ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『大東亜戦争肯定論』 (下) - 1 ( 不平等条約改正 )

2016-11-16 19:10:22 | 徒然の記

 林房雄氏著『大東亜戦争肯定論』(下) ( 昭和59年刊 三樹書房・やまと文庫 ) を読了。

 安政元年にペリーとの間で結ばれた「神奈川条約」と、その4年後にハリスによって改定された「安政条約」について、私たちは中身をどれだけ知っているだろうか。

 息子や孫たちのため、屈辱の歴史を氏の言葉で伝えたいと思う。

  ・不平等条約の撤廃について 、明治維新政府は成立の当初から腐心したが、イギリスを先頭とする欧米列国は頑として日本の要求を認めず、日清・日露の役を経て朝鮮併合を敢行した後に、初めて、日本の改正要求に応じたのである。

  ・しかも条約の尻っぽとしての、外国人の永代借地権は昭和17年まで残った。

  ・安政元年の神奈川条約は、ペリーの黒船艦隊の脅迫によって締結された。もとより、日本の利益をまったく無視した不平等条約だった。

  ・この不平等条約をさらに完全にしたのが、安政五年 ( 1856年 ) の安政条約である。ハリスは、清国と交戦中の英仏東洋艦隊50隻が、幕府を攻めるであろうと脅し、日米修好通商条約という美名のもとに、次のような重要項目を内容とする一方的条約を押し付けた。

        1. 開港場に外人居留地 ( 租界 ) をつくること。 

     2. 日本側に自主権のない関税制度とすること。

           3.  治外法権を設けること。( 外国人の犯罪に、日本側の裁判権なし )

 ・これは日本の領土の一部占領に等しく、極言すれば貿易通商の利益は外国人のみに帰し、裁判では常に外国人が無罪になるという条約だった。

 ・世界情勢にも国際法にも暗かった幕府の当局者には、これが後に日本の独立と自由と、産業の発展に破壊的影響を与えることに気づかず、アメリカに続いて、オランダ、イギリス、ロシア、フランス、ポルトガル、ドイツ、スエーデン、ベルギー、イタリア、デンマークとも、同じ条約を結んでしまった。

 日本史の授業で私は、安政元年に「神奈川条約」がペリーとの間で結ばれた。安政五年 ( 1856年 )の「安政条約」はハリスとの間で締結されたと、その事実だけを教わった。

 戦前は学校で、どういう教え方がされていたのか知らないが、私の受けた日本史の授業には、日本人の魂が欠如していた。屈辱の条約の中身を学校では何も教わらず、氏の著書で今回始めて具体的に知った。

  〈 外人居留地 ( 租界 )とは・・ 〉

   ・居留地の整地、道路、水道、兵営、火薬庫、病院など、建設費は全て日本側の負担であり、

   ・行政権も警察権も外国にあり、無料同様の土地の借地権と所有権は永久の権利だった。

   ・公園、競馬場も外国人専用であり、日本人の立ち入りが禁止されていた。

 ・ 新政府は幕府を打倒したが、安政条約は引き継がざるを得なかった。

 ・横浜のみをとってみても欧米列強の駐留軍は時には万を越え、港は彼らの鋼鉄船によって制圧されていた。

 ・現在の読者は、これを簡単な問題として考えているかもしれぬが、日本は実に56年間、厳密に言えば、87年間不平等条約の支配下にあった。

  氏が87年間というのは、外国人の永代借地権の撤廃がやっと昭和17年にされたことを指している。日本が大東亜戦争に負ける、三年前のことだ。

 昭和17年は弱肉強食の国際社会で、欧米列強がアジアを食い荒らしていたと、私たちはこうした現実を肝に銘じなくてならない。その3年後の昭和20年に日本が敗戦国となり、米国から現在の日本国憲法を強要された。

  その前文を今日、反日左翼の政党とお花畑の日本人が、素晴らしいと称賛している。「平和憲法を守れ」と叫んでいるが、これを書いたアメリカを筆頭に、当時の列強がどんな国々だったのかをよく知るべしと言いたい。

 出来そうもない崇高な言葉を日本にだけ押し付ける資格が、彼らにあったのか。歴史の非情さを、お花畑の日本人たちは自分の頭で考えてはどうなのだろう。

 こう思って憲法の前文を読み返すと、屈辱感しか生まれてこない。言行不一致のならず者国家が、敗戦国となった日本にこんな偽善を押しつけたのかと苦々しくなる。

 参考のため前文を紹介するが、「お花畑」の日本人でなければ欧米列強の身勝手さを発見するはずだ。

  ・日本国民は恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する、崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

 第一この前文は、正しい日本語になっていない。助詞の使い方が間違っているだけでなく、まるで外国語を翻訳したようなぎこちなさがそのまま残っている。

  ・われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を、地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。

 われらとは誰のことなのか。日本人であるのなら先ずもって、このような文章は書かない。ご先祖の書かれた古い憲法が日本に二つある。聖徳太子の「17ヶ条の憲法」と、明治時代の「五箇条の御誓文」がそれだが、われらがわれらがとみっともない自己主張はどこにも無い。

 ご先祖の作られた憲法は、一方の側だけの主張でなく、為政者と国民が共に守るべき規範が語られている。林氏が語る日本の歴史をもとに、先の戦争を振り返れば次のことが分かる。

  ・「大東亜戦争」は日本の暴走でなく、当時の列強が、アジア諸国を軍靴で踏み荒らしていたところに原因があった。

 前文が、戦争に参加した全ての国の憲法に書き込まれるのならまだしも、戦勝国が日本にだけ説教を垂れている高慢さを、どうして認められるだろう。

 列強の身勝手さを確認するため、不平等条約の改正に苦労を重ねた明治政府の話に戻る。長くなっても、氏の説明を紹介をしたい。

  ・明治4年の、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文などを首班とする随員百余名の、全権使節団の欧米派遣は決して、ただの視察旅行ではなかった。

  ・翌年が安政条約の改定期日であったため、まず米国から始めて、欧米諸国との改正準備交渉をするのが主目的だった。 

  ・だが使節団の希望は、首府ワシントンに到着すると同時に無残に打ち砕かれてしまった。

  ・グラント大統領も国務長官も、治外法権撤廃や関税自主権には一顧も与えず、返って、米国立案の改正案を押しつけてきた。

  ・それが実は改悪案に過ぎなかったことを知った使節団は、驚き怒ったが、どうすることもできなかった。

  ・大久保、伊藤は、留守政府の西郷、副島、江島、大隈、井上などと協議したが、アメリカの案で改定することは、日本のため百年の禍根を残すということで意見が一致した。

  ・ワシントン滞在約半年の後、使節団は条約の予備交渉を諦め、その目的を欧米文明の視察に切り替えた。イギリスの態度が、アメリカ以上に強硬であることが判明したからである。

 学校で習った日本史では、和服姿で革靴を履き日本刀を手にした彼らの写真が載っていた。注釈には、欧米の視察をした明治政府高官と書いてあった。明治の元勲たちが怒りと悔しさに耐えたことや、欧米の傲慢さや比例な扱いなどは教えられなかった。

  ・一行は各文明国を巡遊し、各国に留学生を残しただけで虚しく帰国した。

  ・不平等条約改正の道は、ただ富国強兵と文明開化にあるのみという感慨は、使節団全員に共通したものであったに違いない。

 息子や孫たちは、よく聞いて欲しい。現在の日本のため、どれだけ苦労をご先祖がして来たか。汗や涙ばかりでなく沢山の命が捧げられている。お前たちが過去の勉強をし、反日の売国奴だけにはなってくれるなと願う。

