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<四国八十八箇所> 第88番札所 大窪寺

2024-06-27 07:12:51 | 巡礼

 「大窪寺」

 大窪寺(おおくぼじ)は、香川県さぬき市多和兼割にある真言宗の寺院。医王山(いおうざん)遍照光院(へんじょうこういん)大窪寺と号する。本尊は薬師如来。四国八十八箇所第八十八番札所であり、納経印は「結願所」(けちがんしょ)となっている。本寺では結願証明書(賞状)を有料で書いてもらうことができる。

 本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
 ご詠歌:南無薬師諸病なかれと願いつつ 詣(まい)れる人は大窪の寺(てら)
 納経印:当寺本尊、五大明王、奥之院胎蔵峯寺、弘法大師
 歴史
 寺伝によれば、奈良時代の養老年間(717年 – 724年)に行基がこの地を訪れたとき悪夢を感得し草庵を建て修行をしたのが開基とされ、弘仁年間 (810年 – 823年) に唐から帰朝した空海(弘法大師)が現在の奥の院にある岩窟で虚空蔵求聞持法を修し、谷間の窪地に堂宇を建て等身大の薬師如来坐像を刻んで安置し、また恵果阿闍梨から授かった三国伝来の錫杖を納めて、窪地にちなみ「大窪寺」と名付けたとされている。

 その後、真済僧正が住職のころ寺領百町四方を結界とし大きく隆盛し、また、女人の参詣を許して勧請を授けたので女人高野として栄えた。

 戦国時代の兵火については文献により異なる。

 1.『南海通記』や『長尾町史』では天正2年に三好長治の軍勢が安富氏とともに寒川氏の昼寝城攻めをするも失敗した際に昼寝城の味方をした寺に火を放ったものであるとされている。
 2.寺の由緒を記した『大窪密寺記』(元禄十年頃)では乱れた世の騒乱で金像・建物が頻りに焼かれ、一院のみとなっていたところに盗賊の頭である土佐の長曾我部元親が入寇(原文)、僅かな宝物も掠め取られたとある。
 3.現在の寺の説明では、長曾我部が侵攻してくる前に寺が再建されていたとし、その再建されていた建物も宝物も悉く長宗我部が焼いたとされている。
 2,3は昭和以降に改竄されたようである。『大窪密寺記』では長宗我部の雑兵が一夜の宿に火を放ったとあるが三好と寒川の戦いにおいての記録がないことの不自然さや長宗我部の雑兵が燃やしたなどの記述は六萬寺のものと酷似しており、悪いことは全て長宗我部の所業とするという、後世の創作の可能性を考慮すべきである。

 また、明治33年の大火で苦難を受けたときもあるが結願霊場として法灯を守っている。

 伽藍

 山門(二天門) - 楼門(元禄年間に再建)
 仁王門 - 二重門
 本堂 - 礼堂、中殿、奥殿(多宝塔)からなる。
 「薬師如来本願功徳」の扁額の薬の11画と12画が書かれてないのは奉納者が願掛けしたためである。
 大師堂 - 1階には通常姿の大師像と両脇に四天王像、地下殿には剣を持った秘鍵大師坐像を祀り、また、四国八十八ヶ所の本尊仏像が並ぶ。
 阿弥陀堂 - 阿弥陀如来坐像を拝観できる。
 己王大明神祠
 五大明王石像 - 厄除け不動を中心に四明王はレリーフ石像。
 宝杖堂(ほうじょうどう) - 結願した遍路の金剛杖が奉納され、毎年春分の日と8月20日に柴灯護摩供の焚き上げが行われる。
 原爆の火 - 1988年10月24日より
 心経塔
 歌碑句碑 - 「あなうれしゆくもかへるもとどまるも われは大師と二人づれなり」が本堂の右前にある。山頭火「ここが打留の水があふれてゐる」が阿弥陀堂の右前に、「今迄は大師とたのみし金剛杖 つきて収める大窪の寺」が左前にある。年尾「一つ長き夜の藤房をまのあたり」が二天門をくぐって右へ行った庭園の縁にあり、田打男「西安の月長安の月おぼろ」が二天門から本堂前の石段の右にある球体に刻まれている。
 標高450m辺りにあり八十八箇所中8番目の高さのため厳冬期は積雪に注意が必要である。山門は南側から石段を上がった所にある木造の二天門と平成2年(1990年)に完成した西側から入る鉄筋の仁王門の2つがある。本堂は二天門の正面にあり、大師堂は仁王門の正面上にある。納経所は本堂の左手にある。

 宿坊:なし
 駐車場:山門下の東側に大駐車場あり、仁王門側境内にも約10台の駐車場あり、さらに西側の離れたところに大駐車場あり。いずれも無料。

 文化財
 この節には、JIS X 0213:2004 で規定されている文字(蜾髪の1文字目)が含まれています。
 国の史跡
 讃岐遍路道 大窪寺道
 長尾寺から当寺に至る遍路道のうち、以下の区間と建造物が指定された。2021年3月26日指定。
 1.多和相草の県道3号額峠(標高364 m地点)の65丁石付近から始まり、天体望遠鏡博物館付近から国道377号に入り当寺に至る車道に沿った遍路道のうち未舗装部分で保存状態のよい6区間の丁石や遍路墓などの石造物も含む合計約1.5 km
  1.65丁→63丁
  2.35丁→33丁
  3.34丁→32丁
  4.16丁→15丁
  5.12丁→11丁
  6.8丁→7丁(いづれもその付近)
 2.義染房庵跡:紀州伊都郡加勢田庄東村の教翁義染房が一万五千人の遍路に接待したことを刻した供養碑が文化13年(1816年)に建てられた。(56丁付近)
 3.一夜庵(43丁付近)
 4.一丁石(1丁)

 県指定有形文化財
 木造薬師如来坐像
 本尊で、本堂奥殿(多宝塔)に日光・月光菩薩と共に厨子に安置される。総高170.8 cm、像高89.3 cmで、本体はカヤ材、蜾髪はヒノキ材、一木造り、彫眼である。奈良時代末期(8世紀)の作とみられる。手には薬瓶でなく法螺貝を持っていたが、傷みが激しく法螺貝の形に造られた水晶に差し替えられている。改装され仏画が壁面に描かれた奥殿と修繕された本尊は2014年(平成26年)から翌年5月までの毎月8日から12日に五十年ぶりの開帳が行われた。2006年2月10日指定。
 鉄錫杖:2007年3月30日指定。
 さぬき市史跡
 大窪寺奥の院信仰遺跡
 香川の保存木

 大窪寺のイチョウ:樹高 26 m、胸高幹周 7.23 m、 枝張り 22.3×15.9 m 、平成3年3月29日指定
 大窪寺のサザンカ:バス停の所にあり、樹高 6.5m、枝張り 10.5×10.1 m 、昭和61年3月18日指定

 大窪寺 香川県さぬき市多和兼割96番地

*Wikipedia より

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<四国八十八箇所> 第87番札所 長尾寺

2024-06-26 05:57:45 | 巡礼

 「長尾寺」

 長尾寺(ながおじ)は、香川県さぬき市長尾西にある寺院。補陀洛山(ふだらくさん)、観音院(かんおんいん)と号す。本尊は聖観世音菩薩。四国八十八箇所第八十七番札所。

 本尊真言:おん あろりきゃ そわか
 ご詠歌:あしびきの山鳥の尾の長尾寺(ながおでら) 秋の夜すがら御名(みな)をとなえよ
 納経印:当寺本尊、長尾天神宮
 歴史
 寺伝によれば天平11年(739年)行基が当地で楊柳に霊夢を感じその木で聖観音菩薩像を刻み、堂宇に安置したのが始まりとされ、その当時は法相宗とされた。なお、寂本の『四国偏礼霊場記(1689年刊)』には、聖徳太子が創建し、本尊聖観音菩薩像は空海作で同時に阿弥陀如来を造り当寺を再興したとなっている。

 空海(弘法大師)が渡唐前、入唐求法の成功を祈願し年頭七夜の護摩の秘法を修し、その7日目の夜に護摩符を丘の上より人々に投げ与えたとの伝説があり、これは毎年1月7日の「大会陽福奪い」として今に伝わっている。天長2年(825年)唐より帰朝した空海は大日経を一石に一字写経の万霊供養塔(現存せず)を建立し伽藍を整え真言宗に改宗した。

