「スティーヴィー・ワンダー」
1950年5月13日生まれの70歳
スティーヴィー・ワンダー、約60年所属したモータウンから移籍。 BY VOGUE JAPAN 2020年10月15日
スティーヴィー・ワンダーがおよそ60年間に渡って所属していたレコードレーベル、モータウンから移籍した。わずか11歳の頃からモータウンに所属していたが、ユニバーサル・ミュージック・グループ傘下のリパブリック・レコードから、自身の新レーベル、ソー・ホワット・ザ・ファス・ミュージック(So What the Fuss Music)を設立した。
そして同レーベルから10月13日(現地時間)、「Where Is Our Love Song」と「Can’t Put It in The Hands Of Fate」の2曲を同時リリース。さらにはニューアルバム『スルー・ジ・アイズ・オブ・ワンダー』も予定している。しかし、今後もモータウンとの提携も考えているようで、先日の記者会見ではこう話していた。「モータウンから移籍はしたものの、モータウンに別れを告げたわけじゃない。それこそデトロイトだから。だからモータウンとの企画を何か立てることにはなると思う。(2013年発表の)『ゴスペル・インスパイアード・バイ・ルラ』みたいのとかさ。今後考えていくつもりだ」
また、新曲「Where Is Our Love Song」については、18歳の時に執筆した曲ではあるものの、現在の世界状況を見て、今回リリースを決めたと明かした。「全ての困惑や嫌悪、東対西、左対右。解決が難しいことばかりだ」。そしてバスタ・ライムズやラプソディー、コーデー、チカをフィーチャリングした「Can’t Put It in The Hands Of Fate」では、この歴史的にも重大な時において、自分たちの立場を考える時だということをテーマにしているそうで、「今こそ変化の時。運命に何て任せていられない。誰も待つ時間なんてないんだ。この死のウイルスの治療法を探すことを、運命に任すことなんてできない。祈るとかなんでも出来ることをしないといけない」と説明した。
*https://www.vogue.co.jp/celebrity/article/stevie-wonder-leaves-motown より
プロフィール
ふと気がつくとスティーヴィー・ワンダーの曲を口ずさんでいることがよくある。そんな人も増えているのではないだろうか。ほぼ毎年のようになにかしら彼の曲がCMで流れていたりするし、カヴァーされたりサンプリングされることも多い。映画のなかの印象的な場面で使われていることもよくある。日常的に接する機会がとても多いのだ。それに一度聴けばすぐにスティーヴィーだとわかるあの声と唱法。頭のなかで渦巻くように鳴り響く条件が、スティーヴィーの曲にはすべて揃っている。
そんな渦巻き状態のときになんとなく、なぜ彼の曲はCMや映画で使われることが多いのだろうと考えることもある。結論。スティーヴィーの曲はとてもカラフルなのだ。曲自体もサウンドも色彩感が豊か。たとえスローな曲でもモノクローム、モノトーンにはならない。オーガニックな響きを保ちつつ、きらきらと輝くような表情もある。それはどの時代でも共通している感覚で、そうした色彩感が映像とよく馴染むのだ。
スティーヴィー・ワンダーは1950年5月13日にミシガン州のサギノウで生まれた。しかし、生まれてすぐに保育器内の過量酸素が原因で、永遠に視力を失うことになってしまった。 心で物を見る。そういうのはたやすいけれど、盲目の彼がたとえば「サンシャイン」で描いた“you are the apple of my eye, forever you'll stay in my heart”という詩的なフレーズのなんと美しいことよ。アップルという言葉が連想させる柔らかさや微妙な色合い、匂いまでが目の前に広がってくるようだ。こうした想像力を喚起させる彼の言葉の使い方も極めて映像的なように思える。
スティーヴィーがデビューしたのは12歳のとき。天真爛漫、いたずら好きで、なんにでも興味を示す子供だった。初めての大ヒット「フィンガーティップス」がリリースされたのは63年のこと。ちょうどビートルズ旋風が吹き荒れはじめたころだ。その後、ビートルズは短期間のうちに音楽に大きな変革をもたらしたが、まだ十代の多感なときにスティーヴィーがロックの革新を身近で接したことは極めて大きい。と同時に、公民権運動が広がり、ヴェトナム戦争も本格化していく60年代を、若きシンガーとしてリーダーの自覚も持って過ごしたことは、スティーヴィーの作風に大きな影響を与えた。なにしろ ジョン・レノンやボブ・ディランと比べたら10歳ほど若いスティーヴィーだ。持ち前の旺盛な好奇心で様々な影響を吸収していった。
70年、二十歳になったスティーヴィーはアルバムをセルフ・プロデュースする権利を獲得。その時期はちょうどスタジオ設備や録音技術が大幅に進化、シンセサイザーを筆頭とする電子楽器が大きな注目を集めはじめた時期だ。スティーヴィーも70年の『涙をとどけて』以降、多重録音などサウンド的な冒険を大々的に繰り広げるようになっていった。71年の『青春の軌跡』でさえ、ヴォーカル以外はたったひとりで、しかもわずか4週間で完成させたといわれているほどだ。
そうした数々の実験は、続く『心の詩』(72年)で実を結びはじめ、さらによく3部作とたとえられる『トーキング・ブック』、『インナーヴィジョンズ』、『ファースト・フィナーレ』でひとつの頂点を迎えた。「レゲ・ウーマン」やサルサに取り組んだ「くよくよするなよ」など、世界に広がっているさまざまなリズムにも意識的だった。そして、大作となった76年の『キー・オブ・ライフ』では、3部作を引き継ぎながらよりポップな展開をみせ、全米アルバム・チャートで初登場1位を記録。その後も通算14週にわたって首位の座を守った。60年代のビートルズに匹敵する音楽の革新を、70年代のスティーヴィーはひとりで成し遂げてしまったのだ。
しかし80年代、特に「スリラー」を筆頭として、よりダイレクトに映像と結びついた音楽が注目されるMTV時代になると、スティーヴィーは極めてイマジネイティヴな、美しいラヴ・バラードに真価を発揮するようになった。アパルトヘイト反対やチャリティ活動にさらに精力的に取り組むようになり、それで自らのリリースが減ったともいえれば、だからこそバラードに磨きが掛かったともいえる。
そして、最近になって再評価が進むスティーヴィーの曲は、そうした80年代のバラードが多いのも確かだ。ジョデシィの「レイトリー」やイントロの「リボン・イン・ザ・スカイ」、それにメアリー・J・ブライジの「オーヴァージョイド」しかり。2002年にもコンテンポラリー・ゴスペル・デュオ、メアリー・メアリーによるカヴァー「ユー・ウィル・ノウ」があった。この曲なんて88年にソウル・チャートでは1位に輝きながらポップでは77位に終わった曲で、こうした掘り起こしとも呼べそうなカヴァーは今後も続いていくことだろう。80年代の曲ではないけれど、「アズ」や「パスタイム・パラダイス」が注目されたのも、インディア・アリーがアルバム・タイトルに「Voyage To India」というスティーヴィーの曲名(『シークレッツ・ライフ』収録)を引用したことも、掘り起こしという方向性では同じことだと思う。大ヒットや代表曲に加えて、これまで以上に純粋に“いい曲”“いいメロディー”といえるスティーヴィーの曲がいま、求められているようなのだ。(高橋道彦)
*https://www.hmv.co.jp/artist_Stevie-Wonder_000000000005609/biography/ より