 たとえ美智子様が「A級戦犯」や「戦犯」などと、先の大戦で犠牲となられたご先祖を無慈悲に犯罪者扱いされても、耳を貸してはならない。

 あの方は歴史も知らず、ご先祖のご苦労を知らぬまま、今上陛下の伴侶として座しておられるが、反日の徒を支援される方である。

 皇室の崩壊がそのまま日本の崩壊につながると、この事実も自分の力で見つけて欲しい。たとえ国の授業でも、著名な学者の意見でも、他人に言われるまま日本の歴史を信じるのでは日本のためにならない。

 敗戦後の日本には、「自分の国を悪く考える人間」と「他人の言葉を鵜呑みにする人間」が増え過ぎた。どうか息子や孫たちは、そんな人間にならないで欲しい。

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トランプ氏の当選と日本

2016-11-14 12:56:45 | 徒然の記

 トランプ氏が当選したからと、大慌てしている人間がいる。

しかし私は、彼が当選したことは、日本にとって好機到来と考える。彼は日本が米軍に頼りすぎていると非難し、自分の国は自分で守れと主張している。米軍の駐留経費をもっと負担すべきとも、言っている。

 昨日の動画で、西部邁氏の話を聞いていたら、日本は米軍の駐留経費の65%を負担しているという話だった。金額がわからないので、ネットで調べてみた。昨年(平成27)の数字だが、それによると日本の負担額は1,899億円だ。逆算すると、米軍経費の総額はおよそ2,900億円となる。西部氏は米軍の人数が沖縄に二万人、本土に四万人と言ったが、ネットでは沖縄も本土も二万人ずつで、合計四万人となっていた。(私は大雑把なので、細かな数字の誤差は気にしない)

 ネットの説明によると、韓国や他の国と比較し、こんなに米軍費用負担をしているのは日本くらいのもので、気前の良い金持ちと言われてもいるらしい。そうなれば、話はいっそう都合がいい。トランプ氏はそんなことを承知の上で喋っているのか、知らないで元気の良いことを言っているのか。どちらにしても日本政府には、ありがたい話だ。

 安倍総理は間髪を入れず、トランプ氏に言うべきだ。「米軍経費について、日本は他国に比べて多額を負担している。これ以上というのなら、日本は日本の軍備を増強することに力を入れたい。」「貴殿の言われる通り、自分の国は自分で守ることが筋であるから、これから日本はその方向で進む。」「米軍の駐留も、将来的にはゼロにしよう。」

 「今後とも日本は米軍とともに、更に強力にアジアの安全に寄与する決意だ。」「そのためには、自衛隊の足かせとなっている憲法も改正する。どうか、アメリカは邪魔をしないようにしてもらいたい。」「現在の憲法のままでは、軍備を充実させても、安保条約をさらに深化させることにつながらない。」

 アメリカの国益を第一とし、世界の警察にならないと宣言したトランプ氏なら、日本の意見の妥当性も理解するはずだ。同時に、米軍が撤退しそのままにしておけば、中国や北朝鮮が黙っているはずがないことも、国民の多くは分っている。フィリピンに力の空白が出来た時、中国は己の国益を前面に押し出し、他国領域の岩礁を埋め立て、軍事基地を作ってしまった。

 「中国が侵略して来るなんて、そんなことは妄想ですよ。」テレビの討論で、鳥越俊太郎氏が岡本氏に噛みついていたが、彼こそが「日本の代表的お花畑の住民」であり、反日売国の徒と、誰もが知っていたから、都知事選で惨敗した。

 トランプ氏の当選は、日本にとって好機であり、自民党が本当に日本を守る保守政党なら、この好機を逃してはなるまい。一強と言われる総理が、任期を延長し、長期政権となりそうな現在こそが、日本独立のチャンスだ。オバマ氏への義理立てから、TPPを無理やり採決に持ち込んだり、韓国に大金をつぎ込んだり、時として訳のわからないことをする総理だが、「戦後レジュームからの脱却」という大方針だけは貫いてほしい。

 かって私は少年だった頃、岸首相が安保改定を強行した時、全学連が国会を取り巻き、反日マスコミが大合唱するので、とんでもない総理大臣だと彼を憎んだが、年を取って知識を得てみると、事態はまったく逆だった。「とんでもない岸総理」だったのでなく、「勇気のある立派な総理大臣」だった。

 今回だって、シールズのような知識も何もない、共産党の手先の学生たちが騒いでも、マスコミが安倍氏を攻撃しても、それこそ「粛々として」憲法改正をやれば良い。岸氏の時代と違うのは、国民の多くが「事実を知っている」ことだ。マスコミの大嘘や、捏造の報道を嫌悪し、国民が自分の頭で考えている。

 安倍総理に、憲法改正をさせたくないという国民が、過半数を超えているとする、マスコミのアンケート調査など、信用できないし、する必要もない。後はもう、自民党の議員諸氏の、千載一遇の時勢を理解する能力と、覚悟と、総理の決断だけだ。

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『大東亜戦争肯定論 』- 8 ( 日本の右翼の源流 )

2016-11-11 18:30:23 | 徒然の記

 右翼という言葉は、現在の日本でひどく嫌われている。嫌われるだけでなく、嫌悪され否定され、時には犯罪者の別名であるかのごとく語られる。

 黒竜会の内田良平、玄洋社の頭山満など名前を聞くだけで身構えてしまうが、徳富蘇峰や岡倉天心も右翼として語られるのを知って以来、右翼とはいったい何かという疑問がずっと消えなくなった。

 敗戦後の日本は、日の丸と君が代を大切にする者をみんな右翼として否定して来たのだから、ずいぶん乱暴な話だ。

 二日前のブログで取り上げたが、戦後の日本では、歴史を捻じ曲げるため、米国によるライシャワー路線と、中国が主張する毛沢東路線、とソ連のスターリン路線が三つも重なり合い活動していた。国の歴史を客観的に捉える路線は一つもなく、寄ってたかって日本蔑視と憎しみの解釈を世間に普及させた。

 その結果、真面目に過去を振り返り、国の歴史や祖先を見直そうとする者までが、十把一絡げで右翼の範疇に入れられる。お花畑の住民として育てられた日本人たちが、愛国の保守を攻撃し、軍国主義者や反動だと言ってののしる。穏健な私でさえ、いつの間にやら右翼の一員に数えられている。嘆かわしい限りの日本だ。

 この問題を林氏が正面から取り上げているので正座して読んでいる。

  ・日本の右翼運動をファッシズムだと最初に規定したのは、どこの誰であるのか、私は知らない。だがどう考えてもこれは無理な試みだ。少なくとも学問的とは言えない。

  ・日本の右翼運動の歴史は、ファッシズムとナチズムよりはるかに古い。幕末維新の時代を省略しても、ムッソリーニとヒトラーの運動より、半世紀ほど昔から始まっている。

  ・北一輝の『国体論及び純正社会主義』は、明治39 ( 1906 ) 年に書かれているし、内田良平の黒竜会創立は、明治33 ( 1900 ) 年であり、明治10年に、平岡浩太郎と頭山満が創立した玄洋社が、自由民権主義から「大アジア主義」に転向したのは、明治20 ( 1887 ) 年である。」