 その後、幾度かの兵火により堂宇は失われたが、慶長年間(1596年 – 1615年)生駒氏によって再興、長尾観音寺と呼ばれる。天和元年(1681年)には藩主松平頼常が堂塔を寄進、翌々年には讃岐七観音の随一とし、真言宗から天台宗に改宗される。元禄6年(1693年)には寺領を賜り観音院長尾寺と改称する。

 なお、静御前が源義経と別れた後、母の磯禅師と共に当寺を訪れ、得度したとの言い伝えもあり、静御前の位牌や剃髪塚が遺存する。

 伽藍
 山門:日本三大名門の1つという。寛文10年(1670年)建立とされ、三つ棟木という珍しい工法で知られる。
 本堂:2014年5月18日だけ本尊が開帳された。「一隋音観七」の扁額が外陣の上にかかっている。
 大師堂:大正時代に再建された。
 護摩堂
 薬師堂

 長尾天満自在天神宮:1710年建立、当山鎮守。平安時代、当寺住持の明印と菅原道真は親交があり、讃岐国司から九州へ左遷の時お互い分かれを惜しんだとの古事から建立された。
 静御前剃髪塚
 ラジオ塔:戦前の街頭ラジオ。四国に残る3つのうちの一つ。
 本坊膳所:点心の食事ができる(完全予約制)
 句碑:山頭火「水ちろ/\柄杓もそへて」が静御前剃髪塚の前下に、山頭火「春風のちよいと茶店ができました」が山門入って左でお休み処静の脇にある。山頭火「てふてふひらひらいらかをこえた」が大師堂の前方の植え込みの前にある。
 厄よけ玉お祓い所:天満宮の左にあり、陶器製の玉を石に投げて厄を払う。納経所で玉を販売している。
 仁王門をくぐって正面に本堂、その右に大師堂がある。納経所は本堂の左の本坊の左にある。

 宿坊:なし
 駐車場:境内の中にある。大型車は境内の入口道路脇にある。駐車料金は普通車で200円を納経所に払う。
 お寺情報:土日は個数限定で、お寺の手作りおはぎを納経所で売っている。

 文化財
 重要文化財
 経幢2基:石造。西側のものが弘安6年(1283年)、東側のものが弘安9年(1286年)の建立。昭和29年9月17日指定
 さぬき市指定有形文化財
 東門:栗林公園の北側にあった正門(延享年間建築)を大正2年に払い下げを受け忠実に再現移築した。
 香川の保存木
 クスノキ:樹高 19 m、胸高幹周 5.45 m、枝張り 25×22.1 m、平成17年12月6日指定

 長尾寺 香川県さぬき市長尾西653番地

*Wikipedia より

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<四国八十八箇所> 第86番札所 志度寺

2024-06-25 07:58:52 | 巡礼

 「志度寺」

 志度寺(しどじ/しどうじ)は、香川県さぬき市志度にある真言宗善通寺派の寺院。補陀洛山(ふだらくさん) 、清浄光院(せいじょうこういん)と号す。本尊は十一面観音菩薩。四国八十八箇所第八十六番札所。

 本尊真言:おん まか きゃろにきゃ そわか
 ご詠歌:いざさらば今宵はここに志度の寺 祈りのこえを耳にふれつつ
 納経印:当寺本尊、閻魔大王
 概要
 藤原不比等に関わる伝説は謡曲『海人』で知られる「海女の玉取り伝説」が伝えられており、境内には「海女の墓」が五輪塔群として現存する。また、浄瑠璃の『花上野誉の石碑』(志渡寺の段/しどうじのだん)などの舞台にもなっている。 また、江戸時代、当地の出身の平賀源内を長崎に遊学させるため、当時の住職が尽力したという。本堂の背後で境内の北は志度湾で瀬戸内海が広がり、ひとつ前の札所である八栗寺のある五剣山と屋島が臨める。

 歴史
 本寺の縁起によると、志度浦にたどり着いた檜の霊木を凡薗子尼(おおしそのこに、智法尼とも)が草庵へ持ち帰り安置し、その霊木から本尊・十一面観音を造立し、小さな堂を建て祀ったという。626年(推古天皇33年)のことで創建とされている。

 681年(天武天皇10年)藤原不比等が堂宇を増築し「死度道場」と名づけたという。また、693年(持統天皇7年)には不比等の子・藤原房前が行基とともに堂宇を建立し、寺名を「志度寺」に改めたと伝えられている。この海辺は極楽浄土へ続いているとの信仰を伝えると『梁塵秘抄』に書かれているという。

 その後、巡錫に来た、弘法大師が伽藍の修理にあたったのは弘仁年間である。

 室町時代には四国管領の細川氏が代々寄進を行うことで繁栄し、室町後期になると敷地内および近隣に多くの僧坊や支院末寺を塔頭として抱えた。のちの戦乱により寺院は荒廃するも、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて藤原氏末裔の生駒親正による支援などを得る事となり、慶長の頃には改めて「華厳坊」「常楽坊」「西林坊」「常林坊」「林蔵坊」「空圓坊」などの僧坊を復興させるに至る。1671年(寛文10年)、高松藩主松平頼重の寄進(本堂・仁王門)など、高松藩主松平氏により再興。これに伴い復興させた僧坊も様々な要因により改めて再編され複数の塔頭寺院(後述)として独立するに至る。

 1962年(昭和37年)に重森三玲による枯山水「無染庭」が造られている。

 伽藍
 ここでは、参拝順路の順番に表示する。

 山門(仁王門)- 仁王像を安置。
 手水舎・鐘楼堂
 五重塔 - 高さ33 m。1973年から着工され、1975年5月に落成。地元出身の実業家竹野二郎によって寄進された。本尊は胎蔵大日如来坐像。
 奪衣婆堂 - 奪衣婆が拝観できる。脇侍は地蔵菩薩・太山府君
 本堂 - 毎年、7月16日と17日午前中、本尊と脇仏の開帳をし堂内を見学できる。向かって右奥には凡薗子尼像が鎮座し、宮殿の背後には大きい阿弥陀如来図が直接描かれ、本堂奥の壁には伝持の八祖の掛け軸がかかっている。
 大師堂 - 以前は中に入れたが、納経所が移動してからは外からの参拝となった。
 三尊仏 - 阿弥陀・薬師・観音の金属製坐像。藩主松平頼重が切腹させた家来三人を祀る。
 閻魔堂 - 十一面閻魔大王が鎮座。毎月17日開帳。
 三社(祠)
 薬師堂 - 薬師如来坐像を拝観できる。
 松風塚・椎本芳室翁文塚 - 向かって左は渡辺桃源(俳号・三千舎みちのや)のもので、右は椎本芳室(しのもとほうしつ、俳号・甘泉庵)のもので、共に平賀源内(俳号・李山)を支えた。
 書院 - 浄瑠璃『花上野誉の石碑』の舞台となった。
 無染庭 - 枯山水庭園。細川勝元によって完成された。納経所の中からも眺めれる。
 お辻の井戸 - 歌舞伎『花上野誉石碑』に出てくるお辻が水垢離した井戸。無染庭の南側にあり。
 曲水式庭園 - 室町時代、四国管領であった細川氏によって造成。
 納経所
 仁王門をくぐり、左側の2つ目の通路を行き手水舎と鐘楼堂の間を進むと五重塔の前に出る。その先にある奪衣婆堂を参拝後、右前に進むと本堂があり、その右に大師堂がある。大師堂を背に左に三尊仏があり、進むと閻魔堂がある、さらに進むと三社の祠を過ぎ薬師堂がある。右に曲がり左のピンク色の納骨堂を越えて左側の宝物館と書院の間を入って行くと右側に垣根に囲まれた無染庭があり前方に曲水式庭園が広がる。 無染庭の垣根に沿って右に進んだ先にお辻の井戸が前方にある。薬師堂前の参道に戻り、納経所は書院を過ぎて左手の白壁の蔵との間の小径を入って行くとある。

