これから、林氏の著作の核心部分の一つに入っていく。
私たち日本人にとって、天皇とはなんであるのか。以下長い作業になるが、根気よく紹介したい。
・日本の歴史を考えようとする者は、天皇制を避けて通ることはできない。
・もし天皇制問題が、すでに解決済みと本気で考えている者がいたら、それは心で考えぬ公式主義者か、日本の運命を、自分のこととして考える必要のない外国人だけである。
・目下朝日新聞で『日本占領回想記』を連載中の、マッカーサー元帥の名前をその外国人の例として、私はここにあげたい。元帥曰く。
・国民のほんの一部にしか過ぎない封建的な指導者たちが、支配の座に座り、他の何千万という国民は、進んだ意識を持つわずかの例外を除き、伝説と神話の完全な奴隷となっていた。
・ 第二次大戦中この何千万の国民は、勝っている話しか聞かされなかった。
・そこへ突然襲ってきたのが、全面的な敗北という強烈なショックだった。それは単に、軍事力がつぶされたことだけではない。
・ 日本人が信仰し、それによって生き、そのために戦った一切のもが消滅したのである。日本人の心の真空状態の中へ、今度は、民主的な生き方というものが流れ込んできた。
・日本人の心に起こった精神革命は、二千年の歴史と、伝説の上に築かれた生活の論理と習慣を、ほとんど一夜のうちに打ち砕いた。
・封建的な支配者と、軍人階級に向けられていた偶像的な崇拝の情は、憎しみと蔑みに変わり、敵に対して抱いていた憎しみと蔑みはやがて、敬意の念に変わっていった。
敗戦後の日本人について、マッカーサーが語っている。多くの日本人がそうだったと思うし、この点については林氏も認めている。
・たしかに一つの意見だ。極めて明快、極めて単純な軍人的意見である。私は元帥の日本認識を、まったくの誤りだとは言わない。
・少なくとも、占領中の数年間の情勢論としては通用する。日本人が一切の封建的なもの、伝統と神話を憎悪し破壊を望んだかのように見えた一時期は、たしかにあった。
・占領者に対し明らかな敬意と、信頼を示した時期があったことも元帥の言うとおりである。
・ 世紀の残酷喜劇、東京裁判の演出ぶりも、詳細に目撃した。元帥の日本人12才説も謹んでうけたまわった。
・元帥が去って十年、私たちは今朝日新聞において、彼の誇らしい『勝利の記録』を読まされている。だがそれにしても、なんという軍人的、征服者的回想録であることか !
・元帥とその幕僚たちは天皇を無害な象徴に変更し、日本に残してやったのは自分たちだと、ひそかに誇っているようである。だが、果たしてそうだろうか。
・元帥が書いているとおり昭和21年の元旦、天皇は自ら『人間宣言』を行い、自分の神格を否定した。
『 朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ 』
・たしかに現人神と優越民族が、架空なる観念として否定されている。元帥を喜ばせたのは、この後段であろう。だが、日本人にとって重大なのは、前段である。
・前段の言葉は単なる思想でなく、歴史的事実である。天皇は自ら架空なる観念を破棄されたが、国民と天皇の間にある『紐帯』 ( ちゅうたい ) は残り、天皇制も残った。
当時、天皇以上の権力者だった連合国司令官も、天皇制の根本に触れることができず、これを残したまま日本を去ったのはなぜか。大多数の国民が存続する天皇制に異議を唱えず、全体として象徴天皇に満足しているのはなぜか。
その理由が、まだ解明できていないと氏は言う。マッカーサーが打ち砕いたのは、日本の都市だけで、二千年の歴史と伝統は何の関係もないと断定する。歴史の中の改めなくてならぬものは、日本人自身が改めると語る。
天皇制の問題は、征服者としての軍人や、天皇を利用するだけの政治家の理解の彼方にある、歴史的存在だと説明する。
正直に言って、天皇について氏の叙述は私には難しい。様々な学者の意見を紹介しているが、彼自身これだという断定をしていない。
だが、読み進んでいくと、どうやら氏は、竹山道雄氏の考え方の大部分に賛同し、氏の所論の次の一節に注目している。
・国民の心の中にある天皇の、もともとの性格を最も簡単に言ってみれば、それは、土俗的なものでないかと思う。
・意識の表面に近いものほど、歴史の動きとともに変わっていくが、意識の深層にあって、集合的、無意識的であるものほど変わりにくい。天皇制は、日本国民のよほど深い底の層に、根を下ろしているものと考えられる。
・この島国に住んでいる国民の中に、久しい年月の間に、おのずから中心となるものができた。すべての人が信頼し、その言うことを無理なく聞く精神的権威ができた。
・教団の祭主がまつりごとを行い、そのうち、全国民の上にいる世襲のカミとなった。
・神道には最後の絶対者はいないのだから、西洋のゴッドとはまったく別物である。絶対的権力をふるった古代のインペラトールとか、ツエザールとも違うし、神権説で権威付けられた、王者でもない。
・むしろ土俗的な、神主の本家のようなものだった。
ここまでは林氏も同じだが、意見を異にするのは、東京裁判での天皇責任を無罪とするところだ。竹山氏は利用された天皇に戦争責任がないと主張するが、林氏は次のように語る。
・日本国民は天皇とともに戦い、天皇は国民と共に戦ったのだ。太平洋戦争だけでない。日清、日露、日支戦争を含む『東亜百年戦争』を、明治、大正、昭和の三天皇は宣戦の詔勅に署名し、自ら大元帥の軍装と資格で戦った。
・天皇制が日本人の土俗の深層から発生し、その中に深く根を下ろし存続しているものであるかぎり、その本質を、常に平和的なものだと規定することはできない。
・祭司も神官も、民族の危機においては武装する。戦争が発生すれば、その総指揮官になり、終われば、再び平和な祭司神官にかえる。歴史のはるかな初期に天皇が武装していことは、考古学的に証明できる。
氏は大東亜戦争で天皇が無罪だという竹山氏に、異を唱える。天皇が国の危機に際し戦争の先頭に立つのは、何の不都合もないという。
ここが氏の主張の独自性だと思うが、理の通ったまっすぐな意見だと賛同せずにおれない。
これに続く次の言葉は、当時の知識人としては勇気のあるもので、頭を下げたくなってくる。今の日本で、こんなまともな意見を言う学者や文化人が何人いるだろうか。
・私は東京裁判そのものを認めない。いかなる意味でも認めない。あれは戦勝者の戦敗者に対する復讐であり、すなわち戦争そのものの継続であり、正義にも人道にも、文明にも関係がない。
・あきらかに戦争は、これらの輝かしい理念の公然たる蹂躙であって、歴史上に前例のない捕虜虐殺であった。
・かかる恥知らずの裁判に対しては、私は全被告と共に全日本国民と共に、我々は有罪であると叫びたい。
つまり氏は土俗的祭司として国民の上に立つ天皇が、東亜百年戦争で、戦いの先頭に立って何が悪いかと胸を張っている。復讐裁判に腰を折り、天皇の無罪をいうなど笑止千万と片付けている。
敗戦後の日本人に対する、覚醒の言葉と私は受け止める。氏はすでに故人だが、今に生きる国民の一人として改めて哀悼の意を捧げたい。
今夜もまた、遅くなった。昼間木枯らし一号が吹いたから、いよいよ本格的な冬の到来だ。これから風呂へ入り静かに眠るとするが、有意義な書を読んだ後の爽やかさと充実感は何ものにも代え難い。
林氏と、蔵書を遺してくれた叔父に感謝する。続きは明日と、いたします。お休みなさい。