【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(仙台国税局)】
〈岩手〉 鷲の尾 結の香/わしの尾
「鷲の尾」の銘名由来
西根町の地酒「鷲の尾」は文政十二年(1829年)に創業。 この酒名は大鷲が住んでいた巌鷲山(岩手山)の山麓から湧水する 清らかな水で醸造されていることから「鷲の尾」と命名されました。 また、早春の雪解けとともに山頂に大鷲が羽を広げたような残雪が くっきりと現れますが、この雪形から名づけられたとも伝えられています。
*https://www.fukuraiya.jp/SHOP/was00025.html より
株式会社 わしの尾 岩手県八幡平市大更第22地割158番地
ブランド一覧
「わしの尾」芳醇熟成酒・しぼりたて純米吟醸酒など
「雋」純米大吟醸酒
「陸羽132」純米酒-「陸羽132」を使用
「北窓三友」純米酒
「雄飛萬國翔」本醸造 などなど
「陸羽132」
近代品種のさきがけ水稲「陸羽132号」 ~ 陰の育成者仁部富之助 ~
大正のはじめ、秋田県花館村(現大曲市)の雄物川河原で、熱心に野鳥を観察する変わり者がいた。仁部富之助(にべとみのすけ)、近くの農事試験場陸羽支場の技手であった。仁部はのちに「鳥のファーブル」と呼ばれ、 わが国野鳥研究の祖と仰がれる。だがこの人が、有名な水稲「陸羽132号」の育成に深くかかわったことを知る人は意外に少ないようだ。
我が国の人工交配品種のさきがけとなった陸羽132号は大正10年に農事試験場陸羽支場で育成された。国内で人工交配が始まったのは明治37年だから、かなりスピーディーな誕生といってよい。 育成者は普通寺尾博といわれている。たしかに彼がいなければこの大品種の誕生はなかっただろう。
寺尾はのちに農事試験場長になる作物育種の先人だが、当時は新進の研究者。交配育種法をもっとも早く習得した一人だった。明治四13年、本場兼任のまま、陸羽支場種芸部主任として着任する。 ちょうど東北各地に冷害が頻発していた時期で、彼に期待が集まったのは当然といってよいだろう。
寺尾が赴任したとき、助手に抜擢されたのが仁部である。もともと鳥好きの仁部は、農学校を出てすぐ試験場の養畜部に勤務するが、寺尾の着任とともに種芸部に配属された。 彼の研究熱心が評価されたのだろう。ここから2人の品種づくりがはじまった。
陸羽132号の親は、冷害に強い「陸羽20号」と良食味の「亀ノ尾」。両者の長所を活かそうというのが、交配のねらいだった。交配はハサミとピンセットを使った細かな作業。 風に邪魔されないよう温室で行うのだが、開花期の8月の温室はまさに灼熱地獄だった。2人とも素っ裸でこの難行に耐えたそうだが、得られた種子はわずかの2粒だった。 当時の技術はまだ未熟だったのだろう。
じつはこの直後から、寺尾は海外に出張している。大切な種子を預かった仁部は、心配で夜も寝られなかったという。さいわい翌春に種子は発芽し、以後、増殖・選抜と品種改良を進めることができた。
陸羽132号の育成には7年を要したが、寺尾の関与は最初の2年で、以後は後任者と交代している。在任中も東京とかけもちで不在がちだったというから、主要実務の多くは仁部が受けもったとみてよいだろう。 寺尾自身も後年、仁部の「異常の苦心と努力」を称え、謝辞を述べている。
陸羽132号はその後普及に移されるが、とりわけ真価を発揮したのは、昭和6~10年の大冷害のときだった。このときの冷害をうたった宮沢賢治の「稲作挿話」に、つぎの一節がある。 「君が自分でかんがえた/あの田もすっかり見て来たよ/陸羽一三二のはうね/あれはずゐぶん上手に行った」当時の東北農民にとって、この品種は希望の星だったにちがいない。 昭和14年には最高普及面積24万ヘクタールにまで達している。
仁部は大正13年に陸羽支場を退官。以後、農商務省嘱託として野鳥研究に生涯を捧げる。彼の大著「野の鳥の生態(全5巻)」には、寺尾への謝辞が掲げられている。 公務のあいまに鳥の観察を許し、助言まで与えてくれたという。スズメは稲作に関係ありというのが理由だった。2人の間には研究者だけに通ずる心の交流があったのだろう。
「農業共済新聞」 2002/07/10より転載 (西尾 敏彦)
*https://www.jataff.jp/senjin2/40.html より
「陸羽132」は「日本初の人工交配による優良水稲」といわれている。
酒造好適米ではなく、「食用米」。
陸羽132号が真価を発揮したのは1934~35(昭和9~10)年の東北大冷害時で、「亀の尾」よりも冷害に強いことが証明され、以後、作付面積が急速に伸びたという。この時の冷害を詩にした宮沢賢治の「稲作挿話」の一節に「君が自分でかんがえた/あの田もすっかり見て来たよ/陸羽一三二のはうね/あれはずゐぶん上手に行った/肥えも少しもむらがないし/いかにも強く育ってゐる」とある。この品種は東北地方の農民たちになくてはならない品種として君臨、1929年から戦後の52年まで24年間作付面積トップを続けた。
*http://www.ken-ohashi.jp/contents/2b/dagakki/2008/132.html より
「お米」やその「品種」を語る上で「陸羽132」を避けては通れない重要なことがよくわかる。