 句碑 - 山頭火「月の黒鯛ぴんぴんはねるよ」が本堂の右前にある。

<北西の駐車場方向>

 生駒親正の墓所 - 境内の北側の墓地の中にあり、海女の墓を囲む柵の右側に沿って奥。
 海女の墓 - 「海女の玉取り」伝説:藤原不比等は唐より授かった「面向不背の珠」という宝珠を沖で龍神に奪われた。これを取り戻すためこの地の海女に後に藤原房前となる子を産ませる。その海女は龍神の棲む龍宮へ向かい我が子と引き換えに宝珠を取り戻して亡くなる。不比等は薗子尼が建てた堂の傍らに海女の墓を造り弔った。その後、大人になった藤原房前は当地に訪れ母の供養のために千基の石塔を建立したと伝えられる。その残った一部の20基余が海女の墓といわれてる。
 句碑 - 高浜年尾「盆に来て海女をとむらふ心あり」が海女の墓び前にある、
 弁財天堂(祠) - 境内の北西端にある。

 宿坊 - なし
 駐車場 - 仁王門の直前を右へ入った納経所の前は普通車までで、境内の海側にバスも可能な駐車場が2ケ所にあり、いずれも無料。

 年中行事

 藤原房前忌 4月17日
 柴燈大護摩 5月13日 - 護摩法要を屋外の本堂前で執行する柴燈護摩
 凡園子忌 6月16日
 志度寺の十六度市 7月16日 - 海女の命日(旧暦6月16日)にあわせ、境内に市が立ちっていた(現在は中止)。また年に1度、本尊十一面観音の御開帳を行う。
 藤原不比等忌 8月3日
 永代土砂加持法要 12月10日
 文化財
 国の史跡

 讃岐遍路道 志度寺境内:本堂や仁王門、大師堂、海女の墓五輪塔群などに、歴代住職墓も加えた約2 ha、2022年11月10日追加指定
 重要文化財
 本堂(附 棟札2枚) - 1670年(寛文10年)建立。初代藩主松平頼重の寄進。桁行七間、梁間五間、入母屋造。1983年(昭和58年)6月2日指定。
 仁王門 - 本堂と同様の年代と寄進。三間一戸の八脚門。 1983年(昭和58年)6月2日指定。
 木造十一面観音立像および両脇侍(不動明王立像・毘沙門天)立像 - 1901年(明治34年)3月27日指定。
 (十一面147.0 cm榧の一木造り彩色・藤原時代、不動78.2 cm、毘沙門79.4 cm) 絹本著色十一面観音像 - 鎌倉時代(13世紀)作。202.5 cm×85.8 cm。1901年(明治34年)3月27日指定。
 絹本著色志度寺縁起 6幅(附:紙本墨書志度寺縁起等付属文書9巻)- 鎌倉末期から室町初期作、120 cm×170 cmが6幅の大作。1901年(明治34年)3月27日指定、附の文書は昭和39年1月28日追加指定。2015~2017年度(平成27~29年度)国・県・市の補助による解体修理を実施。
 県指定有形文化財
 閻魔堂 - 1984年(昭和59年)8月14日指定。
 奪衣婆堂 - 1984年(昭和59年)8月14日指定。
 木造如来形坐像(五重塔内) - 像高101 cm、欅材の一木造、漆箔。寺伝では胎蔵大日如来であるが、通常の大日如来像と異なり装身具をつけていない。1969年(昭和44年)3月28日指定。
 木造金剛力士立像(仁王門内) - 1969年(昭和44年)3月28日指定。
 さぬき市指定有形文化財
 絹本著色十一面観音立像 - 1986年(昭和61年)2月27日指定。
 さぬき市指定史跡
 生駒親正墓塔 - 1991年(平成3年)3月6日指定。
 海女の墓五輪塔群 - 1990年(平成2年)12月26日指定。

 志度寺  香川県さぬき市志度1102番地

*Wikipedia より

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<日本酒メーカー> 山形 渡会本店

2024-06-24 07:41:45 | 巡礼

 「渡会本店」

 月山朝日山系の良質清浄水で醸し出す、バラエティ豊かな酒質に定評があります。

 伊勢国度会郡よりここ出羽国大山邑へ移住し、徳川二代将軍秀忠の頃にはすでに酒造りを行っておりました。以来370年余、現当主は18代目にあたります。昭和43年10月法人化。酒名は江戸時代より志ら雪、八薫、冨士正宗、大洲一などの名称で親しまれて参りましたが、大正時代に出羽の国の清浄な大気と豊かな雪清水、大地の恵をイメージして出羽ノ雪に統一しました。自社酵母と各種の酒造好適米を用い、月山朝日山系の良質の清浄水で醸し出すバラエティーに富んだ酒質に定評があります。

 (株)渡會本店 山形県鶴岡市大山二丁目2-8

*https://yamagata-sake.or.jp/pages/51/ より

 代表銘柄

大吟醸 出羽ノ雪
売れ筋第2位!華やかな香りと喉越しさわやかな辛口大吟醸。

 

 

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<四国八十八箇所> 第85番札所 八栗寺

2024-06-24 07:27:56 | 巡礼

 「八栗寺」

 八栗寺(やくりじ)は、香川県高松市牟礼町牟礼字八栗にある真言宗大覚寺派の寺院。五剣山(ごけんざん)、観自在院(かんじざいいん)と号す。本尊は聖観音菩薩。四国八十八箇所第八十五番札所。

 本尊真言:おん あろりきゃ そわか
 ご詠歌:煩悩(ぼんのう)を胸の智火(ちか)にて八栗(やくり)をば 修行者ならでたれか知るべき
 納経印:当寺本尊、歓喜天
 概要
 四国85番霊場とともに、歓喜天霊場として知られ、木食以空が東福門院から賜った伝・弘法大師作の歓喜天が祀られていて「八栗の聖天さん」と呼ばれる。 寺伝によれば空海(弘法大師)がここで虚空蔵求聞持法を修めた際、五本の剣が天から降り蔵王権現が現れて、この地が霊地であることを告げた。空海は降ってきた剣を中獄に埋め、岩盤に丈六の大日如来の像を刻んで山の鎮護とし五剣山と名づけ天長6年(829年)開基したという。

 五剣山頂上は眺望が良く八つの国が見えたので、「八国寺」ともいわれた。唐から帰朝後、空海は再訪し唐に渡る前に入唐求法の前効を試みるため、植えておいた焼き栗八つがみな成長し繁殖しているのを見て八国寺を「八栗寺」に改めた。

 天正の兵火で全焼したが、文禄年中(1593年 – 1596年)に無辺上人が本堂を再建した。さらに寛永19年(1642年)高松藩主松平頼重が現在の本堂を再建して、聖観音を本尊とし観自在院と称するようになる。なお棟札によると二天門と本堂は三代藩主松平頼豊が宝永6年(1709年)再建とあるが、宝永3年(1706年)五剣山のうち東峰が崩壊する大地震が影響していると思われる。

 伽藍
 一ノ鳥居:これより登山参道。ケーブル登山口駅の横に立つ。
 若宮神社(小堂)
 大師御加持水
 二ノ鳥居:扁額は歓喜天
 賽の河原:お迎え大師から表参道を5分ほど下ったところにあり、人間界と聖地の境目といわれている。
 お迎え大師:平成22年12月落慶。高松市が一望できる展望所。
 三ノ鳥居:扁額は歓喜天
 山門(二天門):持国天と多聞天がいる。
 本堂 :毎年、正月三が日、本尊と脇仏不動明王と愛染明王が開帳される。なお、常に厨子の扉は開いていて本尊と脇仏は正面隙間から覗けば拝顔できる。
 大師堂:2014年に一年間、開帳された。その後も常に厨子の扉は開いていて拝顔できる。
 聖天宮の扁額の鳥居:これとは別にケーブル山上駅の前にも鳥居(扁額は聖天宮)がある。
 歓喜天堂 :大聖歓喜双身天王(おんきりく ぎゃくうん そわか)を中央に、右方に十一面観音、左方に軍荼利明王を祀る。延宝5年(1677年)建立。納経所に声をかければ堂内に入って参拝できる。
 護摩堂:歓喜天堂の左側に続き棟
 多宝塔:1984年建立。本尊金剛界大日如来坐像。正月3ヶ日のみ開扉される。
 菩提樹:中国産のシナノキ科(釈迦の菩提樹は本種ではなくインドボダイジュ)で樹齢50年。元の木は大師手植えで天然記念物だったと言われる。
 新四国八十八箇所:集合型と山内に点在の二つある。
 十一面観音立像:本堂の向かって左にある金仏で、仏の周を廻りながら祈願する。
 鐘楼堂:梵鐘は戦時供出され現在のは1958年突き初めされたもので、秋艸道人「わたつみのそこゆくうをのひれにさへ ひひけこのかねのりのみために」が刻まれている。
 歩き遍路は山門から入って正面に本堂、その手前左に納経所、右にずーと進んでいくと大師堂があり、その向こうに多宝塔がある。ケーブルカー利用は、八栗ケーブル山上駅を出て進み左に曲がり道なりに行くと多宝塔、大師堂、さらに参道を行くと正面に聖天堂があり、その左が納経所で、右上に本堂がある。

