8月26日の記事に、姜尚中氏の論文が掲載されている。「姜尚中 思索の旅」と題する、一面記事だ。
これも、共同通信の配信記事なのだろうが、千葉日報は、どうしてこうも姜尚中氏が好きなのか。飽きることなく、氏の論文記事を掲載している。読んでみると、内容は大したこともない、日本の政治家と、政治家を作り出す制度についての意見だ。
マックス・ウエーバーの著書を引用しながら、政治家の役割やあるべき姿を語り、問題点を浮き彫りにするというものらしい。
平成6年に、衆議院に小選挙区制が導入された以後の政治家と、導入前の、中選挙区制下の政治家について、分かりやすく述べている。中選挙区制では、金権政治が幅を利かせ、親分子分の派閥政治が、議員の系列化を進めたが、小選挙区制では、金と人事、公認権が党に集中し、総裁である総理が、独裁的権限を有するようになっている。
現在の小選挙区制下で、議員は、党首の言いなりになるイエスマンにならざるを得ないと、こういう意見だ。
また日本では、与野党を含め、衆議院での世襲議員の比率が、4分の1に上っており、自民党だけで見ると、4割になっている。これでは政治が、特定政治家の家業みたいになってしまい、議員の新陳代謝ができなくなる。
ここで氏が、何か画期的な解決策を語るのでもなく、「それを打ち破るような、天職としての政治家を排出する、新たな浄化装置は、どこにも見当たらないのだろうか。」と、読者へ投げかけをしているに過ぎない。
今回の記事が、上下二回のシリーズのうちの上だから、もしかすると下で、氏の卓見が披露されるのかもしれない。
内容はさほど過激なものでなく、ごく常識的な解説である。これが姜尚中氏の寄稿記事でなければ、取り上げる必要もないのだが、姜尚中氏であるところに私はひっかかる。あるいは、狭い了見かもしれないが、喉に刺さる小骨のようにひっかかる。
もともと氏は、過激な反日というより、護憲左翼という立場にいて、語り口が穏やかなため、好感をもつ日本人が多い。
氏の意見は、日本に対する、憎しみの強烈なパンチでなく、ゆるやかな、ボディーブローのような攻撃である。無視しても、大した害は無いと言う人間もいるが、私はどうしても、気になる。
第一に氏は、未だに国籍を韓国においている人間だ。慰安婦問題以降、韓国政府は、軍艦島の世界遺産登録問題にしても、竹島の不法占拠にしても、敵対国としか思えない対応をしている。韓国の大統領は、独裁者とも言える権力を持ち、しかも周りにいる政治家たちは、利益誘導と露骨な収賄をする人間たちでないか。
そんな国の人間である氏が、何の権利を持ち、他国である日本の批判をするというのか、不思議でならない。むしろ問題点の沢山ある韓国で、韓国の政治制度や、韓国の政治家のレベルを語るべきで無いのかと、私はいつもそう思っている。
韓国では、自分の国の批判ばかりする人間を、国立大学の教授にしたりするのだろうか。ひとかどの学者でもあるかのように持ち上げ、新聞で大きく取り上げたり、テレビに登場させたり、このようなことをする日本というのは、やはり、お人好しを通り越してバカというのではなかろうかと、記事を読むほどに不愉快になってくる。
陛下の「お言葉」に関する、東大総長の意見に比べれば、その拡散する害毒は「月とスッポン」の違いがあるが、不愉快であるのは同じだ。即座に千葉日報の購読を止めることはしないが、疑問は抱かざるを得無い。
千葉日報は、果たして「マスコミの鏡」になれるのか?
台風一過、薄雲のかかる青空に、飛行機が飛んでいる。今日は、三男夫婦と孫娘がノルウエーから帰る日なので、家内が成田へ出迎えに行っている。穏やかな一日になりそうだ。大雨のおかげで、関東のダムが平年の水位を取り戻し、節水・制限も無くなった。
だから今日は、気持ちが穏やかになり、姜尚中氏の記事への不愉快さも薄れている。こんな私は、間違いなく、「お人好しのバカ」としか呼べない、日本人の一人なのだろう。
愛する息子たちが帰ってくるから、今日一日は、何と言われても構わない。