・苦悩は、学者と志士だけのものではなかった。当時、名君賢公とうたわれた藩主たちもまた、それぞれ共通の根から発した、国内改革案と東亜経略論を持っていた。
・中でも、水戸の徳川斉昭、越前の松平慶永、薩摩の島津斉彬などの意見が注目に値する。
林氏はこう述べて、島津斉彬について語る。
・斉彬にとって重大な事件は、インドの崩壊と、シナにおけるアヘン戦争と、長髪賊の乱であった。
・アヘン戦争は斉彬の壮年時代に起こり、長髪賊の乱は、彼が藩主に就く直前に起こった。
・長髪賊の乱は清朝打倒を目標としていたが、その極端な排外主義が、シナ分割の機会を狙っていた西洋列強に干渉の口実を与え、英仏連合軍の北京侵入となり、皇帝の逃亡となり、内乱の拡大となり、英人ゴルドン将軍の力を借りて、清朝はようやく乱を平定することができた。
・斉彬は、東亜最大の強国であった清帝国の解体を予感し、やがてそれが、日本の運命になりかねないことを憂慮した。
・彼が越前藩主松平慶永に与え、西郷隆盛に教えたという、意見書の写しが残っている。」
ここで氏の著作から、斉彬の意見書をそのまま紹介する。彼も松陰に負けない雄大な秘策を、胸中に秘めていたことを教えられた。
・まず日本の諸侯を三手に分け、近畿と中国の大名はシナ本土に向かい、九州の諸藩は安南、カルパ、ジャワ、インドに進出、
・東北奥羽の諸藩は裏手より回って山丹、満州を攻略する。わが薩摩藩は、台湾島とその対岸広東・福建を占領し、南シナ海を閉鎖して、英仏の東漸をくい止める。
・出兵するとしても、これは清国の滅亡を望むのではない。
・一日も早く清国の政治を改革し、軍備を整えせしめ日本と連合する時は、英仏といえども恐るるに足りない。
・然るに清国は、版図の雄大なるを誇り、驕慢にして日本を見ること属国のごとく、連合を申し出ても耳を傾けるどころではない。
・ゆえに我より出撃して清国を攻撃しこれと結んで、欧米諸国の東洋侵略を防ぐをもって上策となす。
斉彬公の意見書を読むと、私は、現在に至る日中対立の萌芽を見る。日本にとって中国は、西欧列強と対峙するための大事な連合国なのに、中国は決して日本の意見に与しない。
中華思想の本家である中国は、他国を全て夷狄とみなし、自国の後進性を認めない。西欧列強ですら中国には蛮国であるから、まして小さな日本は、彼らから見れば格下の属国の認識しかない。
日本防衛のために中国との連携が必要であり、そうしなくては共に列強の餌食となるというのに、尊大な中国が相手にしない。残された道は武力でねじ伏せ、日本との連合を認めさせるしかない。・・それが斉彬公の結論だった。
つまりこの思想が、日本の指導者たちの根底を流れる危機意識であり、大東亜戦争まで引き継がれたものだと、林氏が言う。
日本は侵略のため中国へ進出したのでなく、防衛のため満州を占領したのだから、敗戦後にマルキストたちが言う、日本帝国主義の侵略戦争であるはずがないと氏は説明する。
まして、アジアを侵略した列強の仲間のアメリカやイギリスなどが、日本を侵略国家というのは片腹痛い話だと言っている。
国際社会は軍事力がモノを言う世界だから、賢明なご先祖たちは、東亜の防衛と発展を理想としつつも、武力の行使も覚悟していた。だから私は、林氏の次の列強批判を、全面的に受け入れ喝采する。
・左翼学者たちが書いた維新史を、読んでいると、私は歴史の壁画館の中で、赤いクレヨンを振り回している、悪童の群れを思い出す。
・悪童どもは、維新の人物と事件をできるだけ醜悪に描き出すことが、真実の探求と心得ているように見える。
・日本に革命を起こすためには、日本の歴史をできるだけ野蛮に、できるだけ醜怪に、不正と愚行と暴行に満ちた無価値無意義なものとして描き出す必要がある。
・彼らは共産革命という政治目的のため、日本の歴史に泥を塗ることが、学問の使命だと思い込んでいるのだ。
氏の著書は、昭和38年に書かれている。53年が経った今日、左翼学者たちによる 「日本史の泥塗り作業 」 は、改まるどころかもっと盛んになっている。彼らは教育界とマスコミ、法曹界に根を張り、野党の中でも我が物顔の活動をしている。
「ねこ庭」から見れば、彼らは皆日本に巣食う「獅子身中の虫」であり、駆除すべき害虫だ。氏の著作を読みますますその感を強くしたが、今夜も夜が更けてきた。私の思いを述べるのは次回に譲り、氏の言葉を紹介しお終いとしよう。
・英国は薩長の内部、仏国は幕府の内部に食い込んでおり、どちらの誘いに乗っても日本は植民地化される。
・西郷も勝もそれを見抜き、徳川慶喜も山内容堂も見抜いていた。彼らはそれぞれの立場から、英仏の謀略に抵抗したのだ。
・岩倉具視と坂本龍馬、勝海舟と西郷隆盛が謀略家であったというのは、少しも彼らの不名誉にはならない。
・英仏の謀略に抵抗するためには、時に彼ら自らが、謀略家にならざるを得なかった。
・明治維新は英仏の謀略と圧力によって成立したのではない。この謀略と圧力に、必死に抵抗したところに成立した。