 宿坊 :なし
 駐車場:八栗ケーブル登山口駅前に無料大駐車場(400台)あり。
 上記駐車場より境内仁王門まで:徒歩で約22分(約1 km)
 八栗新道(県道145号線)から当寺への車道。正月期間(12月31日~1月3日。期日変更の場合あり)は関係車以外通行止。
 生木(なまき)観音:八栗新道沿いにある。

 文化財

 香川の保存木
 八栗寺のイチョウ(おはつきいちょう):樹高 24.5 m、胸高幹周 4.3 m、枝張り 12.5×13.5 m、昭和53年3月23日指定

 八栗寺 香川県高松市牟礼町牟礼字八栗3416番地

*Wikipedia より

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<四国八十八箇所> 第84番札所 屋島寺

2024-06-23 05:39:49 | 巡礼

 「屋島寺」

 屋島寺(やしまじ)は、屋島の南嶺山上(香川県高松市屋島東町)にある真言宗御室派の寺院。南面山(なんめんざん)、千光院(せんこういん)と号す。本尊は千手観音菩薩。四国八十八箇所第八十四番札所。

 本尊真言:おん ばさら たらま きりく
 ご詠歌:梓弓(あずさゆみ)屋島の宮(みや)に詣でつつ 祈りをかけて勇む武夫(もののふ)
 歴史
 律宗の開祖である鑑真が天平勝宝6年(754年)朝廷に招かれ奈良に向かう途中に当地を訪れて開創し、そののち弟子で東大寺戒壇院の恵雲がお堂を建立し屋島寺と称し初代住職になったという。ここから1 kmほど北の北嶺山上に屋島寺前身とされる千間堂遺跡がある。その後の時代の古代山城屋嶋城の閉鎖に伴い、南嶺の屋嶋城本部跡地に屋島寺を創設したとされる。すなわち弘仁6年(815年)嵯峨天皇の勅願を受けた空海は、お堂を北嶺から南嶺に移し、千手観音像を安置し本尊とした。天暦年間(947年 – 957年)明達が四天王像と、現在の本尊となる十一面千手観音坐像を安置した。

 明徳2年(1391年)の西大寺末寺帳に屋島寺と屋島普賢寺の名があり、当時は奈良・西大寺(真言律宗)の末寺であったことがわかる。高松藩主生駒一正は慶長6年(1601年)に屋島寺の寺領25石を安堵。近世を通じ、当寺は高松藩の保護下にあった。現在も国有林部分を除いて、屋島山上の敷地のほとんどは屋島寺の所有である。

 江戸時代初期まで本土と離れた島であったが、寛永14年(1637年)高松藩主・生駒高俊により陸続きとなった。その後、藩主・松平頼重が旧跡を惜しんで、正保4年(1647年)本土との間に水路(相引川)が復元された。

 伽藍
 山門(仁王門):二王像が安置。
 四天門:向かって前に増長天・持国天、後に多聞天・広目天の四天王像(東大寺型)が安置。
 東大門:駐車場からの入口。
 本堂:昭和時代に宝物館ができて本尊を遷座したとき、レプリカの前仏を造り本堂には前仏がいるが見ることはできない。
 大師堂:大師像を拝顔できる。
 三体堂:鑑真が祀られていて拝顔できる。
 千体堂:中央に千手観音、その背後に千体仏。
 熊野権現社
 蓑山大明神:祭神は日本三大名狸に数えられる屋島太三郎狸、蓑笠をつけた老人の姿で現れて弘法大師を案内したとされる。
 宝物館:有料で拝観可能、本尊など多くの仏像が安置されている。
 鐘楼堂
 本坊
 御成門
 庭園:宝物館の中からガラス越しに眺めることができる。白い凝灰岩が露出してるため雪の庭という。
 瑠璃宝の池(血の池):弘法大師がお経と宝珠を納めて池にしたとの伝説がある。その後、源平合戦の武士たちが血の付いた刀を洗ったことから血の池と呼ばれるようになった。
 可正桜:寛文5年(1665年)に高松藩士松平半左衛門が植えた7株のうち枯れずに残った1株を移したもの。
 源平屋嶋合戦八百年祭供養碑:寿永4年(1185年)早春に繰り広げられた合戦の戦没者を800年後の昭和60年に弔ったもの。
 句碑:芭蕉「夏艸やつはものどもの夢の跡」が四天門の右前にあり、その前に「濱風尓(に)かしげ傾(かし)げて遍ろ笠」がある。梶原芭臣「松に月古き景色を時雨け里」と刻まれた球石を龍が銜える石碑が本坊の右前にある。
歩き遍路は山門を通り、四天門を通って正面に本堂、本堂の手前を右に進むと右手に納経所、正面に大師堂がある。車遍路は東大門から入って行くことになり、千体堂、三体堂、大師堂の順になる。

 宿坊:なし
 駐車場:山上大駐車場あり

 遍路登山道にある霊跡

 加持水(かじすい):登山途中に喉が渇いた空海が衆生も渇くだろうと加持祈祷で清水を湧かせたと云われる伝説。

 不喰梨(くわずのなし):空海が農夫に梨を所望したが食べられない梨と断られた、その後、本当に食べられない梨になったという伝説。
 畳石(たたみいし):讃岐岩質安山岩(サヌキトイド)の板状節理の露頭。
 遍照院の堂から約500 m直進すると右側に駐車スペースが数台分あり、歩き始めてすぐに加持水があり、中程に不喰梨、そして畳石があり、全行程約30分整備された遊歩道を登ると山門に達する。

 文化財
 重要文化財

 本堂(附:厨子) - 入母屋造、本瓦葺き。鎌倉時代の前身堂の部材を用いて元和4年(1618年)建立された。昭和30年6月22日指定。
 木造千手観音坐像(本尊) - 榧の一木造漆箔、像高94.3cm。平安時代中期、10世紀頃の作。像の保存状態がよく、左右の脇手や光背の二重円相部分なども大部分当初のものが残る点が貴重である。宝物館で拝観できる。昭和30年2月2日指定。
 梵鐘 - 貞応2年(1223年)の銘がある。総高102 cm、口径64 cm、厚さ6 cm、青銅の鋳物。昭和42年6月15日指定

 屋島寺  香川県高松市屋島東町字屋島峯1808番地

*Wikipedia より

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<四国八十八箇所> 第83番札所 一宮寺

2024-06-22 06:44:05 | 巡礼

 「一宮寺」

 一宮寺(いちのみやじ)は、香川県高松市一宮町にある真言宗御室派の寺院。神毫山(しんごうざん)、大宝院(だいほういん)と号す。本尊は聖観音菩薩。四国八十八箇所第八十三番札所。讃岐国一宮の田村神社に隣接する。

 本尊真言: おん あろりきゃ そわか
 ご詠歌: 讃岐一宮(さぬきいちのみや)の御前(みまえ)に仰ぎきて 神の心を誰(たれ)かしらゆう
 納経印:当寺本尊、地獄の釜参拝記念印
 歴史
 寺伝によれば、義淵により法相宗の寺院として大宝年間(701年 – 704年)に建立され、年号にちなみ大宝院と称したと伝えられる。そして、和銅年間、諸国に一の宮が制定された際、讃岐一宮・田村神社の第一別当として行基が堂宇を改修し一宮寺と改めたという。その後大同年間(806年 – 810年)に空海(弘法大師)が伽藍を整備し、106 cmの聖観世音菩薩像を刻んで安置し、真言宗に改宗した。

