「坂本龍一」
1952年1月17日生まれの69歳-追記時、71歳
またまた訃報が・・・
2023年3月28日、長い闘病生活の末、ご逝去されました。今年に入って高橋幸宏氏に続いての訃報はとても残念です。
所属事務所のメッセージの中に
坂本さんの好きだったという次のことばで締めくくられています。
「最後に、坂本が好んだ一節をご紹介します。
Ars longa,vita brevis
芸術は長く、人生は短し」
ご冥福をお祈りいたします。
坂本龍一と “音楽の自然回帰”(前編)──『Ryuichi Sakamoto | Art Box Project 2020』制作リポートVol.07
By 宮谷行美 2021年3月19日
坂本龍一の2020年の活動をまとめた『2020S』が2021年3月30日に発売される。豪華アートボックスが完成するまでの制作過程を数回にわたってレポートする本連載「BEHIND THE SCENE」の7回目は『2020S』の音づくりについて。
坂本龍一の1年の活動をまとめるコンプリートボックス『2020S』。音楽作品として、そしてアート作品として超越したものを目指し、“日本文化を象徴するもの”というコンセプトのもと制作が進められてきたが、いよいよ制作は全工程を終了し、あとは3月30日の発売を待つのみとなった。
これまでの「BEHIND THE SCENE」では、外装や「陶片のオブジェ」などの制作過程をインタビューとともに紹介して『2020S』の魅力を紐解いてきたが、何よりも忘れてはならない今作の魅力といえば、坂本龍一の音楽そのものにある。
『2020S』には、2020年に坂本が制作・発表した楽曲に加え、今作のテーマの1つである“記憶の断片”をもとに書き下ろした新曲が収録される。新曲には、坂本の念願であった“陶器を割る音”を使用する。計7枚のアナログレコードで綴るのは、坂本龍一の1年の記憶であり、“音楽の自然回帰”である。今回は“コンプリートアートボックス”という原点へ回帰し、坂本の2020年の音楽について、そして陶器を割る音を使用した新曲「fragments, time」について触れてみたい。
音楽家・坂本龍一の妙
前年度のコンプリートアートボックス『Ryuichi Sakamoto 2019』では映画のサウンドトラックを中心に構成されていたが、『2020S』ではジャンルレスなコラボレーション楽曲が集う。蔡明亮監督作品『あなたの顔(英題:Your Face)』、コゴナダ監督作品『After Yang』のオフィシャルサウンドトラックにはじまり、イタリア発の高級ラグジュアリーブランド、ボッテガ・ヴェネタのショートフィルム用に書き下ろされた「BV」や米シアトルのNPO法人MOR(Music of Remembrance)のために制作された「Passage」、さらにはテレビ東京のミニドラマ『きょうの猫村さん』の主題歌となった「猫村さんのうた」など、そのラインナップを見るだけで坂本の多岐にわたる音楽活動が伺える。
中でも現代アーティスト・李禹煥の個展のために制作された『S/N for Lee Ufan v.2』は、ピアノの線を弾く音から電子的なフィードバックノイズ、銅鑼の唸り、金属片やガラス、石などを用いた表現など、坂本らしさを感じる独特な手法がふんだんに詰まった楽曲となっている。いっぽうで、無印良品のCM音楽として制作された「MUJI2020」は、ピアノひとつで心温まる2分間を紡ぎ、心地良くも一度聴いたら忘れられない印象強さを残す。ピアニストとして、そしてメロディーメイカーとしての妙を感じさせる1曲だ。
坂本が目の前で演奏をしているような「fragments, time」
“陶器を割る音を使って音楽を作りたい”
『async』のリリース以降、坂本が強く思い描いていたアイデアが『2020S』でついに実現される。楽曲で使用するのは、坂本自身が絵付けを行い、唐津の陶芸家・岡晋吾が焼き上げた陶器の皿だ。坂本は10月末にNYの自宅にて陶器を割る音を採取し、制作期間へ移行。12月初旬には「fragments, time」という曲名ともに完成した楽曲が届いた。