  ・これに対しヒトラーの政権獲得は、昭和8 (1 933 ) 年であり、ムッソリーニのローマ進撃は、大正11 ( 1922 ) 年である。

  ・年代的に見ても、日本の右翼運動は彼らの運動よりはるかに古く、明らかに異質のものであり、彼らの思想とも無関係であったと見るのが、正当な解釈だろう。

  ・イタリアのファッショ党もドイツのナチス党も、最初から政権の奪取を目的とする政党であったが、日本の右翼運動は政権を奪うため政党を組織したことはない。

  ・右翼はいつも、在野の浪人団として政治の裏側と陰で動いていた。

  ・我われは、古屋敷を打ち壊すだけだ。新しい家の建築は他の者がやってくれると、若い頃の吉田松陰と、全く同じ言葉を吐くのが常であった。

  ・つまり日本には、ムッソリーニ流のファッシズムもヒトラー流のナチズムもなかった。ただ百年の歴史を持つ、右翼運動があった。

  ・彼らの主張は、「東亜百年戦争」の見地からする主戦論であるから、平和を願う政府や政党としばしば衝突した。

  ・彼らは脅し、時には暗殺した。彼らの暗殺方法は、「一人一殺主義」であり、ナチス流の大量虐殺ではない。説得性のある統一理論や、国民大衆の支持も必要としていない。

  ・これについて、戦勝国民主主義に追随した進歩的学者諸氏が次のように反論する。

   ・政権奪取を目的としないファッシズムは、ありえない。にもかかわらず、日本の右翼は政権を狙うことなく、政府を脅迫しつつ、「 天皇制」ファッシズムなる日本独特の政治形態を完成し、独伊と同盟して世界の民主主義国 に挑戦した。

  ・馬鹿げた理論である。第一次世界大戦で、日本は民主主義諸国側に立ったが、その時の日本が、「天皇制デモクラシー国家」であったとでも言うのか。

  ・日本の右翼人たちは、明治以来一度も政権の座に座ったことはない。常に民間にいて、日陰の存在であった。徳富蘇峰の如きは、むしろ例外である。

  ・玄洋社の頭山満翁と、黒竜会の内田良平が官途についたことを私は知らぬ。宮崎滔天をはじめとする、『東亜先覚士伝』中の数百人の右翼人はすべて生涯浪人であった。

  ・陸羯南は一記者にすぎず、岡倉天心はアメリカへ去り、大川周明も北一輝もともに浪人学者である。

  ・どんな団体にも屑はつき物だ。右翼に限らず、左翼団体の中にも屑がいる。聖なるべき宗教団体にさえも例外ではない。 

  ・とくに戦争中の左翼運動退廃期には、主義と党名を旗印にしたゆすり、たかりの常習訪問者に手を焼いた会社や、文士諸君は少なくなかった。

  ・徳田球一氏がロシアからもらった資金を懐に入れるか、用途不明のまま私消した事実は、尾崎士郎氏その他の諸氏の著書によって有名である。

  ・私の所論は、右翼を弁護しすぎているように聞こえるかもしれぬがそんなつもりはない。現在流布されている右翼の悪評は、責任の大半が、右翼自身にあることを私は認める。

  ・だが多くの右翼の虚像が、日本ナショナリズムの理解の著しい障害となっているため、できるだけ 「右翼の真像」に近い物を、描き出そうとしただけである。

 詳細をだいぶ省略したが、氏の主張の概要は紹介した。これ以上を望むなら、西郷隆盛、高杉晋作、吉田松陰など、幕末以来の先人の書を自ら読むしかあるまい。右翼の源流が幕末に発していることを忘れなければ、林氏の意見の大半を理解したと思って良いはずだ。

 たとえ屑のように見える右翼がいても、その者が下記の主義に立っている限り、どんなに著名な左翼より数段人間が上だ。最後のおまけとして、林氏が教えてくれた「玄洋社の憲則三条」を紹介しておきたい。

  第一条  皇室を敬愛すべし

  第二条  本国を愛重すべし。

  第三条  人民の権利を固守すべし。

 何度でも言おう。

 自分の国を憎み、敵対国に魂を売った左翼政治家や活動家は、右翼の足元にも及ばない屑だ。彼らは、敗戦後に発生した「獅子身中の虫」であり、「駆除すべき害虫」でしかない。

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『大東亜戦争肯定論 』- 7 ( 井上教授と丸山教授の意見 )

2016-11-10 23:34:15 | 徒然の記

 三国干渉という言葉は知っていたが内容を知らなかったので、今回は林氏の言葉で紹介します。

  ・三国干渉もまた、今では忘れられた事件の一つかもしれぬ。戦後の史書には、全くこれに触れていないものもある。

  ・日清講和条約が下関で調印され、日本は台湾と遼東半島を領有することになったが、批准が終わったわずか三日後に、ロシア、フランス、ドイツの三国による遼東放棄の勧告が、日本政府に突きつけられた。

  ・もちろん、ただの勧告ではない。ロシアはオデッサ軍港に船を集め、世界最強の陸軍を極東に送る準備を始めていた。明らかな軍事干渉である。

  ・イギリスとアメリカは、不介入の態度をとった。不介入とは、三国の軍事介入が実行されても、日本に味方しないという意味である。

  ・日本は屈服した。政府としては、それ以外の対策はなかった。

  ・清国軍との戦闘は連戦連勝の大勝利に見えたが、陸軍も海軍も、全力を使い果たしていた。ロシア一国にも、抵抗できない実情だった。日本は遼東半島を還付し、国民とともに臥薪嘗胆を誓った。

  未開、後進国ばかりのアジアで、ひとり日本が文明開花に成功し、国力を伸張させたが、西欧列強はそんな日本を喜ばなかった。劣等の有色人種が、白人の仲間入りすることを拒否し、彼らはそれを暗黙のうちに了解していた。林氏は人種差別について明言を避けているが、私は歴史から厳しい現実を直視した。

  ・日清戦争では、たしかに朝鮮、満州まで出撃した。だがそこで、欧州三強国の干渉を受けて、後退せざるを得なかった。これを、勝利と呼ぶことができようか。

  ・十年後の日露戦争も、同様に挫折した戦争だった。両戦争によって日本は、初期の目的を何一つ達成しなかったと言ってもいい。

  ・得たものはただ、幕末以来、日本を包囲し続けた西洋列強による首輪が、ますます強く、ますます狭く締めつけられていくという教訓だけであった。

  ・この列強の包囲陣の中で、日本の挫折は最後の挫折の大東亜戦争の敗北まで続く。8月15日の敗戦において、幕末以来の日本の抵抗と挫折、つまり、「東亜百年戦争」が終わった。

  ・「東亜百年戦争」は、現在の歴史家の目で見れば、そもそも初めから勝ち目のなかった戦争である。しかし、戦わねばならなかった。

  ・この100年間日本は戦闘に勝っても、戦争に勝ったことは一度もなかった。何という無謀な戦争を、われわれは100年間戦ってきたことか。

 ( 人種  )差別は今も続き、国際社会での日本の孤立がある。中国や韓国が、いかに捏造の慰安婦や南京問題で日本を攻撃しても、不介入の立場を崩さない欧米諸国の姿がそれを証明している。

 敗戦後の荒廃した国土から不死鳥のようによみがえり、世界第二の経済大国となった日本を、白人である彼らは心良しとしていない。強い同盟関係と言っている米国でさえ、というより、米国こそが日本の台頭を警戒している。

 林氏は「東亜百年戦争」という概念で、侵略国家日本というレッテルを剥がそうと試みているが、日本が日本である限り、将来に渡り国際社会での孤立は免れないと考えている。

 日本は八百万の神を信じる多神教の国だが、西欧諸国は一神教の国だ。自国だけが世界の中心と主張する中国の中華思想も、宗教と同じで未来永劫日本とは相入れない。コバンザメのような小中華の韓国も、中国同様だ。