 1574年(天正2年)の阿波三好軍と香西氏との兵火により焼失するも、宥勢大徳により中興される(『南海治乱記』)。当寺のホームページでは長曾我部元親の軍により焼失となっているが誤りである。寺の由緒を記した『讃岐一宮盛衰記』に於いても長曾我部の統治下にあるときは領地はそのままに安泰としてもらっていたところ、秀吉に領地を没収されたと記されているが現代の一宮は他の寺と同じく長曾我部に焼かれたと言う話に改竄している。四国の寺はこのように天正期に長曾我部に焼かれたとの伝聞を後の世になって創作している例が多いので注意が必要である。

 延宝7年(1679年)に時の高松藩主である松平頼常によって田村神社が両部神道から唯一神道に改められたため当寺以外に12あったと云われる宮寺は廃止される。唯一存続を許された当寺は、それまで神社とは一体で同一場所にあったが、分離され現在地に移転、別当寺は解職され、本地仏であった聖観音像は当寺の本尊となり、一国一宮として選ばれていた神社の四国八十八箇所83番札所[注釈 1]は当寺が引き継いだ。 明治初期の神仏分離より200年も早く神仏の分離が行われ現在に至る。

 伽藍
 山門(仁王門)
 本堂:毎年8月10日午後6時より千日会で、前立本尊の開帳がある。
 大師堂:奥に鎮座する大師像を拝顔できる。誰でも予約なしで写経体験ができる(午前9時~午後4時)。毎年7月土用丑日きゅうり加持。大扉には大宝院の大が刻まれている。
 護摩堂:近年新築され、不動明王像を拝顔できる。毎月28日午前10時より護摩焚き催行。
 菩薩堂:阿弥陀如来と二十五菩薩を祀る。
 納骨堂舎利羅:2020年12月落慶。鉄筋コンクリート。

 薬師如来の祠:地獄の釜の煮えたぎる音がする祠で悪いことをした人が頭を入れると抜けなくなると云われている。
 一宮御陵:三基の石塔。孝霊天皇・百襲姫命・五十狭芹彦命のものとも云われている。
 句碑:忠司「香煙のときに燃えたち夕遍路」が一宮御陵の後にある。
 西門:駐車場からの入口。
 通常は仁王門とは反対の裏側にある西門の前に駐車場があるので、そこから入っていくと本堂左手に至り、大師堂は本堂の右側にあり、護摩堂は大師堂の左にある、納経所は本堂から仁王門に向かうと左手にあり、鐘楼は右手にある。一宮御陵は手水舎の背後にある。

 宿坊:なし
 駐車場:あり、無料

 一宮寺 香川県高松市一宮町字宮西607番地

*Wikipedia より

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<四国八十八箇所> 第82番札所 根香寺

2024-06-21 07:45:42 | 巡礼

 「根香寺」

 根香寺(ねごろじ)は、香川県高松市中山町にある天台宗単立の寺院。青峰山(あおみねさん)、千手院(せんじゅいん)と号す。本尊は千手観世音菩薩。四国八十八箇所第八十二番札所。

 本尊真言:おん ばさら たらま きりく そわか
 ご詠歌:宵のまの妙(たえ)ふる霜の消えぬれば あとこそ鉦(かね)の勤行(ごんぎょう)の声
 五色台の青峰(標高449.3 m)の中腹(標高365 m付近)に位置し霊場中10番目の高さ。紅葉の名所で、その期間は駐車場が渋滞する。

 歴史
 寺伝によれば、空海(弘法大師)が弘仁年間(810年 – 824年)にこの地を訪れ五色台の五つの峰に金剛界の五智如来を感得し密教の修行にふさわしい台地であるとし、その一つである青峰に一宇を建立し五大明王を祀り「花蔵院」と称し、衆生の末代済度を祈願する護摩供を修法をしたと伝えられている。その後、円珍(智証大師)が天長9年(832年)に訪れたさい、山の鎮守である市之瀬明神の化身の老翁に、蓮華谷の霊木で観音像を造り観音霊場の道場をつくるよう告げられた。すぐさま円珍は、千手観音像を彫像し「千手院」を建てて安置した。この霊木は香木で切り株から芳香を放ち続けたことから、この2院を総称して根香寺と呼ばれるようになったという。

 後白河天皇から勅願所として帰依も厚く繁栄したが、寺記によると永正以来海賊が大蜂起し、伽藍ほか焼かれたとされる。しかし、慶長年間に高松城主・生駒一正が復興、さらに寛文4年(1664年)高松藩初代藩主松平頼重が再興した。なお、このとき真言宗から天台宗に改宗された。

 牛鬼伝説

 江戸時代の初め頃、この地には牛鬼がいて人や家畜に危害を加えていた。そこで弓の名手であった山田蔵人高清に退治を依頼した。高清は3本の弓で見事に牛鬼を退治した。高清は退治した牛鬼の角を切り取り、根香寺に奉納し菩提を弔ったと伝えられている。現在、根香寺にはその牛鬼の角と呼ばれるものと、牛鬼の姿が描かれた掛け軸が伝わっている。

 境内

 山門(仁王門)
 本堂 - 本尊は33年に一度開帳の秘仏、次回は令和18年(2036年)の予定。左脇陣は非公開の智証大師坐像、右脇陣は毘沙門天立像で拝観できる。
 大師堂 - 大師像を拝観できる。
 五大堂 - 五大尊の像を拝観できる。
 六角地蔵堂 - 延命地蔵石像を安置。昭和54年建立。
 龍宮地蔵堂 - 海中より網で引き揚げられた地蔵石像を安置。
 白猴欅(はっこうけやき) - 樹齢1,600年とも言われるケヤキの老木であり、香川県の天然記念物に指定されていたが枯死した。名の由来は智証大師が寺院創建の折にこの樹を伝って下りてきた白い猿が大師を手助けしたと言われる伝説に由来する。平成3年(1991年)に株を生えていた場所に置き、屋根を付け保存されている。
 はらくわり地蔵(弘治2年・1556年)- 本堂後ろの山中より本堂回廊に移動。地蔵の周辺の木を伐採するとおなかが痛くなるという言い伝えあり。
 水かけ地蔵(青銅製) - 大正14年に安置。中興の龍海和尚200回忌記念。先代の陶器製牛鬼像はここに設置されていたといわれる。
 役の行者石像 - 昭和6年に安置。当寺に役の行者の直接的な謂れはない。、
 牛頭観音石像 - 昭和60年に安置。
 牛鬼像(青銅製)- 山門外左側の林の中に安置。
 山門の左側の林の中に牛鬼像がある。山門をくぐり25段下り進むと今度は上りの石段があり、上がって行くと右に大師堂、左に納経所がある。さらに石段を上がり上り詰めると正面に本堂が見えるが左の薄暗い回廊の中を巡って合計135段上がると本堂に至る。

 宿坊:なし
 駐車場:山門の前にあり(無料)

 文化財
 重要文化財
 木造千手観音立像 - 桜材の一木造りで漆箔、163.3 cm、平安時代の作。当寺の本尊で、33年に一度開扉の秘仏。昭和30年2月2日指定
 史跡

 讃岐遍路道 根香寺道 - 白峯寺から根香寺へ向かう遍路道約5 kmのうち、以下の区間の総計2.234 km(そのうち約1.2 kmが坂出市)が対象。平成25年10月17日指定
 根香寺まで50丁の白峯寺本坊前から石組祠のある41丁まで
 遍路道分岐の19丁から県道出合いの足尾大明神手前の14丁まで
 県道出合いの9丁辺りから仁王門前上駐車場の1丁まで
 序盤区間には摩尼輪塔や下乗石や白峯寺歴代住職墓地や石畳や毘沙門窟灯籠が、2丁辺りには根香寺歴代住職墓地が残っている。
 香川県指定有形文化財
 五大明王像 - 向かって左より大威徳夜叉明王、金剛夜叉明王、大日大聖不動明王、降三世夜叉明王、軍荼利夜叉明王の5躯。不動明王は1286年(弘安9年)元寇調伏祈願のため造られる。他の4躯は1683年(天和3年)高松藩主が京都の仏師に造らせた。平成16年から20年にかけて修復される。昭和44年4月3日指定
 木造智証大師坐像 - 本堂の向って左脇陣に安置。制作仏師は上野法橋政覚、彩色は大輔法橋隆心、元徳3年(1331年)作。平成25年3月29日指定