楽曲から聴こえるのは陶器とピアノの音のみ。静寂の中で陶器は不規則に鳴り響き、その隙間を埋めるようにピアノが丁寧に紡がれてゆく。一音一音が情緒的で、記憶の片隅にあるような懐かしい風景やにおいがふと蘇ってくるようだ。シンプルな素材である分、すべての音色がダイレクトかつ立体的に耳に届き、耳を澄ますと坂本の不意のひと息まで聴こえてくるなど、まるで坂本が目の前で演奏しているような身近さが感じられる。
人力では再現できない陶器の繊細な揺らぎや余韻を味わう
“陶器が割れる音”と聞くと耳当たりの強い衝撃音を想像するが、実際に楽曲から聞こえてくるのは耳をつんざくものではなく、どこか透明感のある柔らかな響きである。陶器の断片は転がるたびに1つずつ異なる余韻を残し、坂本がこの楽曲に使用するために作ったという「簡易な楽器」は、複数枚の陶器がランダムに触れ合い自由な音色を奏で合う。
陶器同士が触れ合う面積や角度、回数が異なるたび、人力では再現できない陶器の繊細な揺らぎや余韻が生まれる。ひとつとして全く同じ記憶というものが存在しないように、5分間の中に1度も同じ瞬間が訪れない音楽を導き出したのだ。また、楽曲には静寂とともに聴く時の環境や気分を反映する余白がある。曲を聴くタイミングごとに新しい記憶が生まれるのもまた、この曲の一興なのかもしれない。
概念や制限を超え、音楽の原点へ回帰する
新曲用に作られた7inch盤には、「fragments, time」からピアノのメロディだけを抜いた「fragments, time-debris」という楽曲も合わせて収録されている。より静寂さが増し、一つひとつの所作がより鮮明に聴こえる。さらには同音連打するピアノの存在感が強くなり、陶器の音色がより立体的な印象になるなど、同じ楽曲であるにもかかわらず、全体的な雰囲気が変わるのが魅力だ。
何より「fragments, time-debris」をリピートすると、始まりと終わりに境目がなくなって聴こえるのも面白い。聴き続けているうちに5分5秒という時間制限がなくなり、永遠に音楽が鳴り続けているような感覚が生まれてくるのだ。そこにはいつの間にか音楽に根付いてしまった規則的なものや“時間”という概念はない。まるで音楽の原点へ回帰するように。
坂本の記憶の扉を開く『2020S』
音楽は非科学的かつ非同期的なものである。それを体現するように、坂本は“音楽の自然回帰”を追求し、自然のエネルギーに同化する音楽スタイルを築いてきたように思う。思考に左右されず、“あるがまま”を愛するということだ。その大きなきっかけとして、2011年の東日本大震災で津波に流れて壊れたピアノに出会ったことが挙げられるが、10代の頃から抱いていた「聴いたことがない音を聴いてみたい」という探求心も影響しているだろうし、さらには音楽の自由を追求し続けたクラシック音楽家、クロード・ドビュッシーの精神性を幼少期から自然と受け継いでいたのかもしれない。
奇しくも“自然回帰”は『2020S』の主要テーマの1つ。今作は、木箱や陶芸、布地から見る日本文化の魅力を通じて、これからの人間の生き方を問いかけるとともに、楽曲たちを通じて音楽の自然な在り方を問うものとしても意味をなすものとなるだろう。また、何より「fragments, time」というひとつの音楽がこの世に生まれた過程の記憶が、「陶片のオブジェ」に宿っている。楽器の一部を所有していることで、より立体的に見えてくるものもあるだろう。
これらの楽曲はアナログレコードに収録され、新曲が収録される7inch盤のみ箱上部に、その他12inch盤は引き出しのような構造となっている木箱内部に1段ずつ収納される。購入者は箱を開け、きっちりと収められた盤や「陶片のオブジェ」、冊子などをひとつひとつ引き出していくことになる。それは、坂本の記憶の扉を開く感覚にも近い。坂本の記憶を辿りながら2020年の活動を振り返りつつ、それぞれの記憶、それぞれの想いとともに、さまざまな角度から坂本龍一の音楽を楽しんでみてほしい。
坂本龍一と “音楽の自然回帰”(後編)──『Ryuichi Sakamoto | Art Box Project 2020』制作リポートVol.08
By 宮谷行美 2021年3月30日
坂本龍一の2020年の活動をまとめた『2020S』が2021年3月30日に発売される。豪華アートボックスが完成するまでの制作過程を数回にわたってレポートする本連載「BEHIND THE SCENE」の8回目は、アートディレクター・緒方慎一郎との対談。約1年の制作期間を振り返る。
