林房雄氏著『大東亜戦争肯定論』(下) ( 昭和59年刊 三樹書房・やまと文庫 ) を読了。
安政元年にペリーとの間で結ばれた「神奈川条約」と、その4年後にハリスによって改定された「安政条約」について、私たちは中身をどれだけ知っているだろうか。
息子や孫たちのため、屈辱の歴史を氏の言葉で伝えたいと思う。
・不平等条約の撤廃について 、明治維新政府は成立の当初から腐心したが、イギリスを先頭とする欧米列国は頑として日本の要求を認めず、日清・日露の役を経て朝鮮併合を敢行した後に、初めて、日本の改正要求に応じたのである。
・しかも条約の尻っぽとしての、外国人の永代借地権は昭和17年まで残った。
・安政元年の神奈川条約は、ペリーの黒船艦隊の脅迫によって締結された。もとより、日本の利益をまったく無視した不平等条約だった。
・この不平等条約をさらに完全にしたのが、安政五年 ( 1856年 ) の安政条約である。ハリスは、清国と交戦中の英仏東洋艦隊50隻が、幕府を攻めるであろうと脅し、日米修好通商条約という美名のもとに、次のような重要項目を内容とする一方的条約を押し付けた。
1. 開港場に外人居留地 ( 租界 ) をつくること。
2. 日本側に自主権のない関税制度とすること。
3. 治外法権を設けること。( 外国人の犯罪に、日本側の裁判権なし )
・これは日本の領土の一部占領に等しく、極言すれば貿易通商の利益は外国人のみに帰し、裁判では常に外国人が無罪になるという条約だった。
・世界情勢にも国際法にも暗かった幕府の当局者には、これが後に日本の独立と自由と、産業の発展に破壊的影響を与えることに気づかず、アメリカに続いて、オランダ、イギリス、ロシア、フランス、ポルトガル、ドイツ、スエーデン、ベルギー、イタリア、デンマークとも、同じ条約を結んでしまった。
日本史の授業で私は、安政元年に「神奈川条約」がペリーとの間で結ばれた。安政五年 ( 1856年 )の「安政条約」はハリスとの間で締結されたと、その事実だけを教わった。
戦前は学校で、どういう教え方がされていたのか知らないが、私の受けた日本史の授業には、日本人の魂が欠如していた。屈辱の条約の中身を学校では何も教わらず、氏の著書で今回始めて具体的に知った。
〈 外人居留地 ( 租界 )とは・・ 〉
・居留地の整地、道路、水道、兵営、火薬庫、病院など、建設費は全て日本側の負担であり、
・行政権も警察権も外国にあり、無料同様の土地の借地権と所有権は永久の権利だった。
・公園、競馬場も外国人専用であり、日本人の立ち入りが禁止されていた。
・ 新政府は幕府を打倒したが、安政条約は引き継がざるを得なかった。
・横浜のみをとってみても欧米列強の駐留軍は時には万を越え、港は彼らの鋼鉄船によって制圧されていた。
・現在の読者は、これを簡単な問題として考えているかもしれぬが、日本は実に56年間、厳密に言えば、87年間不平等条約の支配下にあった。
氏が87年間というのは、外国人の永代借地権の撤廃がやっと昭和17年にされたことを指している。日本が大東亜戦争に負ける、三年前のことだ。
昭和17年は弱肉強食の国際社会で、欧米列強がアジアを食い荒らしていたと、私たちはこうした現実を肝に銘じなくてならない。その3年後の昭和20年に日本が敗戦国となり、米国から現在の日本国憲法を強要された。
その前文を今日、反日左翼の政党とお花畑の日本人が、素晴らしいと称賛している。「平和憲法を守れ」と叫んでいるが、これを書いたアメリカを筆頭に、当時の列強がどんな国々だったのかをよく知るべしと言いたい。
出来そうもない崇高な言葉を日本にだけ押し付ける資格が、彼らにあったのか。歴史の非情さを、お花畑の日本人たちは自分の頭で考えてはどうなのだろう。
こう思って憲法の前文を読み返すと、屈辱感しか生まれてこない。言行不一致のならず者国家が、敗戦国となった日本にこんな偽善を押しつけたのかと苦々しくなる。
参考のため前文を紹介するが、「お花畑」の日本人でなければ欧米列強の身勝手さを発見するはずだ。
