2月は、私にとって「人生の一区切り」というべきことが、重なりました。江畑氏の著作のおかげで気が紛れていますが、ふと我に返る時、切ないものが胸をよぎります。
・免許返納 ・愛車の引き渡し ・愛猫の埋葬 ・モデルナ・ワクチン接種
他の人には何でもない話ですが、私と家内には、大きな出来事です。60才で定年となった時、初めて車を買いました。免許は学生時代にとっていましたが、必要がないので、ずっとペーパードライバーでした。
車がなくても私たち夫婦は、二台の自転車で買い物に出かけ、何の不自由も感じていませんでした。まだ小学生だった子供たちは、自分の家に車がないので、「僕のうちは貧乏なんだ。」と、思っていたようです。貧乏は間違いない事実でしたが、子宝に恵まれた私たち夫婦は、そんなことは何とも思わず、楽しく過ごしていました。
車は、岐阜県に住む三男が選んでくれました。貧乏な私にも買える手頃な車で、しかも性能がいいと推奨してくれました。ホンダのFITでした。免許を持っていても、まだ運転に自信がないので、ディラーまで買いに出かける時は、次男が一緒でした。運転に自信をつけるため、自動車学校へ通い、土日には付近を走り、練習をしました。
今年78才ですから、18年間同じ車に乗ったことになります。ディラーの担当者が引き取りに来る前の日に、近所のガソリンスタンドで、最後の洗車をしました、自宅へ戻り、磨き上げた車の中でハンドルを握ると、たくさんの思い出が浮かびました。
益子の焼き物市へ出かけたこと、九十九里の浜で泊まったこと、千葉の小京都と言われる佐原の街を訪ねたこと・・・。茨城県に住む長男が遊びに来た時は、帰りは夫婦で送りました。富士山と筑波山を遠景に見ながら、利根川を渡り、取手の町で蕎麦を食べました。
孫を乗せ、孫と遊び・・何もものを言いませんが、車はいつも私のそばにいて、たくさん働いてくれました。人間でなくても、家族と同じ気持ちになるのだと知りました。引き取りに来たディラーの担当者が、車の窓から手を振り、頭を下げ、走り出した時、家内が家から飛び出してきました。
コロナの感染を恐れ、会わないと言っていたのに、手を振っていました。
「涙が出たよ。」
照れ隠し笑いをしていましたが、私の目にも浮かんでいました。ガランとした駐車場が、息子たちと別れた時のように、寂しさを覚えさせました。
警察署に免許証を返納する時、便利な車がありませんので、モノレールと電車とバスを乗り継ぎ、ステッキをついて出かけました。交通課の窓口で1,100円支払い、「運転経歴証明書」を申し込みました。さらに900円を払うと、郵送してもらえるので、それも頼みました。これからは「免許証」の代わりに、これが私の身分証明書になります。
モノレールと電車はまだ良いとして、バスは一時間に2本しかなく、とても不便になりました。郵便局、銀行、スーパー、駅など、車ならいつでも行けましたが、これからはそういきません。長距離が歩けなくなり、若い時のように徒歩も難しくなりましたが、まだ78才です。100まで生きる予定ですから、泣き言は禁物・・車なしの暮らしに順応しなくてなりません。
愛猫は今から18年前の、平成26年に亡くなりましたが、骨壷を2階の窓際の台に飾ったままにしていました。いつか「ねこ庭」のどこかに埋めてやろうと、家内と決めていましたが、何となく今月を迎えました。2月1日の午後、思い切って庭の隅を掘り、壺から骨だけを取り出し、ハンカチに包んで埋めました。
小さな頭蓋骨や、手足の骨がまだ形を残していました。土に戻してやれば、何年かしたらみんな消えてしまうのでしょう。埋めた後の土に、小さな猫の置物を載せました。
私の家には墓がありません。子供たちもバラバラに暮らしていますから、墓地を買うことはしませんでした。先祖代々暮らしていた土地があるとするなら、それは熊本の田舎ですが、そこにはもう誰もいません。転勤を繰り返してきた私たちですから、子供たちには、故郷と呼べる土地がありません。今住んでいる千葉も子供たちには、一時的に住んでいた土地でしかありません。無縁な土地に墓を買っても、思い出のない土地の墓は、やがて無縁墓になります。
思い出の地の熊本のお寺にお願いし、父の遺骨は、共同墓地で永代供養にしてもらいました。母が亡くなったら、長男である私が、父の元へ母の遺骨を届けるつもりです。私と家内の遺骨は、懐かしい瀬戸内の海か、千葉の沖にでも散骨してくれるように、長男に頼んでいます。海を汚さないように、適量の骨を、散骨できるようにしてくれる業者があると、聞いています。私と妻は、日本の海に戻り、やがて消えます。
愛猫の小さな骨を埋めながら、自分たちのことも考えました。
しかし生きている限り、他人様に迷惑をかけないため、元気でいなくてなりません。「武漢コロナ」と、その変異株に負けておれません。だから12日の土曜日、集団接種会場で、オミクロンワクチンを接種してきました。後遺症がひどいと聞いていましたが、一日経過しても私は平常通りです。元気な体をくれた両親と、ご先祖さまに感謝しています。
令和4年の2月は、たくさん思い出の詰まる「人生の一区切り」になりました。