 この話を始めると林氏の著書から外れてしまうので、テーマを元へ戻す。氏は「東亜百年戦争」の概念によって、左翼の歴史観を否定している。『日本軍国主義』の著者である、井上清教授への林氏の批判を紹介する。

  ・井上教授の立場は、人も知るごとくマルクス主義者であり、コミンテルン史観者である。

  ・日本の歩みはすべて、反人民的であるがゆえに徹頭徹尾不義であり、特に明治天皇制成立以後の歴史は内に対して暴圧と搾取、外に対しては侵略と略奪の連続であったことを、全力を挙げて証明しようとする。

  ・天皇ファッシズム、軍部ファッシズムなどの用語を、自分の頭で検討することなしに著書に用いるというのは、慎重な学者の態度ではない。

  ・日本の進歩学者諸氏は、連合国側の俗耳に入りやすい戦争スローガンを、そのまま受け入れただけである。

 左翼学者への反証として、林氏は日露戦争当時の二葉亭四迷の意見を紹介している。

   ・わが輩は断言する。今度の戦争は、必ず勝つと高をくくって始めた戦争ではない。勝つ勝たぬは第二の問題として、まずもって、万やむを得ぬから始めた戦争だ。

 ・ 存亡を堵しているから、主観的には負けぬ気でも、客観的には安心していられなかった。手に汗を握り、戦局の経過に注意していたのが事実である。

  つまり林氏が言いたいのは、「東亜百年戦争」の中に位置付けられた日本の宿命が、勝てそうもない戦争へと国民を駆り立てたという事実だ。次に氏は、東大教授丸山真男氏の太平洋戦争指導者の心理と態度の分析を、紹介する。

   ・ナチスの指導者は、開戦の決断に関する明白な意識を持っているに違いない。しかるに我が国は、これだけの戦争をしながら、我こそ戦争を起こしたという意識が、これまでのところどこにも見当たらない。

  ・何となく、ずるずると国を挙げて戦禍に突入したという、この驚くべき事態は何を意味するのか。

    ・あの復讐裁判の被告席には、責任を他に押し付け、あわよくば死刑をまぬがれようなどと思っていた卑怯者は、一人もいなかった。できれば、責任を一人で引き受けても良いと、覚悟していた者が大部分であろう。

  ・だがどう探してみても、自分の中に、開戦責任の所在が発見できない。そのため、検察官の耳には被告の答弁が、『12才の子供の答え』に聞こえてしまい、検察席からの失笑を招いた。

 ここで林氏は明確に述べていないが、「東亜百年戦争」に参入していたのだから、個々の指導者に開戦責任があろうはずがないと示唆している。賢い読者は理解するとしても、私のような無知な人間にはハッキリ書いてもらいたい気がする。

 丸山氏の意見の引用も敬意を払ってしているのでなく、「東亜百年戦争」の歴史も知らず、見当違いの批判をしていると立腹している。注意深く読むと、やっと氏の意図するものが分かる。

   ユダヤ人の虐殺や欧州各国への侵略は、ヒトラーを抜きにして語れないが、大東亜戦争の開始について、日本には特定の人物がいない。幕末以来の歴史を持つ日本では、誰が指導者であっても大東亜戦争は避けられなかった。
 
 これを形式的に、マルクス理論で片付けようとするところに、左翼学者の誤りと愚かさがある。日本の歴史も知らず、日本人の心も理解できない借り物の思想で、戦後を語る偽学者たちを氏が著書の中で強く糾弾している。
 
 日本を破滅の戦争へと追い詰めていたソ連、アメリカ、イギリス、中国の謀略が絡むのだから、反省ばかりしている戦後の日本人は確かにおかしい。せめて幕末のご先祖様たちのように、国際社会情勢を正確に掴み、現実に即した意見を述べなくて、どこに明日の日本があるというのか。
 
 林氏の意見を現在に引き伸ばせば、平和はお経として唱えるものでなく、国の守りを固めた上で勝ち取るものと、そんな考えが出てくる。
 
 日本の戦後を終わらせるためには、憲法改正をし、自衛隊を祖国防衛の軍として再建することになる。70年も居座っている外国軍隊(米軍)を撤退させることから、日本の独立が始まる。

 こんなことが分からないから、マッカーサーに「日本人は12才」と笑われることになる。同時にマッカーサーが、ドイツ人は40才だと言っている事実を知っても、井上教授や丸山教授はバカを言い続ける気なのかと、林氏が怒っている。

 今日も11時を過ぎた。これ以上述べる元気がなくなったから、本日はこれでお終い。

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『大東亜戦争肯定論』 - 6 ( 天皇と東京裁判 )

2016-11-09 22:19:19 | 徒然の記

 これから、林氏の著作の核心部分の一つに入っていく。

 私たち日本人にとって、天皇とはなんであるのか。以下長い作業になるが、根気よく紹介したい。

  ・日本の歴史を考えようとする者は、天皇制を避けて通ることはできない。

  ・もし天皇制問題が、すでに解決済みと本気で考えている者がいたら、それは心で考えぬ公式主義者か、日本の運命を、自分のこととして考える必要のない外国人だけである。

  ・目下朝日新聞で『日本占領回想記』を連載中の、マッカーサー元帥の名前をその外国人の例として、私はここにあげたい。元帥曰く。

  ・国民のほんの一部にしか過ぎない封建的な指導者たちが、支配の座に座り、他の何千万という国民は、進んだ意識を持つわずかの例外を除き、伝説と神話の完全な奴隷となっていた。

  ・ 第二次大戦中この何千万の国民は、勝っている話しか聞かされなかった。

  ・そこへ突然襲ってきたのが、全面的な敗北という強烈なショックだった。それは単に、軍事力がつぶされたことだけではない。

  ・ 日本人が信仰し、それによって生き、そのために戦った一切のもが消滅したのである。日本人の心の真空状態の中へ、今度は、民主的な生き方というものが流れ込んできた。

  ・日本人の心に起こった精神革命は、二千年の歴史と、伝説の上に築かれた生活の論理と習慣を、ほとんど一夜のうちに打ち砕いた。

  ・封建的な支配者と、軍人階級に向けられていた偶像的な崇拝の情は、憎しみと蔑みに変わり、敵に対して抱いていた憎しみと蔑みはやがて、敬意の念に変わっていった。

 敗戦後の日本人について、マッカーサーが語っている。多くの日本人がそうだったと思うし、この点については林氏も認めている。

   ・たしかに一つの意見だ。極めて明快、極めて単純な軍人的意見である。私は元帥の日本認識を、まったくの誤りだとは言わない。

   ・少なくとも、占領中の数年間の情勢論としては通用する。日本人が一切の封建的なもの、伝統と神話を憎悪し破壊を望んだかのように見えた一時期は、たしかにあった。

   ・占領者に対し明らかな敬意と、信頼を示した時期があったことも元帥の言うとおりである。

    ・ 世紀の残酷喜劇、東京裁判の演出ぶりも、詳細に目撃した。元帥の日本人12才説も謹んでうけたまわった。

  ・元帥が去って十年、私たちは今朝日新聞において、彼の誇らしい『勝利の記録』を読まされている。だがそれにしても、なんという軍人的、征服者的回想録であることか ! 

