73年)日本でもヒット「木枯らしの少女」(ビヨルン&ベニー名義)収録

 <2>恋のウォータールー(Waterloo=74年)同名曲をフィーチャー。国際的なアーティストの第一歩に

 <3>アバ(ABBA=75年)「マンマ・ミーア」「アイ・ドゥ・アイ・ドゥ」など代表曲

 <4>アライヴァル(ARRIVAL=76年)「ダンシング・クイーン」など収録で世界10カ国で1位獲得

 <5>ジ・アルバム(THE ALBUMS=77年)「イーグル」「きらめきの序曲」など。オリジナル売り上げ最大

 <6>ヴーレ・ヴー(Voulez Vous=79年)「ギミー!ギミー!ギミー!」「チキチータ」などバラエティー豊か

 <7>スーパー・トゥルーパー(Super Trouper=80年)名バラード「ザ・ウィナー」など。英で年間最高セールスに

 <8>ザ・ヴィジターズ(The Visitors=81年)“最後”のアルバム。「ポップミュージックの完成型」と称された

 <9>アバ・ゴールド(GOLD=92年)解散後に結成20周年を記念して発売された19曲入りベスト盤

 ※タイトルは邦題。<9>はベストアルバム

 ◆ABBA(アバ) ビヨルン・ウルヴァース、ベニー・アンダーソン、アグネタ・フォルツコグ、フリーダ・リングスタッドによる4人組。それぞれがペアで音楽活動や結婚などをへて、74年に各メンバーの頭文字をとって「ABBA」としてデビュー。76年に「ダンシング・クイーン」が初の全米1位に輝くなどヒット曲を連発。82年に新曲6曲をレコーディング後に活動を停止し、実質的解散状態に。

*https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202109020000762.html より

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-鳥羽一郎

2021-06-18 10:36:42 | MUSIC

 「鳥羽一郎」

  1952年4月25日生まれの69歳

 2021年4月7日リリース!
 「男護り船」

 海が暴れりゃなおさら燃える、命を懸けて網を引く・・・
 鳥羽一郎、待望の新曲は北島三郎作、海の男の大演歌!

 【収録内容】
 (1) 男護り船
 作詩:原 譲二/作曲:原 譲二/編曲:遠山 敦
 (2) おやじ想へば
 作詩:原 譲二/作曲:原 譲二/編曲:遠山 敦
 (3) 男護り船 [オリジナル・カラオケ]
 (4) おやじ想へば [オリジナル・カラオケ]

 鳥羽一郎の真骨頂、“海の男の歌” を、原譲二こと北島三郎氏が書き下ろした作品。
 王道の漁師歌の中にも、どこかモダンさを感じさせる作風。
 カップリング曲は、父親への思いを自分が大人になって改めて切々と語るマイナーの作品。
 同門の先輩・北島三郎氏から、鳥羽一郎40周年前祝いの作品。

*https://www.crownrecord.co.jp/s/c01/artist/toba/news?ima=4104 より

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-三好鉄生

2021-06-17 10:38:55 | MUSIC

 「三好鉄生」

 1951年11月30日生まれの69歳

 1951年11月30日生まれ。北海道出身。1970年、音楽好きのヤマの男でバンドを作ろうと誘われるまま、父や兄たちのいる赤平炭鉱に入った。30歳でデビュー、ヒットして受賞曲となった2作目「涙をふいて」は、栄養ドリンクのTVCMに使われ、自らも出演。他に「アイラブユーこの街」「素敵だね」など。TV出演作に『湘南ペンション通り』『人間万事塞翁が丙午』等。

2012/08/30 (2018/05/17更新) (CDジャーナル)

*https://tower.jp/artist/284498/%E4%B8%89%E8%B2%B4%E5%93%B2%E6%88%90-(%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%89%84%E7%94%9F) より

 

 現在。ライブは?「涙をふいて」「すごい男の唄」の誕生秘話は?

 現在も歌手活動をしており、所属レコード会社との契約があり2017年3月29日にベストアルバム『三好鉄生BEST』をリリースし、また同日リマスターアルバム『男だから・・・』をリリースしました。

 その後、ライブ活動なども行っていないようであり、2018年の予定も決まっていない状況です。確かに懐かしの歌手なので特に予定も無いのかも知れません。しかし1980年代にヒット曲や俳優としての活動もしているためひとたびメディアに出れば知っている人は居るはずです。

 ではここから三好鉄生さんの楽曲「涙をふいて」「すごい男の唄」について書いていきます。

 まずは涙をふいて。この曲は三好鉄生さんに於いてセカンドシングルで1982年8月5日にリリースされました。作詞康珍化 作曲 鈴木キサブローという事で職業作家さんが描いた楽曲です。この曲のデモテープでは作曲家の鈴木キサブローさんがギター一本で仮歌を歌い、涙をふいてと言う部分だけはその時点で言葉としてあり、その言葉を活かして歌詞を書いて欲しいとオーダーしました。結果としてあの曲が出来上がったようです。

 また当時はお金があったようでこの曲をレコーディングした場所はアメリカのロスアンゼルス、アレンジャーはlongTrainRunningでお馴染みのドゥービーブラザーズのジェフバクスターが担当しました。またギターによる間奏はレコーディングディレクターが気に入らずジェフが弾いた物はNGとして日本のスタジオミュージシャン芳野藤丸さんが弾いた物が採用されたようです。


 この曲で三好鉄生さんはボーカリストとして生きていくことが出来るようになりましたし、この曲だけは今でも色んな人に歌われている名曲です。職業作家が書いたヒット曲は今殆どありませんが当時は職業作家がまだまだ活躍していた良い時代と言えそうです。

 売上げ枚数は11万枚を数え、大ヒットをもたらしました。また、三好鉄生さんは苦労人で一般の仕事をしながらオーディションに合格した経歴の持ち主でデビュー時には既に30歳を迎えていました。

 しかし、歌手デビュー前からドラマ出演が決まるなどの数奇な運命の悪戯があり現在に至っているようです。

 続いては「すごい男の唄」についてです。1987年にリリースされ作詞仲畑貴志さん作曲服部克久さんでした。

 ビールのCMソングであり最初は柳ジョージさんが歌っており、レコード化するときに三好鉄生さんに歌手が変わったという曰く付きの曲でした。柳ジョージさんはこの曲は企画物の単発作品だと思い、レコード化の話が持ち上がった際に拒否し声が近かった三好鉄生さんに話が回ってきた物です。

 確かに歌詞の中にビールが出てきてビールのCMソングですから、企画物と考えるのは当たり前と言えば当たり前です。また、柳ジョージさんの根底にある音楽はR&Bなのでポップス色が強いこの曲はあまり気に入らなかったのかも知れませんね。

 CMとレコードで歌っている人間が違うというのはあまり聞いたことがない珍しいエピソードですよね。レコーディングまではこう言った話はあります。しかし目論見通りこの曲は三好鉄生さんが歌いヒットしました。

 しかし、2009年に服部克久さんが発売したアルバムの中に、柳ジョージさんが歌ったすごい男の歌が収録されています。柳ジョージさんは他界しているため出来たことなのかも知れません。

*https://folk-song.net/2018/01/10/miyoshi-tetsuo/ より

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