坂本龍一の2020年の活動をまとめるコンプリートボックス『2020S』がついに発売を迎える。本製品の発売に伴い、制作過程や制作陣の想いをお届けしてきた「BEHIND THE SCENE」もいよいよ最終回だ。ひとつのプロダクトが形となるまでのヒストリーを紐解くことで、『2020S』の秘められた魅力やこだわりに触れるひとつの手立てになったのではないだろうか。
今企画の最後に、『2020S』の主宰者である音楽家・坂本龍一と、アートディレクター・緒方慎一郎による対談が実現。約1年の制作期間を振り返るとともに、主宰者から見た『2020S』の魅力や作品に込めた想い、2020年という忘れられない1年について深く迫りたい。
自然に生まれたアイデアとクリエイションに導かれて
『2020S』の制作の話が持ち上がったのは、同年に入って間もない頃。“コンプリートアートボックスを制作する”という目的以外はすべて白紙のまま、坂本は予てから交友があった緒方に制作を依頼。食文化を起点にさまざまなクリエイションを展開し、現代における日本文化の在り方を問いかけてきた緒方をアートディレクターとして迎えることで、自然に“日本文化を象徴するもの”という大きなテーマが生まれたそうだ。
「知り合う前から緒方さんの作品やセンスの良さは知っていたのですが、一緒に時間を過ごすことでより深く知るようになり、“今回はぜひ緒方さんにお願いしよう”と決めました。緒方さんは“日本の美”を現代的に抽出することをずっと考えていらっしゃる方なので、彼にお任せすると決めたところで、“これは日本的なものになるだろうな”と思っていましたね」(坂本)
サンプリングされたものから掻い摘むのではなく、物事の本質を捉え、熟考したうえで自分なりの展開を見出そうとする緒方の思考やものづくりの姿勢に、坂本は深く共感したという。緒方との対話から自然に生まれるアイデアやクリエイションに身を委ね、ディスカッションを重ねるなか、作品に陶器を用いる案が生まれた。
「はじめは当然白紙の状態で、何かを見つけ出さないと次に進めないので、ふたりで色んな話をしていました。そのなかで、ぼくが3年前に前のアルバムをリリースしたときに“次のアルバムは音楽作品として焼き物を売って、買ってくれた人たちに割ってもらおう”と冗談半分で言っていた話をしたところ、“面白いから冗談じゃなくて本気でやってみようか”という話になりました」(坂本)
丁寧さと実行力を兼ね備える緒方慎一郎の手腕
坂本と緒方は間接的に同じプロダクトに関わったことはあるものの、スタートから二人三脚で仕事を進めるのは、今回が初めてとなる。ディスカッションから作品のコンセプトを導き、明確なキーワードと綿密なボックスデザインを提示する緒方の仕事ぶりに、坂本は感服したという。
「今回密に一緒に仕事をして改めて思ったのが、緒方さんは本当に丁寧な人だということです。作ったものを見れば作り手の丁寧さというものはわかりますが、予想以上に丁寧な仕事ぶりです。最初のプレゼンテーションから完璧でしたし、デザイン案を見た時も9割がた出来ているようなもので、あとは形にするだけだと思いました」(坂本)
また、原案が良いものほど、プロダクトを形にするための高い実行力が問われる。特に『2020S』は特殊な仕様であり、外装から収納品まで完璧に仕上げるためには、ものづくりとして高度な技術を要するのはもちろん、高いチームワークも求められるだろう。それを1年という限られた制作期間でスムーズに行い、さらにはほとんど原案通りに完成へ導くことができたのは、緒方の手腕あってこその成果だ。
「いくらアイデアが良くても形にならないものもあるし、形にできない人もいる。だから思いつきやアイデアだけでは判断できない事も多いですが、緒方さんは実行する力が本当に強いと思うし、ゴールまで必ず持っていくという粘りや気力がある人だと思います」(坂本)
緒方自身の経験に基づく発想力と行動力、そしてこれまで築き上げてきた人脈も含め、緒方の実力といえる。やや照れ臭そうに「光栄です」と言う緒方に対し、「褒めすぎたかな?」と笑いを誘う坂本。時折冗談を交えながら話すふたりからは朗らかな雰囲気が漂い、仕事のパートナーとしても友人としても良い関係にあることが窺える。