   ・元帥とその幕僚たちは天皇を無害な象徴に変更し、日本に残してやったのは自分たちだと、ひそかに誇っているようである。だが、果たしてそうだろうか。

  ・元帥が書いているとおり昭和21年の元旦、天皇は自ら『人間宣言』を行い、自分の神格を否定した。

  『 朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ 』

   ・たしかに現人神と優越民族が、架空なる観念として否定されている。元帥を喜ばせたのは、この後段であろう。だが、日本人にとって重大なのは、前段である。

 ・前段の言葉は単なる思想でなく、歴史的事実である。天皇は自ら架空なる観念を破棄されたが、国民と天皇の間にある『紐帯』 ( ちゅうたい  ) は残り、天皇制も残った。

 当時、天皇以上の権力者だった連合国司令官も、天皇制の根本に触れることができず、これを残したまま日本を去ったのはなぜか。大多数の国民が存続する天皇制に異議を唱えず、全体として象徴天皇に満足しているのはなぜか。

 その理由が、まだ解明できていないと氏は言う。マッカーサーが打ち砕いたのは、日本の都市だけで、二千年の歴史と伝統は何の関係もないと断定する。歴史の中の改めなくてならぬものは、日本人自身が改めると語る。

 天皇制の問題は、征服者としての軍人や、天皇を利用するだけの政治家の理解の彼方にある、歴史的存在だと説明する。

 正直に言って、天皇について氏の叙述は私には難しい。様々な学者の意見を紹介しているが、彼自身これだという断定をしていない。

 だが、読み進んでいくと、どうやら氏は、竹山道雄氏の考え方の大部分に賛同し、氏の所論の次の一節に注目している。

  ・国民の心の中にある天皇の、もともとの性格を最も簡単に言ってみれば、それは、土俗的なものでないかと思う。

  ・意識の表面に近いものほど、歴史の動きとともに変わっていくが、意識の深層にあって、集合的、無意識的であるものほど変わりにくい。天皇制は、日本国民のよほど深い底の層に、根を下ろしているものと考えられる。

  ・この島国に住んでいる国民の中に、久しい年月の間に、おのずから中心となるものができた。すべての人が信頼し、その言うことを無理なく聞く精神的権威ができた。

  ・教団の祭主がまつりごとを行い、そのうち、全国民の上にいる世襲のカミとなった。

  ・神道には最後の絶対者はいないのだから、西洋のゴッドとはまったく別物である。絶対的権力をふるった古代のインペラトールとか、ツエザールとも違うし、神権説で権威付けられた、王者でもない。

  ・むしろ土俗的な、神主の本家のようなものだった。 

 ここまでは林氏も同じだが、意見を異にするのは、東京裁判での天皇責任を無罪とするところだ。竹山氏は利用された天皇に戦争責任がないと主張するが、林氏は次のように語る。

  ・日本国民は天皇とともに戦い、天皇は国民と共に戦ったのだ。太平洋戦争だけでない。日清、日露、日支戦争を含む『東亜百年戦争』を、明治、大正、昭和の三天皇は宣戦の詔勅に署名し、自ら大元帥の軍装と資格で戦った。

  ・天皇制が日本人の土俗の深層から発生し、その中に深く根を下ろし存続しているものであるかぎり、その本質を、常に平和的なものだと規定することはできない。

  ・祭司も神官も、民族の危機においては武装する。戦争が発生すれば、その総指揮官になり、終われば、再び平和な祭司神官にかえる。歴史のはるかな初期に天皇が武装していことは、考古学的に証明できる。

 氏は大東亜戦争で天皇が無罪だという竹山氏に、異を唱える。天皇が国の危機に際し戦争の先頭に立つのは、何の不都合もないという。

 ここが氏の主張の独自性だと思うが、理の通ったまっすぐな意見だと賛同せずにおれない。

 これに続く次の言葉は、当時の知識人としては勇気のあるもので、頭を下げたくなってくる。今の日本で、こんなまともな意見を言う学者や文化人が何人いるだろうか。

  ・私は東京裁判そのものを認めない。いかなる意味でも認めない。あれは戦勝者の戦敗者に対する復讐であり、すなわち戦争そのものの継続であり、正義にも人道にも、文明にも関係がない。

  ・あきらかに戦争は、これらの輝かしい理念の公然たる蹂躙であって、歴史上に前例のない捕虜虐殺であった。

  ・かかる恥知らずの裁判に対しては、私は全被告と共に全日本国民と共に、我々は有罪であると叫びたい。 

  つまり氏は土俗的祭司として国民の上に立つ天皇が、東亜百年戦争で、戦いの先頭に立って何が悪いかと胸を張っている。復讐裁判に腰を折り、天皇の無罪をいうなど笑止千万と片付けている。

 敗戦後の日本人に対する、覚醒の言葉と私は受け止める。氏はすでに故人だが、今に生きる国民の一人として改めて哀悼の意を捧げたい。

 今夜もまた、遅くなった。昼間木枯らし一号が吹いたから、いよいよ本格的な冬の到来だ。これから風呂へ入り静かに眠るとするが、有意義な書を読んだ後の爽やかさと充実感は何ものにも代え難い。

 林氏と、蔵書を遺してくれた叔父に感謝する。続きは明日と、いたします。お休みなさい。

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『大東亜戦争肯定論 』- 5 ( ライシャワー路線と毛沢東路線 )

2016-11-09 00:18:52 | 徒然の記

  武器を使わない戦争手段に、「情報戦」があると言われている。狭い意味では、敵対国の情報システムへのサイバー攻撃を指すが、広い意味では、悪意のプロパガンダやデマ、風評などで相手国内の人心を惑わし、社会不安を煽る一切の活動を言う。

  簡単な例で言うと、韓国による「慰安婦問題」、中国による「南京問題」「抗日戦での大勝利」などの捏造情報の、世界的プロパガンダである。「日本軍の残虐行為による被害の数々」「強制連行」「強制労働」等々、聞くに堪えない悪口雑言がある。

 長くノンポリで生きてきた自分が、日本人として目覚めたのは、中国と韓国、北朝鮮による目に余る「中傷と攻撃」のお陰だった。

 こともあろうに、同じ日本人が敵対する中国や韓国・北朝鮮と一緒になり、自分の国を貶していると知ったのが、二番目の驚きと怒りだった。本気で読書を始めたきっかけが、ここにあった。

 今更こんな経緯を懐かしがっているのでないが、林氏の著述で新たな発見をしたので、その驚きを述べたくなった。氏の言葉を紹介する。

  ・ライシャワー博士をたびたび引用することは、現在の日本では大変危険なことらしい。

  ・私はうっかりして気づかなかったが、9月2日の東京新聞の片隅に乗った外電が、その危険を教えてくれた。

  ・「日本・中共・北朝鮮による、学術交渉での共同声明という見出しで、次のように書かれていた。

  ・「北京放送によると、日本、中国、北朝鮮三ヶ国の、学術分科会の著名人は、北京で、学術文化交流促進に関する共同声明に調印した。」

  ・「中国科学院・哲学社会科学部委員の陳翰全、北朝鮮科学アカデミーの李升基、日中友好協会顧問・古屋貞雄氏らが署名した。」と書かれ、声明の要旨は次の通りだ。

  ・「米帝国主義は、日本学術分科会に対して、新植民地主義の立場から、アジアの研究を行わせようと企んでいる。」

  ・「ライシャワー路線といわれる、駐日大使ライシャワーを通じる一連の策動は、文化侵略政策の表れである。」

  ・「米帝国主義は日本と南朝鮮、および蒋介石一味の学者を、相互に結びつけ資金を交付し、研究成果を自らの極東支配に結びつけようとしている。」

  ・私は鎌倉の奥に引きこもっているので、この「路線」は私のところまでは伸びてこない。

  ・だが、おそらくそのような「路線」または、それに近いものは、存在しているのだろう。

  ・もし全く存在していなかったら、この世界情勢の中では返って不思議だ。アメリカが、怠けていることになる。

  ・しかし北京に集まって、「ライシャワー路線」を攻撃している学術文化界の著名人なるものは、いったい何者か。

  ・対日謀略のための、「毛沢東路線」そのものでないか。目くそが鼻くそを笑っていると、私は思うだけだ。

  ・私が北京政府の宣伝謀略部長だったら、こんな会議と声明を発案した部員には、辞表を出させる。なぜなら、いずれの路線にも所属せず、日本の進路を真剣に考えている日本人を、怒らせてしまうからだ。