 根香寺  香川県高松市中山町1506番地

*Wikipedia より

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<四国八十八箇所> 第81番札所 白峯寺

2024-06-20 07:17:08 | 巡礼

 「白峯寺」

 白峯寺(しろみねじ)は、香川県坂出市の五色台の白峯中腹の標高280 m付近にある真言宗御室派の寺院。綾松山(りょうしょうざん)、 洞林院(どうりんいん)と号す。本尊は千手観世音菩薩。四国八十八箇所第八十一番札所。

 本尊真言:おん ばさら たらま きりく
 ご詠歌:霜さむく露白妙(つゆしろたえ)の寺のうち 御名(みな)をとなうる法(のり)のこえごえ
 納経印:当寺本尊、奥之院毘沙門天、崇徳天皇念持仏の十一面観音、白峯大権現相模坊、満願証「大願成就」
 納経時間は午前8時30分 - 午後5時
 概要
 すべての干支の守り本尊が各堂に祀られており、四国で唯一の御陵である白峯陵が隣接する。

 一年中花が楽しめ、特に春は桜、夏は紫陽花、秋は紅葉が有名で多くの参拝者が訪れ、境内には御詠歌が流され遍路気分を盛り上げる。

 また、古来より本尊千手観世音菩薩は身代わり観音として、鎮守白峯大権現(相模坊大権現とも云い日本八天狗の一狗である)は開運招福、商売繁盛、勝負事の神として、崇徳天皇は悪縁断ち、芸能成就、学業成就の神として信仰されている。

 歴史
 寺伝によれば、空海(弘法大師)が弘仁6年(815年)この地に訪れ、白峯山頂(標高357 m)に如意宝珠を埋めて、仏に供える水を汲む閼伽井を掘り、衆生救済の請願をした。また、円珍(智証大師)が貞観2年(860年)、山頂に輝く瑞光を見て登頂、そのとき地主神である白髪の老翁よりご神託を受け、瀬戸内海に現れた光明に輝き、芳香薫ずる可思議な光を放つ霊木で千手観世音菩薩を刻み、当寺本尊として安置し、仏堂を創建したと伝えられている。

 後に、長寛2年(1164年)旧暦8月26日崇徳上皇が讃岐流刑地で崩御し、遺詔により当寺上の稚児嶽上で荼毘に付され陵墓が造られた。その3年後には西行法師が詣で慰霊のために法楽を行った。その後、建久2年(1191年)後鳥羽天皇により、慰霊のため陵墓近くに、崩御までの6年間を過ごした鼓岡の御所である木の丸殿を移築し法華堂を建て、上皇が仁和寺で軟禁されているとき描かれた自画像を奉安し頓証菩提を弔った。寺運は上昇し寺坊は21を数えるほどになっていたが、永徳2年(1382年)火災によって大半を焼亡する。応永22年(1415年)に後小松天皇は上皇の成仏を願い自筆の「頓證寺」と書かれた勅額を奉納し頓証寺殿となった。そして、延宝8年(1680年)には高松藩主松平頼重・頼常により頓証寺殿と勅額門が再建された。

 江戸の幕末の動乱を憂う孝明天皇は崇徳上皇の霊を慰めるため上皇の神霊を京都に移すよう命じたが実現しないまま慶応2年(1866年)旧暦12月25日崩御した。その遺志を継いだ子の明治天皇は慶応4年(1868年)旧暦8月26日に当寺に勅使[注釈 2]を送り御陵の前で祝詞「保元年間に起きた一連の忌々しい事は、本当に哀しみの極みでした。孝明天皇の遺志を継ぎ、京都御所の近くに新しい宮を造りましたのでどうぞ都にお戻りいただき、天皇と朝廷を末永くお守りください。」と読みあげさせ、また、その勅使は当寺の上皇の自画像と愛用の笙(しょう)を持ち帰り[3]、旧暦9月6日に京都に到着した。そして、その翌日、明治天皇が参拝し、さらに翌日の旧暦9月8日に慶応から明治に改元された。

 明治維新になると白峯御陵は当寺から宮内省の管轄に移り、明治3年には上知令が出され寺領は境内を残し没収されて、収入が失われ、本坊になっていた当寺である洞林院以外の塔頭の一乗坊・宝積院・円福院は廃寺となり、当寺住職は明治6年に転身してしまい無住寺となった。その前年に無檀家・無住寺院は廃寺との通達が出ていたので、このままでは当寺まで廃寺となるのを憂いた信徒たちは、住職選定を願い出て、明治11年新住職橘渓導が赴任となり免れた。

 明治11年(1878年)時の宮司の願書により当寺の一部である勅額門と頓証寺殿を白峰神社とし、金刀比羅宮(以下は同宮と表現)の摂社とするという決定が内務郷より出て、所有権が当寺から同宮に移ることとなる。その際に数々の寺宝が同宮に移管された[注釈 3]。その後、それを不服とした当寺の住職と信徒は訴訟を起こし、明治17年に当寺の勝訴となるが、白峰神社が頓証寺殿として返還されたのは明治31年のことである。また、同時に一度同宮に移管された寺宝のごく一部のみが当寺に再移管された。

 昭和40年(1965年)、崇徳上皇800年御忌の機運に乗じ地元青年団有志は、同宮に対し当寺に移管された宝物の返還を求めて裁判を行ったが、敗訴となった。

 伽藍
 本堂【重要文化財】:慶長4年(1599年) 再建。毎年7月10日に近い日曜日に本尊千手観音が開帳される(時間は午前10時からの法要の時間だけ)。脇侍は愛染明王と馬頭観音であるがいずれも秘仏。
 大師堂【重要文化財】:文化8年 (1811) 再建。中央に弘法大師、左に稚児大師、右に青面金剛を安置するがすべて秘仏。
 地蔵祠:石仏の地蔵菩薩を安置する。
 善如龍王祠:安永6年(1777年)再建。
 九社明神祠
 仏足石:平成11年(1999年)建立。本堂と大師堂の間にあり。
 石造瑜祇塔:文政12年(1829年)建立。本堂の向かって左にあり。
 阿弥陀堂【重要文化財】:万治4年(1661年)建立。中央に阿弥陀如来、脇侍に勢至菩薩、観音菩薩を安置。また背後に千体の阿弥陀仏を安置する。

 行者堂【重要文化財】:安永8年(1779年)再建。中央に役行者、周りに閻魔尊、十王、地蔵菩薩、虚空蔵菩薩を安置する。
 廻向堂:平成15年(2003年)建立。中央に阿弥陀如来を安置。脇に永代供養者の霊を祀る。裏に永代供養墓と墓地がある。
 薬師堂【重要文化財】:19世紀前期建立、二層の造り。中央に薬師如来、脇侍に日光菩薩と月光菩薩、手前に眷属の十二神将、向かって左側に金剛界大日如来、向かって右側に胎蔵大日如来を安置するがすべて秘仏。
 鐘楼堂:明治時代の再建。
 弁財天祠:19世紀前期の建立。
 水子地蔵(手水舎):昭和56年(1981年)建立。
 玉章(たまずさ)の木:崇徳上皇がほととぎすの鳴き声に都を偲び、和歌を詠んだところ、ほととぎすはその意を察し、嘴に木の葉を巻いて声を忍んで鳴いたといわれる。その巻いた葉が玉章(手紙)に似ているためほととぎすの落とし文、玉章と呼ばれその葉を懐中すれば必ずよい便りがあるといわれ殊に珍重されている。現在の木は古の玉章の木を偲んで植樹されたもので、古木は香川県五色台少年自然センターに寄贈されている。