・日本国民は恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する、崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
第一この前文は、正しい日本語になっていない。助詞の使い方が間違っているだけでなく、まるで外国語を翻訳したようなぎこちなさがそのまま残っている。
・われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を、地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。
われらとは誰のことなのか。日本人であるのなら先ずもって、このような文章は書かない。ご先祖の書かれた古い憲法が日本に二つある。聖徳太子の「17ヶ条の憲法」と、明治時代の「五箇条の御誓文」がそれだが、われらがわれらがとみっともない自己主張はどこにも無い。
ご先祖の作られた憲法は、一方の側だけの主張でなく、為政者と国民が共に守るべき規範が語られている。林氏が語る日本の歴史をもとに、先の戦争を振り返れば次のことが分かる。
・「大東亜戦争」は日本の暴走でなく、当時の列強が、アジア諸国を軍靴で踏み荒らしていたところに原因があった。
前文が、戦争に参加した全ての国の憲法に書き込まれるのならまだしも、戦勝国が日本にだけ説教を垂れている高慢さを、どうして認められるだろう。
列強の身勝手さを確認するため、不平等条約の改正に苦労を重ねた明治政府の話に戻る。長くなっても、氏の説明を紹介をしたい。
・明治4年の、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文などを首班とする随員百余名の、全権使節団の欧米派遣は決して、ただの視察旅行ではなかった。
・翌年が安政条約の改定期日であったため、まず米国から始めて、欧米諸国との改正準備交渉をするのが主目的だった。
・だが使節団の希望は、首府ワシントンに到着すると同時に無残に打ち砕かれてしまった。
・グラント大統領も国務長官も、治外法権撤廃や関税自主権には一顧も与えず、返って、米国立案の改正案を押しつけてきた。
・それが実は改悪案に過ぎなかったことを知った使節団は、驚き怒ったが、どうすることもできなかった。
・大久保、伊藤は、留守政府の西郷、副島、江島、大隈、井上などと協議したが、アメリカの案で改定することは、日本のため百年の禍根を残すということで意見が一致した。
・ワシントン滞在約半年の後、使節団は条約の予備交渉を諦め、その目的を欧米文明の視察に切り替えた。イギリスの態度が、アメリカ以上に強硬であることが判明したからである。
学校で習った日本史では、和服姿で革靴を履き日本刀を手にした彼らの写真が載っていた。注釈には、欧米の視察をした明治政府高官と書いてあった。明治の元勲たちが怒りと悔しさに耐えたことや、欧米の傲慢さや比例な扱いなどは教えられなかった。
・一行は各文明国を巡遊し、各国に留学生を残しただけで虚しく帰国した。
・不平等条約改正の道は、ただ富国強兵と文明開化にあるのみという感慨は、使節団全員に共通したものであったに違いない。
息子や孫たちは、よく聞いて欲しい。現在の日本のため、どれだけ苦労をご先祖がして来たか。汗や涙ばかりでなく沢山の命が捧げられている。お前たちが過去の勉強をし、反日の売国奴だけにはなってくれるなと願う。
たとえ美智子様が「A級戦犯」や「戦犯」などと、先の大戦で犠牲となられたご先祖を無慈悲に犯罪者扱いされても、耳を貸してはならない。
あの方は歴史も知らず、ご先祖のご苦労を知らぬまま、今上陛下の伴侶として座しておられるが、反日の徒を支援される方である。
皇室の崩壊がそのまま日本の崩壊につながると、この事実も自分の力で見つけて欲しい。たとえ国の授業でも、著名な学者の意見でも、他人に言われるまま日本の歴史を信じるのでは日本のためにならない。
敗戦後の日本には、「自分の国を悪く考える人間」と「他人の言葉を鵜呑みにする人間」が増え過ぎた。どうか息子や孫たちは、そんな人間にならないで欲しい。