  ・自ら考える日本人の数は、案外多い。ただ現在は、発言しないだけだ。

 まるで砂漠に撒く水のように、氏の言葉は私の中に吸収された。

  ・いずれ次第に、発言しはじめるであろう。日本の知性の中核を形成する日本人を怒らせたのでは、宣伝にも謀略にもならないでないか。

 ライシャワー氏が駐日大使だったのは、昭和36年から5年間だったから、その頃の話だろう。敗戦後の日本に対する情報戦は、当時から始まっていたということになる。

 どちらの路線に従っても、日本の歴史への攻撃と批判と蔑視が共通しているから、日教組も、社会党も、そして自民党の一部も巻き込まれ、今日に至っていると理解した。

  ここには語られていないが、当然「ソ連路線」もあっただろうし、共産党と日教組が加わっていたはずだ。こうして国内に三つのお花畑が作られ、おめでたい「お花畑の国民」が育成され、「戦争反対」「平和憲法を守れ」と、日本滅亡の大合唱をしている現在につながる。

 ここまで来ても、書評はまだ半分でしかない。下巻があるからこの調子では、叔父の蔵書の年内読破が、おぼつかなくなる。特に決めた訳でないが、何となく年内に読み終えたいと考えるようになった。

 周りの人間には漫然と生きているように見えても、私は自分なりの目標をもって暮らしている。叔父の蔵書が終わったら、自分の本棚の本をもう一度読み返し、思い切って有価物のゴミとして断捨離するのが次の目標だ。

 空になった大きな本棚を息子に譲ると、部屋がスッキリとなる。部屋の中の物をサッパリと減らし、この世を去る準備にかかっている私は、老い先を悲しみショボくれてしているのでなく、逆の心境だ。

 十返舎一九のように、「線香の煙と共にハイさようなら」と潔く去るため、煩悩の塊みたいな身の回品を、思い切りよく処分すると決めた。現金はいくらあっても邪魔にならないが親の品物は、残された者が迷惑すると、私はどこまでも子供を第一に考える父親である。

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『大東亜戦争肯定論 』- 4 ( 徳川慶喜 )

2016-11-08 14:08:34 | 徒然の記

 最後の将軍だった徳川慶喜が大政奉還をしたことを、日本史の授業で習った。先生からは説明もなく、ただ歴史の事実として教わった。中学生の時も高校生になってからも、日本史の授業は無味乾燥だった。

 「慶応三年、1867年、慶喜が大政奉還。」と、期末試験のため機械的に暗記した。しかし林氏の本で、詳しい背景を教えられ感銘を受けた。大政奉還に限らないが、学校での日本史の授業は魂の抜けた、試験のための知識の切り売りでしかなかった。

 慶喜が大阪から江戸城へ戻ってくると、仏国公使ロッシュが謁見を乞うてきた。彼は慶喜に再挙を勧め、軍艦、武器、資金は、すべて、フランスから供給すると言った。慶喜はこれを拒絶し、逆に彼を諭している。

   ・わが方の風として、朝廷の命として兵を指揮する時は百令ことごとく行わる。

  ・たとい今日、公卿大名の輩より申し出たる事なりとも、勅命には、違反しがたき国風なり。されば今兵を交えて、この方勝利を得たりとも、万万一天朝をあやまたば、末代まで朝敵の悪名をまぬがれがたし。

  ・さすれば昨日まで、当家に志を尽くしたる大名も皆勅命に従わんは、明らかなり。

  ・よし従来の情誼によりて当家に加担する者ありとも、国内各地に戦争起こりて、三百年前の如き兵乱の世となり、万民その害を受けん。

  ・これ最も、余が忍びざるところなり。

 氏は、明治維新期における慶喜の苦衷を見落としてはならないと語る。勝海舟に比して、慶喜は愚者だったという風説もあるが、大政奉還の発案者が誰であったにしても、これを採用し実行するのは真の賢者にして始めてなしうるのだ、と述べている。

 幕府にはフランスの援助を当てにする者もいたが、慶喜が最後に、自らの判断で拒絶した点が重要なのだと氏が言う。仏公使ロッシュに向かい、慶喜が語った言葉を知れば、誰が彼を暗愚の将軍と言うだろう。戦乱を避け、泰然と決断した将軍の姿に、敬意と感謝の念を覚える。

 慶喜の決断が戦乱の世になるのを避けさせ、英仏の植民地へなることを防止したと知れば、現在の私たちがあるのはその決断のお陰でないか。

 時を同じくして西郷隆盛が、英国の外交官アーネスト・サトーから、熱心な提案を受ける。幕府はフランスと深く結びいているから、このまま放置していると幕府が諸侯を攻撃してくる。幕府とフランスの奸計に対抗できる強国は、英国しかないから、薩摩が英国と手を結んでおく必要がある。

 もしフランスの援兵が幕府を助けたら、英国は同数の援兵を薩摩に出す。サトーにこう言われた西郷が、なんと答えたか。将軍慶喜に匹敵する、日本の武士の言葉だった。

   ・日本の国体を立て貫いて参ることにつき、外国人に相談するような 面皮 ( めんぴ ) は、持ち合わせては居ない。

 ・このところは、われわれ日本人で十分、合い尽くすゆえ、よろしくご賢察あれ。

 ここで西郷が、うっかり提案を受け入れていたら英国に借りができ、やがて言われるがままの従属国になったと、林氏が語る。

 古い文書や記録を丹念に集め、私の知らなかったご先祖の言葉を、分かりやすい現代語にしてくれる氏を、中間小説作家などと軽視していた自分を恥じる。 

  ・今日西洋事情を説き、西洋を知っていると自認している者たちは、わずかに西洋の一端を見てその盛衰の歴史を知らぬ。

  ・彼らが強盛になったのは、過去にその理由がある。日本が内政の改革を怠り、現状のままで西洋文明の既に出来あがったものを、居ながらにして学ぼうとするのは大きな間違いである。

 氏が教えてくれた高杉晋作の言葉だが、維新の折の指導者たちの偉さをしみじみと知らされる。昭和53年に、鄧小平が日本を訪れた時のことを私は思い出す。

 彼は新幹線に乗って驚き、製鉄所を視察して驚嘆し、家電メーカーの工場を見て賞賛した。そして政治家や経済界の人間に、そっくり同じ設備を中国で作って欲しいと頼んだ。

  ・我々は急いでいる。一刻も早く近代化しなくてならない。同じものを中国へ持って来れば、後はもう、動かすだけだ。

 その時私は、この中国の権力者の言葉をかすかな軽蔑をもって聞いた。どんな立派な設備を持ち帰ろうと、それを動かす人間の教育ができていなければ、宝の持腐れだろうにと・・。

