「 ( 逆 ) 転向とは、日本人の体質を無意識的に支配しているナショナリズムへの回帰だと思う。」
久野氏以外に、これほどまっすぐに、核心をついた意見をいう学者に出会ったことがありません。「ナショナリズム」という左翼用語を、「自分の住んでいる国を大切にする心」、或いは「愛国心」と言い換えれば、そのまま田中英道氏の意見です。
・大正9年から昭和5年にかけて、初期の共産主義への転向の仕方が、のちに過激ナショナリズムへの逆転向を生み出す深い素地を持っていたと思うんです。
・当時の左翼への転向と、のちの左翼からの逆転向とは表裏であって、最初の転向が大変急ぎ足で過激化した結果、今度は左翼からナショナリズムへの逆転向が、急足で、過激化したと言えるでしょう。
息子たちに分かりやすく言い換えますと、次のようになります。
「自分たちの中にご先祖さまのDNAがあることを検証せず、初期の共産主義への転向があまりに単純で過激だったから、逆転向も、過激な『先祖返り』になる。
従って、次のような言い訳になります。
・客観的状況の急迫が革命を生む、状況が革命を必然にする。( 状況がまだないのに ) 状況に遅れてはならないという、状況信仰が強かった。
この良い例が、かってのクオリティー・ペーパーで、現在はトイレット・ペーパーに成り下がった朝日新聞です。戦前の同社は「皇軍の聖戦」「鬼畜米英」「万邦無比のわが国体」と、国民の先頭に立ち、戦意高揚の進軍ラッパを吹き鳴らしたのに、敗戦と同時に転向しました。
深い検討もせず時の権力だったGHQに迎合し、極端な転向をしたのは、「状況に遅れてはならないという、状況信仰が強かった。」と、氏の分析を応用するとこうなります。
ですから状況信仰で動いている同社は、状況が変われば過激な逆転向をするという預言になります。敗戦後の同社の転向は、「バスに乗り遅れるな」という状況信仰に過ぎないと、まさに本質的な分析という気がします。
「ねこ庭」では氏の意見を、愚かなマルキストの詭弁として受け止めますが、氏はそう考えていません。自分以外のレベルの低いマルキストたちへの訓戒と、得意になり自己検証に繋いでいません。つまりこれが私のいう、「バカと天才は紙一重」の意味です。
・家族、会社、学校、国家といった集団のエゴイズム、それへの帰属意識の深さ、すなわち集団エゴイズムへの、忠誠感情の深さこそ、近代日本をこれだけに仕立て上げた原理で、重なり合うエゴイズムを最終的に統一つするエゴイズムこそ、明治以来の国家主義であり、天皇信仰はその頂点への忠誠の表現であった。
頑迷固陋な反日左翼らしく分析をしても素直に語れず、「エゴイズム」という余計な言葉を入れます。家族愛、会社愛、学校、国家への愛を、「エゴイズム」という卑しい言葉でしか語れないところに左翼学者の限界があります。
愛の中に「エゴイズム 」が混じるとしても、小さな比重しかなく、日本人の大半はこの「愛」のため、自分の命を捧げて悔いませんでした。
・客観的状況の急迫が革命を生む、状況が革命を必然にする。状況に遅れてはならないという、状況信仰が強かった。
客観的状況がなかったにも関わらず、「状況に遅れてはならない」という状況信仰が左翼主義者の過激な転向を生むと、左翼学者に関する氏の意見は傾注に値する卓見です。
しかし「紙一重の天才」である氏は、結局馬鹿な詭弁を述べます。
・戦争に協力した左翼インテリゲンチャたちは、負けると思わず踊ったのでないかと戦後の研究者たちが批判するけれど、実はそうじゃない。
・たとえば僕たちのように戦争の敗北を前もって認識していた人々が、尾崎秀実をはじめ、かなりいた。
・彼らの中にも、日本の負けを予想していた連中がいたのではないか。しかし彼らは、日本が負ける場合でも日本のために努力しよう、日本の国民と一緒にいくところまで行こうと、考えていたのではないか。
・われわれのうちにある日本が、勝つか負けるかの境目に来ているのだから、万一負ける場合でも、この国家主義に忠誠を捧げる国民とともに、運命をともにしようと考えていた。
氏の意見が正しいのであれば、反日左翼の学者たちは、なぜ自分の反省を棚に上げ、戦前の政府と国民を悪様に批判攻撃するのでしょう。恥を知らない氏の詭弁には、卑しい学者根性が透けて見えます。
・この日本への帰属意識と忠誠心に比べると、自分が信じ込んでいた自由主義の世界意識や、マルクス主義のインターナショナリズムは、底の浅い、着たり脱いだりできる洋服に過ぎなかったと自覚したのではないか。
・そうした心情が、僕は、小、中学校の教師の末端までを支えていたと思うのです。
祖国滅亡の瀬戸際に立った時愛国者に変わった小、中学校の教師のたちは、転向したのでなく「先祖返り」をしたのだと氏が言います。「先祖返り」とは、マルクス主義のように「着たり脱いだりする洋服」とは違います。ご先祖様から受け継いだDNAへ戻るというのですから、この瞬間にマルクス主義は消えて無くなるのです。
著名な学者だとしても、「先祖返り」の言葉の意味を正しく使わない限り、氏は国民に軽蔑されるしかありません。
・戦後になっても逆転向に現れた日本的体質の問題は、本当に検討されていないし、その根っこにあるナショナルエゴイズムの問題も当然解決されていない。
氏の指摘は戦後の日本にとって、左翼・保守を超えた国民的課題ですが、喋っている当人が「先祖返り」の意味を正しく理解していないのでは話になりません。
反日左翼の学者だけでなく頑迷な保守の学者が、「先祖返り」の意味を本当に検討すればどれだけ日本にとって有益だったかと、残念でなりません。
朝日新聞やNHK、共同通信社といった反日マスコミが、国論を二分する報道をし続けている現在、日本の学者たちが「日本的体質の問題 ( 先祖返り ) 」を、侃侃諤諤やれば出てくる結論は決まっています。
「日本への愛に比べると、自分が信じ込んでいた自由主義の世界観や、マルクス主義のインターナショナリズムは、底の浅い、着たり脱いだりできる、洋服に過ぎなかった。」
頑迷な左翼学者の氏は、こんな結論は述べません。その代わり、未練がましく面白いことを言います。
「右翼の思想を本当に貫いていけば、新しい左翼の思想がそこから生まれてくるというパラドックスもある。」
年金生活者で、物忘れをするようになった後期高齢者ですが、私は氏と逆の思考をしています。氏はこの世にいませんので、やがて行くあの世で、次の言葉を手渡そうと思います。
「左翼の思想を貫いていけば、昔からの保守の思想がそこで再発見されるというパラドックスがある。」
氏の証言はまだ続きますが、「バカと紙一重の天才」を息子たちに伝えるには、これで十分です。氏の紹介を今回で終わり、次回はさとみみのる氏です。