 護摩堂:昭和61年(1986年 )建立。中央に五大明王、毘沙門天、左に普賢菩薩、弘法大師、蔵王権現、右に阿弥陀如来、歴代高松藩主、歴代先師の位牌を安置。堂内に納経所を併設。本堂・大師堂は長い石段の上にあるため、足腰に不安がある方は堂内の中央に本尊の分身と向かって左側に大師像があり参拝できる。※スロープあり
 宝物館:平成15年(2003年)建立。重要文化財の勅額をはじめ指定文化財などの寺宝が展示されている。
 宝庫:歴代の聖教や寺院に纏わる書物などが保存されている。
 勅使門【重要文化財】(附指定):19世紀前期の建立。
 御成門【重要文化財】:享保9年(1724年)建立。
 客殿【重要文化財】:延宝年間建立。18世紀中期頃に大玄関を増築。
 茶堂:明治42年(1909年)建立。
 山門(七棟門)【重要文化財】(附指定):18世紀後期の建立。切妻造の高麗門。

 白峯五社稲荷祠:昭和26年(1951年)建立。
 修行大師立像:昭和59年(1984年)建立。その左横に「白峰の花に宿とる遍路かな」の句碑がある。
 石造十三重塔【重要文化財】:東塔と西塔がある。詳細は下記。
 西国三十三観音霊場の写し石仏:明治時代建立。駐車場までの参道(車道)沿いに点在。

 一ノ門:県道180号からの参道(車道)の入り口にある柱門。1958年12月に白峰展望台付近より移築し、欠損部分を補って再建された下乗石が門の後ろにある。

 頓証寺殿

 勅額門【重要文化財】:延宝8年(1680年)建立。重要文化財の勅額は宝物館にあり、門にはレプリカが掛けられている。向かって左に源為義、右に源為朝の武者像が守護しているが普段は扉が閉められ見えない。なお、現在の像は新造で寄進された像で、元々の像は金刀比羅宮・白峰神社に明治31年に移管された。普段は非公開だが、修正会、正月大護摩法要、大般若お加持法要の際には開帳される。※スロープあり
 頓証寺殿の拝殿と奥殿3棟【重要文化財】:延宝8年(1680年)建立。崇徳天皇の廟所である頓証寺殿の奥殿には、三つの社があり、中央に崇徳天皇が祀られ、向って左に鎮守白峯大権現相模坊、同右に念持仏十一面観世音菩薩が祀られている。拝殿に文殊菩薩を安置する。2014年9月21日と28日に50年ぶりの開帳があり、崇徳天皇の画像を拝することができた。

 白峯大権現相模坊(前仏):本尊は秘仏。日本八天狗の一狗であり讃岐三天狗の一狗(他は八栗寺の中将坊と金毘羅の金剛坊)。相模国の大山から来た大行者で当山の山伏を率いて大権現と崇拝され当山の鎮守となり崇徳上皇の守護神となっている。
 崇徳天皇白峯陵遥拝所:拝殿の向かって左奥にあり。上皇「濱千鳥あとは都にかよへども身は松山に音をのみぞなく」の歌碑が正面の柵の中にあり、左脇に頓証寺型石燈籠がある。
 石造西行法師座像:西行が崇徳天皇を詣でた際に腰掛けたと云われる石に安置されている。傍らに西行「よしや君むかし乃玉のゆかとても かゝらんのちはなにかハせん」がサヌカイトに刻まれた歌碑がある。
 御札場:修正会や縁日の際に開かれる御守授与所兼祈祷受付所。本尊として弘法大師座像の軸が掲げられている。

 崇徳天皇 白峯陵(すとくてんのう しらみねのみささぎ):白峯寺境内の玉章の木の後ろ入口から約百m、頓証寺殿の後方約20 mの所にあり、第75代崇徳天皇の陵墓で陵形は方丘。拝所内の前方一対の石燈籠松平頼恭奉献、後方一対は松平頼重奉献。また拝所下段右側に源為義(花崗岩製)、左側に源為朝(凝灰岩製)の供養塔が建っている。毎年9月21日に御正宸祭(ごしょうしんさい)の儀[8]が執り行われ、この日に限り奥の柵まで解放され鳥居をくぐり参拝することができる。
 参道沿いに石造十三重塔があり、駐車場の奥に稲荷社祠、修行大師像がある。山門をくぐり右に御成門、その先に勅使門があり、その後ろに客殿、本坊がある。左に茶堂と御手洗がある。そのままむと正面に護摩堂があり、中に納経所がある。護摩堂を前に見て左に進むと右に弁財天社祠、水子地蔵・手水舎があり正面に勅額門、その奥に頓証寺殿がある。そして右にはるか上に続く石段が見える。その石段を上って行くと左に薬師堂右に鐘楼堂、つぎは左に行者堂右に廻向堂があり、石段を全部で99段上り詰めた正面に本堂がある。本堂の右に大師堂、九社明神社祠、地蔵祠、善如龍王祠、左に石造瑜祇塔、阿弥陀堂がある。

 宿坊:あり(16名以上の団体のみ宿泊可能:最大80名まで)※現在はコロナ禍のため休業中
 入山料:200円
 駐車場:無料(門前P約30台、石塔横P約10台、第2P約80台、第3P約80台:合計200台)
 文化財
 重要文化財
 石造十三重塔 - 2基:源頼朝が崇徳天皇の菩提のために建立したと伝えられ、東塔は総高5.95 mの花崗岩製で弘安元年(1278年)建立、西塔は総高5.62 m角レキ凝灰岩製で元亨四年(1324年)建立、昭和29年9月17日指定
 木造頓證寺勅額:縦139 cm、横115 cm、室町時代作、後小松帝宸翰、明治34年3月27日指定
 白峯寺 9棟(建造物):平成29年7月31日指定
 本堂(附:厨子)
 大師堂(附:厨子、棟札1枚)
 阿弥陀堂 
 行者堂(附:棟札1枚)
 薬師堂
 頓證寺殿(崇徳上皇殿、本地堂、白峯権現堂、拝殿)(附:棟札7枚)1680年(延宝8年)建立
 勅額門
 客殿(附:棟札1枚)
 御成門(附:棟札3枚)
 (附指定)勅使門、七棟門

 史跡
 讃岐遍路道 根香寺道 
 県指定有形文化財
 木造吉祥天立像:台座も含めて榧の一木造り、像高44 cm、台座6 cm、平安時代作、昭和50年7月31日指定
 石造笠塔婆(摩尼輪塔):角礫凝灰岩製、元応3年 (1321) 2月18日密教僧の金剛仏子宗明が建立、境内から遍路道を東へ約0.5 km行った「下乗」石の脇にある。昭和36年6月6日指定
 五重塔:花崗岩製、高さ2.15 m、客殿の裏庭にある。非公開。白峯陵の源為義の供養塔と類似型。鎌倉時代作、昭和39年4月9日指定
 石燈籠:花崗岩製の6角形、総高1.9 m、頓証寺殿の拝殿左に建つ。鎌倉時代作、昭和36年6月6日指定
 坂出市指定有形文化財
 生駒近規・一正寄進状 1巻、仙石秀久寄進状 1巻、生駒高俊・藤堂高虎書状 1巻:安土桃山時代作、昭和33年2月21日指定
 金剛界曼荼羅・胎蔵界曼荼羅:平安から鎌倉時代作、昭和36年11月3日指定
 十一面千手観音画像:鎌倉時代作、昭和36年11月3日指定
 十一面観音立像:鎌倉時代作、昭和42年1月10日指定
 不動明王座像:鎌倉時代作、昭和42年1月10日指定日指定
 紺紙金泥妙法蓮華経:平安時代作、昭和54年11月3指定日指定
 香川の保存木
 白峯寺のモミ:樹高35m、胸高幹周3.5m、昭和54年2月27日指定