 拙速主義が災いし、38年経った今でも中国は杜撰な工場経営しかできず、公害を撒き散らし、粗悪品を世界へ輸出している。結局は、相変わらず国民を弾圧する国家から脱却できていない。鄧小平が高杉晋作ほどの見識があれば、中国の近代化が進み、国民の自由と幸福が進化していただろうにと思ったりする。

 日本は外見だけのモノマネをしたと、当時の西欧諸国は思ったかもしれないが、日本の指導者たちには、ものごとの本質を認識する力があった。一人や二人でなく、身分の上下を問わず、国内のあちこちにいたことを、氏の著作が教えてくれた。これは既に小説家が片手間にやる仕事でなく、歴史家としての立派な研究だ。

 この書は多くの人にもっと読まれるべきであり、特に若い人々に読まれるべきだ。自分は若い時に読まず、年を取ってから勝手なことを言うのだが、昔から老人はそんなものだ。自分のことを棚にあげ、偉そうに言う言葉も決まっている。

 「まったくもう、今どきの若いもんときたら。」

 私は謙虚なので若者に文句を言わないが、林氏の著作だけは「読んでもらいたい。」と思う。

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『大東亜戦争肯定論 』- 3 ( 左翼学者の使命 )

2016-11-05 23:08:24 | 徒然の記

  ・苦悩は、学者と志士だけのものではなかった。当時、名君賢公とうたわれた藩主たちもまた、それぞれ共通の根から発した、国内改革案と東亜経略論を持っていた。

  ・中でも、水戸の徳川斉昭、越前の松平慶永、薩摩の島津斉彬などの意見が注目に値する。

 林氏はこう述べて、島津斉彬について語る。

  ・斉彬にとって重大な事件は、インドの崩壊と、シナにおけるアヘン戦争と、長髪賊の乱であった。

  ・アヘン戦争は斉彬の壮年時代に起こり、長髪賊の乱は、彼が藩主に就く直前に起こった。

  ・長髪賊の乱は清朝打倒を目標としていたが、その極端な排外主義が、シナ分割の機会を狙っていた西洋列強に干渉の口実を与え、英仏連合軍の北京侵入となり、皇帝の逃亡となり、内乱の拡大となり、英人ゴルドン将軍の力を借りて、清朝はようやく乱を平定することができた。

  ・斉彬は、東亜最大の強国であった清帝国の解体を予感し、やがてそれが、日本の運命になりかねないことを憂慮した。

  ・彼が越前藩主松平慶永に与え、西郷隆盛に教えたという、意見書の写しが残っている。」

 ここで氏の著作から、斉彬の意見書をそのまま紹介する。彼も松陰に負けない雄大な秘策を、胸中に秘めていたことを教えられた。

  ・まず日本の諸侯を三手に分け、近畿と中国の大名はシナ本土に向かい、九州の諸藩は安南、カルパ、ジャワ、インドに進出、

  ・東北奥羽の諸藩は裏手より回って山丹、満州を攻略する。わが薩摩藩は、台湾島とその対岸広東・福建を占領し、南シナ海を閉鎖して、英仏の東漸をくい止める。

  ・出兵するとしても、これは清国の滅亡を望むのではない。

  ・一日も早く清国の政治を改革し、軍備を整えせしめ日本と連合する時は、英仏といえども恐るるに足りない。

  ・然るに清国は、版図の雄大なるを誇り、驕慢にして日本を見ること属国のごとく、連合を申し出ても耳を傾けるどころではない。

  ・ゆえに我より出撃して清国を攻撃しこれと結んで、欧米諸国の東洋侵略を防ぐをもって上策となす。

  斉彬公の意見書を読むと、私は、現在に至る日中対立の萌芽を見る。日本にとって中国は、西欧列強と対峙するための大事な連合国なのに、中国は決して日本の意見に与しない。

 中華思想の本家である中国は、他国を全て夷狄とみなし、自国の後進性を認めない。西欧列強ですら中国には蛮国であるから、まして小さな日本は、彼らから見れば格下の属国の認識しかない。

 日本防衛のために中国との連携が必要であり、そうしなくては共に列強の餌食となるというのに、尊大な中国が相手にしない。残された道は武力でねじ伏せ、日本との連合を認めさせるしかない。・・それが斉彬公の結論だった。

 つまりこの思想が、日本の指導者たちの根底を流れる危機意識であり、大東亜戦争まで引き継がれたものだと、林氏が言う。

 日本は侵略のため中国へ進出したのでなく、防衛のため満州を占領したのだから、敗戦後にマルキストたちが言う、日本帝国主義の侵略戦争であるはずがないと氏は説明する。

 まして、アジアを侵略した列強の仲間のアメリカやイギリスなどが、日本を侵略国家というのは片腹痛い話だと言っている。

 国際社会は軍事力がモノを言う世界だから、賢明なご先祖たちは、東亜の防衛と発展を理想としつつも、武力の行使も覚悟していた。だから私は、林氏の次の列強批判を、全面的に受け入れ喝采する。

  ・左翼学者たちが書いた維新史を、読んでいると、私は歴史の壁画館の中で、赤いクレヨンを振り回している、悪童の群れを思い出す。

  ・悪童どもは、維新の人物と事件をできるだけ醜悪に描き出すことが、真実の探求と心得ているように見える。

  ・日本に革命を起こすためには、日本の歴史をできるだけ野蛮に、できるだけ醜怪に、不正と愚行と暴行に満ちた無価値無意義なものとして描き出す必要がある。

  ・彼らは共産革命という政治目的のため、日本の歴史に泥を塗ることが、学問の使命だと思い込んでいるのだ。

  氏の著書は、昭和38年に書かれている。53年が経った今日、左翼学者たちによる 「日本史の泥塗り作業 」 は、改まるどころかもっと盛んになっている。彼らは教育界とマスコミ、法曹界に根を張り、野党の中でも我が物顔の活動をしている。

 「ねこ庭」から見れば、彼らは皆日本に巣食う「獅子身中の虫」であり、駆除すべき害虫だ。氏の著作を読みますますその感を強くしたが、今夜も夜が更けてきた。私の思いを述べるのは次回に譲り、氏の言葉を紹介しお終いとしよう。

  ・英国は薩長の内部、仏国は幕府の内部に食い込んでおり、どちらの誘いに乗っても日本は植民地化される。

  ・西郷も勝もそれを見抜き、徳川慶喜も山内容堂も見抜いていた。彼らはそれぞれの立場から、英仏の謀略に抵抗したのだ。

  ・岩倉具視と坂本龍馬、勝海舟と西郷隆盛が謀略家であったというのは、少しも彼らの不名誉にはならない。

  ・英仏の謀略に抵抗するためには、時に彼ら自らが、謀略家にならざるを得なかった。

  ・明治維新は英仏の謀略と圧力によって成立したのではない。この謀略と圧力に、必死に抵抗したところに成立した。

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『大東亜戦争肯定論 』 - 2 ( 吉田松陰他多くの学者 )

2016-11-05 13:05:04 | 徒然の記

   ・長州藩士吉田松陰が、アメリカへ密航しようとして捕らえられたのは、安政元年、ペルリ二度目の来航時であった。松陰は長州萩の獄舎に幽閉されたが、獄中で『幽囚録』を書き、師にして同志である佐久間象山に送った。

  ・これは、当時として知りうる限りの世界大勢論であり、日本が西よりポルトガル、イスパニア、イギリス、フランス、東よりアメリカ、北よりロシアに狙われていること。シナ大陸とアフリカ大陸がすでに英夷の侵寇を受けていることを述べ、今後日本のやるべきことを、次のように主張している。