2020年でしかできなかった感動的なものづくり
『2020S』では、木箱制作には坂本が代表を務める森林保全団体・more treesの提携先である宮崎県・諸塚村の特別チームが、「陶片のオブジェ」の制作には緒方が信頼を置く唐津の陶芸家・岡晋吾が、それぞれ参加するなど、互いが持つ人脈を活かしてものづくりを進めてきた。“日本文化を象徴するもの”を作るにあたり、これほど適した人材がスムーズに集まったことは奇跡のように思えるが、緒方は「必然的な繋がりを感じた」と語る。
「プロダクトはコンセプトありきなので、一番に守ることを考えてきたのですが、進めていくうちにすべて必然的に生まれた形や素材だったのだと思いました。たとえばmore treesとは、“自然と人は共生すべき”という意味でコンセプトに共感性がありますし、avexが麻世妙を手掛けていたのもたまたまではなく、『2020S』のコンセプトがあったからこそ、繋がっていったものです」(緒方)
緒方はこれまでのインタビューのなかでも、自身の活動の一環として森林や大麻布について考えていたことや、「誰もがこれからの生き方を見直さなければいけない」という想いを語ってきた。坂本をはじめ、同じ想いを持つ人々が『2020S』を介して繋がることは、自然かつ必然的なものだったのだろう。
また、世界がパンデミックに直面するなかで制作が始まり、日本とNY、さらには日本国内でも遠隔でやり取りを行いながら進めてきた。インタビュー当日、ほとんどのスタッフが「久しぶり」ではなく「初めまして」と挨拶を交わした。このイレギュラーな製作過程もまた、2020年でしか体験できない記憶となった。
「コロナ禍に制作が進み、スタッフも今日初めて顔を合わせることができて、“やっと会えましたね”って感動し合っている。こんなに感動的なものの作り方ってないと思います。こういう経験も含めて、パンデミックがあった2020年でなくてはできなかったことだと思いますね。自然との繋がりはもちろん、人と人との繋がりも含めて、『2020S』という活動そのものが素晴らしかったです」(緒方)
無為自然であることを楽しむ
『2020S』の試作に触れ、木箱の仕様や内容物を細かく確認するなかで、坂本は「陶片のオブジェ」を手にとり、実際に飾ってみせた。本製品に同封される陶片は、坂本が自ら絵付けをした陶器の皿の一部である。初めての絵付けは、今回の制作のなかでも特に印象深いものだったそうだ。
「ぼくは小さい頃から絵心がなくて、自分でもびっくりするくらい下手だったのですが、今回描いてみたら、形はどんどん出て来るし、力の入れ方を調整すると色んな変化も出て来るので、ものすごく気持ちが良くて。“ぼくって絵心あるんじゃないかな?”と思えるくらいすごく楽しかったです。結果がどうではなく絵を描くことを自分が楽しめたというのは、生まれて初めての経験かもしれない」(坂本)
抽象的でありながら形にも見えるものを目指した結果、「月」や「山」といった漢字に見える絵も多く生まれた。無意識のうちに漢字のような絵を描いていたことには、坂本は「自分の発想が束縛されていることや人間の本質が見えるようで面白い」と答えた。自分の新しい一面を知る、という意味でも、絵付けは坂本にとって貴重な体験となっただろう。
無意識に描くものがどのように仕上がるかわからないのと同様に、陶器もまた、焼き上がるまでその仕上がりを完璧に把握することはできない。呉須で描いたものが青く仕上がることはわかっていても、色の濃淡や線の浮かび方まで人為的に細かく調整することは難しい。「自分の思った通りのものではない形になるのも焼き物の面白さだと思います」という緒方に対し、坂本は「筆や焼き物も“自然”ですよね」と返す。
「絵付けというのも、自然と自然の触れ合いのようなものです。そこにちょっとした力が加わることで接触の度合いも変わるので、あとはそのエネルギーに任せて動かすだけという。筆任せみたいな方がぼくは好きです」(坂本)
自然が導く変化や揺らぎを愛する坂本にとって、人の意思が介入しない、あるいは介入できないものに触れることは、何よりもの喜びとなるだろう。また、坂本は『2020S』のマスターコンセプトである“箱”に対し、禅や中国の思想家である老子の思想を連想したというが、坂本こそ老子が説く“無為自然”(=ありのままでいること)の必要性を肌身に感じ、自身の活動を以て体現してきた張本人である。
