台風一過、猛暑の夏と水不足の夏が一挙に消え、早朝は肌寒くさえあった。
暑さに弱くなったため、ほとんど庭に出なかったが、久し振りに家内と二人で雑草取りをした。花の少ない夏の間、賑やかに庭を飾ってくれたルドベキア・タカオを全部切り取った。直径2センチほどのヒマワリとでも表現すれば良いのか、鮮やかな黄色い花だ。
庭の隅に少しずつ植えていた彼岸花が、生い茂った花木の陰で咲いていた。知らぬ間に巡る季節、秋の訪れを教えられた。田の畦道や土手の斜面に、群がり咲いていた彼岸花は、私の記憶の彼方にある花だ。華やかな赤なのに、彼岸花は物寂しい花だった。熊本の田舎に住んでいた少年の頃、戦後の貧ししい暮らしがそうさせたのか、まわりにいつも、もの悲しさが漂っていた。
辛いとか、苦しいとか、悲しいとか、強い思いでなかったが、追憶の背後に何かしら切ない色調があった。これも秋の花に加えて良いのか、庭には赤と白の水引草が可憐な花をつけていた。こうした花を眺めていると、まさに感傷の秋となりはてる。
こんな過ごしやすい日には、庭仕事をする私たちの傍らに、背を丸めた猫がいた。白いテーブルの上か、庭椅子の上か、自分の前足にあごを乗せ、目を閉じたままじっとしていた。「ほんとに、可愛かったねえ。」・・・・、どちらからとなくつぶやくと、もうダメだ。涙で視界が邪魔される。
いつまでたっても、飼い猫の思い出は私たち夫婦を涙ぐませる。飼いたいと思っても、猫より先に死ぬ年令だから、飼えなくなってしまった。犬でも猫でも、最後まで見守ることの難しさを知ったので、自分たちの都合だけで欲しがってはいけないと教えられた。もう、この話はよそう。
ねこ庭がここにあり、季節の花が咲き、季節の仕事が自分たちにあり、心地よい汗と疲れがある。これ以上何を望もう。思い出を残してくれたわが猫に、心の中で手を合わせたい。
伸びすぎた枝を切り、枯れた花を抜き、雑草を取り、無心の作業が雑念を払ってくれる。ここは私の住む千葉県、関東、東日本、もう少し広げたら、日本。大切な日本だ。
今日はそれだけでいい。政治も、経済も、マクロの話はお預けだ。ねこ庭の日常の、この安らかさも日本だ。この日々の平和と穏やかさを、感謝せずにおれない。
ご先祖様と、数知れぬ尊い御霊と、そしてわが猫に・・・・・、理屈抜きの感謝を捧げる。人生には、こんな日が、たまにあってもいい。