大学教授や学者でなく、今回は普通の人物の証言を紹介します。普通の人ですから略歴も簡単で、証言も3ページしかありません
《 6. 伊藤静夫氏・・ 「 陛下のために死ぬ教育 」》
「昭和11年岩手県出身、 84才」「小学校教諭」・・著名人でないためネットで探せず、巻末の備考にこれだけ書かれていました。
氏は私と同じ満州の生まれで、略歴が「岩手県生まれ」でなく、「岩手県出身」となっているのは、そういう意味だそうです。
私の生年月日は、戸籍上は昭和19年1月1日になっていますが、正しくは昭和18年12月9日です。どうして、1月1日になったかについて、何年か前にブログで説明しました。どうでも良いことなので、戦時中の寓話の一つとして追加しておくことにします。
「12月8日」は、反日左翼には悪名高い「真珠湾攻撃の日」です。今そんなことを言う人は誰もいませんが、戦前は「戦勝記念日」と呼ばれる目出たい祝日だったそうです。
「昭和18年12月8日」が私の産れる予定日だったので、郷里の祖父は心待ちにしていたそうです。父が長男でしたから、無事生まれれば私は長男の長男になります。今は長男に特別の意味がなくなりましたが、昔の長男は家督相続の第一人者で、大事にされたと聞きます。
ところが私は、「戦勝記念日」の1日遅れの12月9日に生まれました。がっかりした祖父は、その次に目出たい日を探し、日本全国民が祝う1月1日に決めたとそんなふうに聞きました。
嘘のような本当の話ですが、昔の人はいい加減だったのか、おおらかだったのか、これが私の誕生日です。そのせいか、今も私にはいい加減なような、大らかなような、自分でも分からない部分があります。
ちなみに戸籍謄本の記載を確認しますと、私の出生届を受け付け、日本へ送付したのは満洲国特命全権大使だった梅津美治郎陸軍大将です。なんともいかめしい、歴史的記録です。
・私は昭和11年1月13日、満州国三江省で生まれた。この年日本では、あの有名な『2・26事件』のおこされた年である。
これが、伊藤氏の証言の書き出しです。この人も私のように、歴史上の大事件と、自分の誕生年を結びつけています。
同じ満州生まれというだけでなく、信念のない軽さまで似ているので、親しみと共に腹立たしさを覚えます。氏は周囲の状況が変化すると、疑わず自分も一変するという、典型的な「お花畑の住民」です。
反日左翼を親の仇のように嫌悪している私ですが、5、6年前まで、40年以上朝日新聞の定期購読者だったので、氏に似た軽薄さを引きずっています。そのせいもあり、代表として氏の証言が紹介したくなりました。
・このような年に生まれた私は、いっそう自分を、戦争と切り離して考えられない人間となった。
・私は、国民学校の教育を4年も受けたし、その後1年2ヶ月ではあったが、敗戦のため、引き揚げ生活を体験させられたからである。
このように前置きし、国民学校時代の忘れられない思い出を7つ上げます。
1. 儀式や朝礼のたび、真っ白な手袋をはめた校長が最敬礼をして読んだ「教育勅語」のこと
2. 歴代天皇の名前を、「神武、綏靖、安寧、懿徳・・・」と丸暗記させられたこと
3. 寄宿舎で就寝前に正座させられ、「軍人勅諭」を先輩たちに暗唱させられたこと
4. 体育の時間に、零下20度を越す寒さの中で、裸足でさせられた総攻撃の戦いのこと
5. 運動会で、「鬼畜米英をやっつけろ」の合図で、ルーズベルトやチャーチルの顔をつけた藁人形を、竹槍で突いたこと
6. 音楽の時間では、軍歌ばかり歌っていたこと
7. 何かのことで担任の先生からピンタをくらい、左右に体が倒れそうになっても、不道の姿勢を取らされたこと
・そして私自身、大きくなったら立派な強い兵隊になって、天皇陛下のため、国のために死ぬ ! と、本気で考えていたのである。
・以上思いつくまま当時の様子を述べたが、あらゆる場と機会を捉え、徹底した軍国主義教育がなされていたことに、今更ながら驚くばかりです。
敗戦後になって氏はこのように考えましたが、国民学校時代にはそう思っていません。楽しい思い出でなかったとしても、日本が敗戦していなかったら氏は軍国少年のままだったはずです。
・しかし敗戦という大きな歴史の転換の中で、『絶対日本が勝つ』『神風が吹く』『天皇と国のため死ぬ』ということは、完全に打ち砕かれてしまった。
・いったい私にとって、国民学校とはなんだったのか ?
氏は自問自答し、最後の言葉として次のように締めくくります。なんと氏は愚かな教師かと、呆れるしかない軽薄さです。
・私は今、岩手県北の僻地校に勤務しているが、富も名誉も捨てただ一筋に、『日本国憲法』と『教育基本法』をもとに、
・『教え子を再び戦場へ送らない』、『誰にも引き揚げ生活を、体験させたくない』を念頭に置き、何よりも命を大事にして、心から平和を願いながら、子供たちを育てていきたいと北上山地で生きている。
氏のように、敗戦のショックで愛国から反日へと、大きく振れた日本人が無数にいました。当時の普通の日本人だったのかもしれませんが、問題なのは、氏が教師だったことです。無節操な教師に育てられる生徒の不幸が、目に浮かびます。
軽薄な氏の証言を恥じることなく収録した、「教育証言の会」の編者たちも、似たような人間だったのでしょうか。私が編集者だったら、このような証言はみっともなくて採用しません。「教育証言の会」の編者たちの薄っぺらさが、推し量られます。
「戦中編」を今回で終わり、次回は「戦後編」へ進みます。