「狂信的、教条的、国民弾圧のマルクシズムも、最初の入り口の一つは、白樺派的人道主義だった、」
マルクス主義に迷い込む道は沢山あり、「白樺派的人道主義」は、そのうちの一つです。自分の経験からすれば、現在の日本にいる「お花畑の住民」の多くは、おそらく「白樺派的人道主義」の立場から反日左翼の道へ誘い込まれたのでないかと考えます。
前置きが長くならないうちに、「池袋児童の村」小学校に勤務していた戸塚氏の説明へ戻り、以下紹介します。
・『池袋児童の村』小学校は、野口援太郎、下中弥三郎、志垣寛、為藤五郎を同人とし、小原国芳、原田実、三浦藤作、赤井米吉、を社友として作られた。
・いずれも当時の大正自由教育の、最高の指導的地位にいた人々である。
当時は有名な人々だったのでしょうが、私は彼らの名前を初めて聞きます。
・自由教育に関する動きを図書出版の面から見れば、野口援太郎が、姫路師範学校の初代校長となった明治34年に、デューイの『学校と社会』が、翻訳されている。
・明治33年にはスエーデンのエレンケイが、有名な『児童の世紀』を出版しており、津田梅子が女子英語塾を創立している。
共産党員になっていましたが戸塚氏の主眼は、子供たちへ自由と愛に満ちた教育を与えたいという、博愛精神でした。
野口援太郎、下中弥三郎、志垣寛、為藤五郎等の、自由教育の指導者たちが、
『芦屋児童の村』小学校、
『雲雀ヶ丘児童の村』小学校、
『東京児童の村』小学校と、試行錯誤しながら創設・運営する姿を解説しています。
教師たちが「教え子を戦場へ送るな」と、懸命に訴えていますが、その主張が、結局は教え子の住む大切な国の破滅につながるという、今日の日教組の矛盾の源流がここにあるのかと、尽きない興味が生まれます。
『池袋児童の村』小学校を創立する以前、姫路師範学校の校長だった野口援太郎が、どのような教育構想を持っていたのか、氏が説明しています。14項目ありますが、その内の7項目を紹介します。
1. 生徒は、決められた時間割通りに、教室に出席する義務はない。
2. 教員も、時間通りに、教室で決まった講義をする必要はない。
3. 生徒は行きたい教室に行き、自分で研究し、その教室の教師の指導を受ければよい。
4. 学校は、各学科所属の図書室をできるだけ整備し、生徒の参考にする。
5. 学校は、機械や標本を整え、生徒の実験実技に供する。簡単な制限のもとに、自由に取り出して使わせる。
6. 教師は自己の研究方法や参考書を説明し、各生徒の研究状況を見てその適否を注意し、質問に対して指導する。
7. 各教科とも、研究過程をいくつかに分け、一つの段階の研究が理解できたら、教師に判定してもらう。
教師は生徒の自主性を尊重し、手助けをする立場に徹しています。こうした構想は、児童の村創立当初の教育に取り入れられたそうですが、全てが野放しの自由だった訳ではありませんでした。
・野口の師範学校では兵営流でなく、家族的な寄宿舎、英国流の紳士を作る寄宿舎を考えていた。
・心身の鍛錬も重視し、苦しい作業、水泳、六甲山登山競走がカリキュラムに組まれ、生徒だけでなく教職員全員でやったという。」
野口氏の次に説明しているのが、下中弥三郎氏です。
・下中の思想の根底を貫くものは、民衆本意の教育であろう。小学校3年しか行けなかった彼は、身に染みて貧しい者、労働する者の立場に立つ。
・呪うべきは資本主義であり、国民を死と苦痛に叩き込み少数の億万長者を作り出す戦争である。
・この矛盾に目覚めた、大正デモクラシーの中の民衆に着目し、その組織化により生活権としての学習権を戦い取ろうと主張する。
・教育は国民の義務でなく、権利であると、最初に唱えたのは下中である。
ところが戦争が近づき時局が緊迫化するにつれ、下中氏は、次第に農本主義 → 大アジア主義 → ファシズムに傾き、ついには太平洋戦争の精神面での指導者になります。
明治・大正期の自由教育の開拓者たちが、このように変転した理由を、氏は「社会科学研究の力が弱く、深い社会認識に達していなかった」と、分析します。転向者について述べるとき、マルキストたちは、昔も今もこのようにして突き放します。
しかし最も注目したのは、次の意見でした。
・下中の思想に現れた民衆の立場、労働者としての教員の団結、平和主義などは、決して戦後アメリカに押しつけられたものでなく、国際的な自由思想に学び、日本の現実の中から生み出されたものである。
・戦後の、恵まれた政治条件の中で展開されている現代の教育運動と比べ、段違いの苦難の中で創造されたものと言うことができよう。
氏の意見を読みますと、反日左翼教職員組合はGHQが作った遺産 ( トロイの木馬 ) というより、明治以来日本で育ち、苦労した先駆者たちの産物でもあったと言っています。左翼には左翼なりの、歴史があると言うことでしょう。
こうなりますと、私の考えも少しばかり修正したくなります。
・悪法・日本国憲法」「反日左翼学者」「反日左翼マスコミ」は、GHQが戦後に作った「トロイの木馬」ではなかった
・明治の文明開花以来、欧米に追いつけ追い越せと、ご先祖たちが頑張りましたが、左翼思想も同時に取り入れていた
左翼思想は皇室を否定する思想ですから、当然政府が危険視し弾圧します。蹴散らされ、押さえ込まれていたものを、GHQが再び解放した。それが「トロイの木馬」だったと、この視点が正しいのかと思えてきましたが、それはそれで厄介な話になります。
現在、28ページです。今年は丑年ですから、慌てず、焦らず、本と向き合おうと思います。一息入れて次回を続けますが、年明け早々面白くない本の紹介ですから、「ねこ庭」を訪問される方がいなくなる覚悟をしました。