ソ連崩壊後のベトナムの動きを、江畑氏の本から抜粋し、箇条書きにします。
・米国との関係改善に乗り出し、ベトナム戦争中の、行方不明米軍兵士の捜索に協力している。( 経費は米国負担 )
・ベトナム自身も、30万人以上の行方不明兵士を出したままになっているが、それでも米国に協力せざるを得ない。
・努力が功を奏したのか、米国はクリントン政権になり、態度を大きく軟化させた。
・IMFのベトナム支援を、黙認する政策を取り始めた。
・1993 ( 平成5 ) 年、米政府がベトナムへの禁輸措置解除に向け、動いていると伝えられた。( 早ければ、平成5年の4月ごろか。 )
一方で、長年の敵対国である中国への動きもあります。
・1991 ( 平成3 ) 年、ベトナムのムオイ書記長とキエト首相が北京を訪問し、江沢民総書記、李鵬首相らと首脳会談を行い、両国関係の完全正常化を宣言した。
・1993 ( 平成5 ) 年、レ・ドク・アイン大統領が国家元首として、初めて訪問し、経済協力と領土問題につき会談した。
・同年11月、中国人民解放軍の干永波政治部主任が、ベトナムを公式訪問した。
中でも、アメリカの態度を軟化させた最大の要因は、「カムラン湾のロシア軍通信傍受施設」の縮小だったそうです。詳しく説明されていますので、紹介します。
通信傍受施設は、通信傍受人工衛星のない時代、米ソが相手国の情報を得るための、極めて重要な施設だったといいます。日本にも、米軍による巨大な通信傍受施設が二つありましたので、関心を抱きました。
・ 沖縄県楚辺通信所( 平成19年撤去 )
・ 青森県姉沼通信所( 令和4年現在解体計画検討中 )・・三沢飛行場
通称「象の檻」と呼ばれる、三沢の施設を管理しているのは、在日米軍ではありません。米国メリーランド州にある、 NSA ( National Security Agency : 国家安全保障局 ) の指揮下にあるのだそうです。
日本のことは氏の著書にありませんが、参考のため調べてみました。本を読まなければ、無関心のままでしたが、アメリカにとっては今も重要な施設であるようです。大事なのは日本との比較なので、このことを頭に入れながら、先へ進みます。
「カムラン湾駐留のロシア軍の縮小は、ベトナムの努力によるものでないとしても、」「両国の関係が、かってほど緊密でないことは、」「ベトナムが外部勢力による前進基地として、機能する危険性が非常に少なくなったと解釈された。」
「しかしロシアが、カムラン湾を手放す様子も、まだみられない。」
なぜそうなのかについて、氏の説明を読み、歴史的事実に意外感を覚えました。
「カムラン湾は、日露戦争中極東に回航されたロシアのバルチック艦隊が、」「最後に寄港した場所であることからわかるように、アジア有数の、」「天然の、優れた泊地である。」「投資さえすれば短時間で、立派な貿易港になる特質を備えている。」
ここで氏が、興味深い事実を説明していますので、箇条書きで紹介します。
・1992 ( 平成4 ) 年1月、訪問したタイのスチンダ軍最高司令官に対し、カムラン湾視察の要請を、次回に受け入れる意向を示唆した。
・ベトナムが同湾を、石油開発や貿易の拠点とする意図を持っていると、解釈された。
・同年2月、ベトナム外務省が次のように述べた。
「カムラン湾はベトナムの港湾であり、旧ソ連海軍は両国間の協定に基づいて、補給その他の便宜を受けてきた。」
「その将来は、ロシア等独立国家共同体との協議に委ねられるが、」「我が国の優先課題は、経済発展であり、」「同湾は、その方向で活用される。」
・しかし同年5月、ロシア外務省が、カムラン湾の自由貿易港構想を打ち出し、使用権がなおロシアにあることを、印象付けている。
・ベトナムに対する旧ソ連の債務問題が絡み、ロシアはカムラン湾を、一種のカタにとっているものと推測される。
日本の三沢にある米軍の通信施設と、カムラン湾のものがどう違っているのか、よく知りませんが、まずは氏の詳しい説明を紹介します。スペースの都合で、本日はここで一区切りとしますので、関心のある方は、次回までお待ちください。