「“こうやるとかっこいいだろう”と思うとみんな外れてしまうからだめ。音楽もそうで、何十年とライブをやっていても、自分ではすごく良いものが弾けたと思っても、後で聴いてみると全然良くないことも多いし、逆に自分ではそんなに盛り上がらなかったものが、周りからは“ものすごく良かった”と言われることもある。あまり感情的になってはいけないのだなと思いますね」(坂本)
音楽は静寂と共に
坂本は、2009年にリリースした『out of noise』以降、より積極的にさまざまな環境音やノイズといった調律の外にある音を作品に取り入れてきた。『2020S』のために書き下ろした新曲「fragments, time」では、陶器とピアノのみを使用しているが、ピアノが主旋律を担うのではなく、陶器の不規則な音の響きやトーンに合わせて、ピアノが奏でられてゆく。音楽と自然が一体化していくなか、ピアノの弾き方にも変化があったようだ。
「ピアノは人工的に作られたものですが、弾くときはなるべく自然の音に近づけようと思って弾いています。陶器に筆で絵を描くのと同じように、“響き”の力に任せたいですね」(坂本)
ここで緒方から、今作のキーワードである“空(うつ)”に因んで、「坂本にとって“無音”とはどのようなものか」という質問が投げかけられる。坂本は「難しいよね」と頭を悩ませつつ、現在の音楽観について言及した。
「無響室へ入っても、血が流れる音や神経の音が聞こえてきます。本当の無音を経験しようと思うと、宇宙空間にでも行かない限りは難しいでしょう。ただ、静寂というものは物理的に音がしない状況とはまた違うものだと思っていて。無音を感じることはできなくても、静けさや何かの気配は感じることができます。ぼくは無音よりも、そっちに興味がありますね」(坂本)
近年では使用する楽器や音の数も少なく、これまで以上にミニマルな音楽へとシフトするとともに、“静寂のある音楽”が形成されていったように思う。静寂があるからこそ、小さな音の響きと微かな余韻を味わうことができるのだ。
坂本は現在、クラヴィコードという楽器に興味があるという。クラヴィコードとは、18世紀ごろまでヨーロッパで作られていた鍵盤楽器で、楽器に耳を寄せないと聴こえないくらい音が小さいのが特徴だ。
「今、職人さんにぼく用のクラヴィコードを作ってもらっています。職人さんは“聴こえるか聴こえないかわからないくらいの音”を求めて作るようになったとのことですが、ぼくも同じで、ここ数年ピアノや他の楽器の音が大きすぎてうるさく感じてしまうんです。自然界にそんな大きな音は本来ないはずです。ぼくは雨の降る音を楽しみながら、それを邪魔せずに一緒にいられるような音があれば、それでいいような気がするんですよね」(坂本)
“このままではいられない”今、私たちができること
『2020S』は、坂本の1年の活動をまとめるものであると同時に、2020年という歴史的な1年を記憶に残すという役割も果たす。新型コロナウイルスのパンデミックにより、世界中の人々の生活や価値観は大きく変わったが、根本的な原因を辿れば、利便性が重視される世の中が進み、自然と人が切り離されてきたことに起因する。
「新型コロナウイルスという目に見えないような自然の不思議によって、人間の活動はすべての分野に亘り、アクティビティがガクッと落ちました。ぼくたちはそんな小さいやつらに、こんなにも影響されてしまう。でもそれが自然なのです。そのことを忘れて、近代以降は制御的なやり方を取っては、自然と敵対してきてしまった。コロナは“このままではいられない”という疑問をつきつけてくれているのだと思います」(坂本)
以前より坂本は「いちばん身近にある自然は自分自身だ」と言い続けてきた。しかし、身の回りに人工的なものが溢れ、あらゆるもののデジタル化が進むなか、ふと自然との繋がりを忘れてしまう瞬間があるだろう。そこで、誰もが自然と向き合わざるを得なかった2020年を思い出せるよう、『2020S』が存在するのだ。