 年中行事
 1月1日〜3日 元旦修正会(新年祈祷):頓証寺殿・護摩堂
 1月最終日曜日 正月大護摩法要(開運火渡り修行):頓証寺殿前・大般若転読法要:頓証寺殿
 2月3日 星祭(節分):護摩堂
 3月中 十三参り:護摩堂
 4月最終日曜日 永代土砂加持彼岸法要:護摩堂
 7月10日に近い日曜日 千日会(本尊千手観音縁日):本堂
 9月21日 崇徳天皇御正宸祭:白峯陵
 11月中 七五三参り:護摩堂
 11月第2日曜日 大般若お加持法要:頓証寺殿
 12月22日 星祭(冬至):護摩堂※閏年は21日
 大晦日 除夜の鐘(干支の土鈴を先着で配布):鐘楼堂
 1月・4月を除く毎月28日:月例護摩祈願・供養(不動明王縁日):護摩堂

 白峯寺 香川県坂出市青海町2635番地 

*Wikipedia より

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<四国八十八箇所> 第80番札所 讃岐国分寺

2024-06-19 07:46:47 | 巡礼

 「讃岐国分寺」

 讃岐国分寺(さぬきこくぶんじ)は、香川県高松市国分寺町国分にある真言宗御室派の寺院。白牛山(はくぎゅうざん)、千手院(せんじゅいん)と号す。本尊は十一面千手観世音菩薩。四国八十八箇所霊場の第八十番札所。札所寺院としては単に「國分寺」と称するのが通例である。

 本尊真言:おん ばさら たらま きりく
 ご詠歌:国を分け野山をしのぎ寺々に まいれる人を助けましませ
 納経印:当寺本尊、満願証「願行成満」、弁財天、五色台三霊場参り(白峯寺・根香寺と共に)
 奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、讃岐国国分寺の後継寺院にあたる。本項では現寺院とともに、創建当時の史跡である讃岐国分寺跡(国の特別史跡)についても解説する。

 概要
 高松市西部、国分台丘陵の南に立つ。讃岐国府跡推定地の東方2 kmに位置し、一帯は讃岐国の中心地であり多くの遺跡が発掘されている。

 現在の境内は、創建当時の国分寺の伽藍と重複している。伽藍跡は全国に残る国分寺跡の中でも保存状態が良く、国の特別史跡に指定されている。なお国分寺跡で特別史跡であるのは、当寺の他に遠江国分寺跡と常陸国分寺跡のみである。そのほか、本堂・本尊・銅鐘が国の重要文化財に指定されている。

 歴史
 国分寺は天平13年(741年)聖武天皇が発した国分寺建立の詔により全国六十八箇所に建立されたとされ、当寺もその頃の創建と推測される。寺伝では、行基が丈六の十一面千手観世音菩薩を本尊として開基したとされる(現存する本尊像は当時のものではないが、四国霊場の江戸期以前作の仏像で、丈六仏は善通寺の薬師如来坐像と当寺本尊のみで、しかも立像であるので四国霊場で最大の大きさである)。史実としての具体的な創建年は定かでない。

 『続日本紀』には天平勝宝8歳(756年)に「讃岐国を含む26か国の国分寺に仏具等を下賜」との記載があり、この頃に寺観が整っていたと考えられる。

 明徳2年(1391年)の文献には当寺が西大寺の末寺である旨が記されており、その他の文献から鎌倉末期までには西大寺末となっていたと推測されており現存本堂の建造も西大寺系の僧が関わっていたものと考えられる。

 天正の兵火により本堂と本尊と鐘楼を残しほとんどが焼失した。

 その後、江戸時代には讃岐高松藩主から崇敬され、63石前後の寺領寄進を受けた。

 境内

 山門(仁王門):創建時の中門を踏襲すると見られている。
 本堂:本尊開帳は60年に一度で次回は2040年。前立の千手観音・不動明王・大師像を拝観できる。創建時の講堂の礎石を利用して建てられている。
 大師堂(弘法大師礼拝殿万霊塔):大師像を拝観できる。
 大日如来堂:安永7年(1778)大師堂として建立、以前は毘沙門堂であった。2014年から、大塚純司住職発案、彫刻家の大森暁生制作で、1497年まで東寺講堂の立体曼荼羅の本尊であった空海作の大日如来坐像を『東宝記』の記録を基に復元する計画が進行中であり公開は未定。
 閻魔堂
 千体地蔵堂
 春日神社堂:村落から移された鎮守社。
 良縁社(祠):愛染明王を祀る。
 弁財天像、延命地蔵尊、水かけ地蔵などの石像が点在。
 御衣木(みそぎ):福龍とも呼ばれ空海が本尊を修理した際の残木と伝わる。
 福松:黒松の大木で中ほどに天然の黒松の葉のコブがある。
 鐘楼:重要文化財の銅鐘は平安時代前期の鋳造と考えられる。
 ミニ四国八十八箇所の石仏:近隣の里山にあったものを昭和初期に境内に移設したもの。
 仁王門をくぐり八十八ケ所の石像が両脇にならぶ参道を進むと左に閻魔堂があり右に四国最古の釣鐘があり、さらに行くと礎石のならぶ間を行き小さな橋を渡ると正面に本堂が立つ。本堂を背に左手を進むと白い多宝塔があり、それが大師堂である。その右の門から遍路用品のならぶ店内に入るとそこが大師堂拝殿であり、納経所でもある。 (注意)参拝には最短でも10分かかるとのことで、午後4時50分以降は閉門され入場できない。

 宿坊:なし
 入山料:200円
 駐車場:大型2台、普通車7台、山門前に無料であり

 讃岐国分寺跡

 手前に金堂、奥に七重塔。
 発掘調査で明らかとなった奈良時代の寺域は南北240メートル、東西220メートルで、現在の国分寺や東隣にある宝林寺を含んでいる。伽藍は大官大寺式伽藍配置で、中門・金堂・講堂が南北一直線上に並び、中門と金堂を回廊で結んだ内側の区画の東側に塔が建てられていた。

 遺構の保存状況はよく、金堂、七重塔などの礎石が原位置に残っている。現国分寺の本堂は奈良時代の講堂跡に建ち、現本堂はこの礎石を再利用している。他に、回廊・僧房・鐘楼・掘立柱建物・築地塀の遺構が発掘で確認されているほか、中門・南大門があったと推定される。

旧 伽藍跡は遺跡公園として整備され、奈良時代の伽藍が縮尺10分の1の石造模型で再現されているほか、築地塀の一部が実物大で復元されている。また、僧房跡は残存状況が良好であったため遺構を覆屋で覆い、建物の一部が復元されている。

 現在の境内エリア
 金堂礎石 - 正面7間・側面4間。
 講堂跡 - 現本堂の位置で、礎石は本堂に使用されている。正面7間・側面4間と推測される。
 塔跡 - 3間(約10 m)四方・高さ63 mの七重塔と推測される。創建当時の礎石17石中15石が原位置のまま残る。聖武天皇自ら金字で金光明最勝王経を書写し塔に納めたと云う。
 遺跡公園エリア
 僧房跡 - 東西21間・南北3間。これを東西21間を3間ずつ7単位に壁で仕切り、中央の3間×3間を食堂的な共同利用室に、残りの6単位では柱の間をさらに区切って小さな部屋を設け、各単位に4室ずつ計24部屋を備えていたと考えられる。一部復元した内部構造を覆屋内に展示する。
 鐘楼跡 - 東西2間・南北3間。
 掘立柱建物跡 - 南北7間・東西4間。建物の用途はわかっていない。
 回廊
 築地塀 - 下幅1.8 m・上幅1.5 m・高さ3.93 mの土塀が、東西220 m・南北240 mの敷地を方形に囲っていた。また、築地塀の外側には堀をめぐらしていたとされる。

 文化財
 重要文化財

 銅鐘(重要文化財)
 本堂 - 明治37年8月29日指定。
 鎌倉時代後期の建立。桁行五間、梁間五間、単層入母屋造、本瓦葺。奈良時代の講堂跡に立ち、その礎石を再利用している。
 木造千手観音立像 - 明治37年8月29日指定。
 彩色、彫眼。脇手を除く本体を﨔の一木造とする。十一面四十二臂、像高524 cm。平安時代末期作。本堂内陣の須弥壇上の厨子内に安置。
 銅鐘 - 昭和19年9月5日指定。
 国の特別史跡
 讃岐国分寺跡 - 昭和3年3月24日指定(国の史跡)、昭和27年3月29日指定変更(国の特別史跡)

 讃岐国分寺 香川県高松市国分寺町国分字上所2065番地

*Wikipedia より

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