アインシュタインが“ミツバチが絶滅すると4年後に人類も絶滅する”というように、地球上に存在する1000万以上の生物がすべて生態系で繋がっている。つまり、人が自然の一部である以上、我々の行いが自然やその他生態系に影響をもたらし、消えてしまうものもあるということだ。
例えば日本食に欠かせないとされる北海道産の真昆布は、地球温暖化による海水温の上昇の影響を受けて絶滅の危機に曝されており、緒方は「このままでは本当の日本食はもう作れない」という。人々の生活を改めなければいけない今、我々がすぐにできることとは何だろうか。
「日本に住むほとんどの人が、お水を買ったり、おかずを買ったり、コーヒーを買ったりと、1日に何度も買い物しているはずです。そのひとつひとつが選択であり、数ある選択肢のなかから何を選ぶかによって、大分変わってくると思います」(坂本)
「個人の積み重ねでしかないのですが、その選ぶ基準も元に戻るとは思います。例えば水を使い過ぎたらいずれはなくなります。どの製品にどれほど水が使われているのかまで把握できなくても、自分が毎日どのくらい水を使っているのかはわかるはずです。そのなかで無駄を省いていくだけでも違うんじゃないかなと思います」(緒方)
意識をアップデートするために、“今”を記憶に残す
『2020S』のマスターコンセプトである“凵(はこ)”にも、日本の精神性を象徴するとともに、自然回帰を促す強いメッセージが込められている。「“空(うつ)”という何もない空間を作ることで、自然と人が繋がることができる」と緒方が言うように、古来より日本は自然と共生・共存する文化を持つ。自然と人の繋がりを改めて思い知らされる今、日本文化にこそ、これからの時代を生き抜くヒントがあるのではないだろうか。
「たとえば林業の方たちは、先祖代々の土地や山を守り続けるうえで、木を切るごとに、その木があと何年で元通りになるのかを考えて切っているそうです。大体が200~300年を要し、その間に3代、4代と家系が続きます。つまり、200年後を考えて今日の仕事をしているということです。日本はまだそういう風習が残っている国だと思います」(緒方)
資源や食糧を得続けるためには、同時に守ることも考えなければならない。それは、自然に生きるすべての生物に求められる共通事項だ。しかし、昔と今では環境も違えば、生活も異なる。数々のテクノロジーが生まれ、我々の生活の利便性が優遇され続けた結果、犠牲になるものがあまりに多すぎた。その現実を、この何十年のうちに起きた出来事たちを、無に帰すだけでは意味がない。これからを生きる我々にとって必要なのは、“今”を記憶に残し、未来を変えていくことだ。
「こんなに大きな自然の脅威に直面するなんて、100年に1回くらいの出来事です。単純にワクチンが普及して、パンデミックが沈静化して、ただ2019年の頃のように戻ればいいとは思いません。また、人間の意識も消せといわれて消せるものではないし、消せばいいものでもありません。だからこそ意識をアップデートしていくことが大切ですよね」(坂本)
『2020S』は購入者の手元に届いて、初めて“完成”する
2020年という特殊な1年を象り、坂本や緒方をはじめ、制作に携わるすべての人々の記憶と想いが宿る『2020S』。麻世妙の大麻布を解くところから、この記憶の旅は始まる。木箱にアナログレコード、「陶片のオブジェ」、冊子──。そのすべてから2020年の記憶が蘇り、そして触れるたびに新たな記憶が生まれてゆくだろう。これを手に取る購入者に向けて、ふたりは「ただ楽しんでほしい」とコメントする。
「記憶の断片というコンセプトに因んで陶器の破片も入っているのですが、木箱の中には“空(うつ)”があり、そこに皆さんの記憶や気持ちを自由に入れてくれたところで、この作品がようやく完成します。つまり、300カ所でこの作品は完成するわけです。それがこの作品の面白いところだと思います」(緒方)
「音楽も同じで、誰かに聞いてもらわないと音楽は完成しないと思っています。一人ひとり受け取り方が違うにきまっていて、聴いた人の数だけ違うものが生まれます。どう受け取るかは手に取ってくれた人にお任せします。ぼくたちも楽しんで作ったので、そういうエネルギーが伝われば嬉しいですね」(坂本)
*https://www.gqjapan.jp/culture/article/20210319-ryuichi-sakamoto-2020s-7 より