 今回は、出だしから林氏の叙述を紹介した。さてそこで、吉田松陰の『幽囚録』の中身だ。言葉が古めかしいが、そのまま紹介する。

 ・艦ほぼ備わり、砲ほぼ足らば、則ち蝦夷を開墾し、諸侯を封建し、・・( 中略 )・・・間に乗じてカムチャッカ、オーツカを奪い、琉球を諭し、・・( 中略 )・・・朝鮮を責め、

 ・質を入れ貢を奉ること、古の盛時のごとくならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾呂栄諸島を収め、漸く進取の勢いを示すべし。

 ・然るのち民を愛し士を養い、かたく辺囲を守らば、則ち善く国を保つというべし。

  満州国の設立は陸軍が独自に考え、時の政治家の思いを無視した独走と、これまで思ってきたが、その構想は幕末の頃、既に吉田松陰が主張していたと知る驚きがあった。

  当時の日本人は、長い鎖国のため、世界を知らない井の中の蛙とばかり思っていたが、実際は欧米列強の動きを詳しく知っていた。幕府の高い地位にある役職者がそうだったとしても、下級武士の松陰までが世界を把握し、日本の守りに心を砕いていたとはまさに目から鱗の事実だった。

 同時期に獄中から、門下生の久坂玄瑞へ宛てた松陰の手紙がある。攘夷即時断行論を戒めたもので、林氏がその大意を次のように訳している。

  ・足下は軽鋭で、深く考えることはしない。今日、蒙古襲来時の時宗の行き方を学ぼうとしても、それは無理だ。

  ・神功皇后や豊臣秀吉の行き方も、昔だからできたので今はできない。できないことをやろうとして、大志を捨て雄略を忘れてはいけない。

  ・幕府はすでに、外夷と和親条約を結んでいる。これを日本人が破ったら、信義にそむくことになる。

  ・だから現在の策としては条約を立派に守って、その限度で外夷をくいとめておき、その隙に乗じて蝦夷を開き、琉球を収め、朝鮮を取り、満州を拉し、支那を圧え、

  ・インドに臨み、もって進取の勢を張り、もって太守の基を固めたら、神功皇后や、豊臣秀吉が果たせなかったことを、果たすことができる。

  ・そうなれば外夷は、こっちの思うままに駆使することができるのだから、何ぞ時宗が蒙古の使者を斬って快としたような、子供っぽい真似をする必要があろうか。

 林氏の著作で教えられたことは、一人松陰が考えていたのでなく、同時代の学者、政治家、志士たちに共有されていた思考だったという事実だ。

 『宇内混合秘策』 を著した佐藤深淵や、 『日露同盟論  』 を書いた橋本左内は勿論のこと、藤田東湖、高杉晋作、中岡慎太郎、坂本龍馬、佐久間象山など多くの名前が挙げられている。

 『 西域物語 』を著した幕臣本田利明も、その一人だった。

 要するに、刻々として迫る外国列強への警戒と反撃は、幕府の武士ばかりでなく、在野の志士や学者など、「 国の行く末を考えるすべての日本人」の中に生まれていた。こうして氏に教えられると、やっと自分にも幕末の日本の姿が見えてきた。

 橋本左内の『日露同盟論 』にしても、受験のため著者と書名の丸暗記でしかなかったが、氏のお陰で初めて内容の一端を知った。

 松陰も左内も現在の学者諸氏と異なり、生殺与奪の権を持つ幕府に対峙して意見を述べるのだから、命がけの行為だった。おろそかに聞けない、切迫感に満ちた言葉だ。

 幸い林氏が大意を訳してくれているので、佐内の文章をそのまま紹介したい。こんな機会がなかったら、目にすることも出来ない歴史書だった。

  ・日本は東海の一小島。現在のままでは、四辺に迫る外来の圧力に抗して、独立を維持することは難しい。

  ・すみやかに海外へ押し出し、朝鮮、山丹、満州はもちろん、遠く南洋、インド、更にアメリカ大陸まで属領を持って、初めて独立国としての実力を、備えることができる。

  ・そのためにはロシアと同盟を組んで、イギリスを抑えるのが最善の道である。

  ・近き将来に、世界を舞台として覇を争うのは英と露であろう。この両国の気質国柄を察するに、英は剽悍貪欲、露は沈摯厳正。世界の人望は、露に集まるのではないか。

  ・加うるに露はわが直接の隣邦、まさに唇歯の国というべく、これと同盟して英国と戦えば、たとえ破れても滅亡だけはまぬがれる。

  ・しかも対英のこの一戦たるや、必ずわが国を覚醒せしめ、わが弱を強に転じ、これより日本も真の強国になるであろう。

  ・正面の敵は英国であるが、今すぐに戦えというのではない。日本の現状では、それは不可能だ。

  ・英国と一戦を交える前に、国内の大改革を行い、露国と米国から人を雇い、産業を興し、海軍と陸軍の大拡張を行わなければならない。

   ロシアとの同盟、近隣諸国への進出など、その考えが正かったのかどうか。私が注目するのはそこではない。

 鎖国を国是としていたあの時代にここまで世界の状況を把握し、ここまで考えを推し進めていたという、わが先祖の英明さと勇気の発見である。

 それに比較し現在の私はもちろんだが、政治家や学者、在野の教育者たちは、いったい何をしているのだろう。戦後70年が経っても、米国の属国である日本をそのままにし、この事実を正面から語る勇気さえ持っていない。

 昭和30年代に、林氏が大東亜戦争肯定論を世に出していても、一顧だにしなかった日本の指導者たちの不甲斐なさを、改めて教えられた。

  269ページある本の、25ページのところでの書評だ。国民として知っておくべき大切な事柄が、まだ沢山残っている。このブログの続きがどのくらいになるのか分からなくなったが、林氏の遺言だと思えば、何ほどのことがあろう。

 もしわが息子や、孫たちが読まなかったとしたら、それもまた人生だ。愚かな息子と孫だったかと・・、死んでしまえば、そんな後悔もしなくてて済む。

  自己満足と笑われようと、どうせ長くない老い先なら、思い通りにやるだけだ。林氏と共に、ご先祖様を訪ねる旅を続けるとする。

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『大東亜戦争肯定論』 - ( 林房雄氏との出会い ) 

2016-11-04 20:26:18 | 徒然の記

 林房雄氏著『大東亜戦争肯定論』( 昭和59年刊 三樹書房・やまと文庫 )を読了。

 氏は明治36年大分県大分市に生まれ、昭和50年に73才で死去。東大法学部を中退後、プロレタリア作家として出発したが、後に転向し、愛国者として生きた経歴を持つ。

 本名は後藤寿夫。日本の小説家、文芸評論家だ。名前だけ知っているが、作品は一つとして読んだことがない。中間小説を書く流行作家という印象が強く、若い頃の自分は、獅子文六氏や丹羽文雄氏など中間小説家を軽視していたから、林氏の本は一冊も読まず、それでも恥なかった。

 老境に差し掛かりつつある今、氏の著作を初めて手にし、若い頃の無知蒙昧を恥じている。知らなかった歴史を教えられ、背筋を伸ばし、襟を正して読む氏の本は、読書の秋に相応しい書物だった。

 昭和38年から2年間中央公論に連載され、その後単行本になったという。今回手にした本は氏の死後に出されたもので、出版社も異なっているから、色々な変遷があったのだろう。昭和48年に記された氏の言葉が、目次の後のページに挿入されている。

  ・この本は、もっと読まれねばならぬ。特に戦後の世代、早くも30代に近づき、占領教育と左翼史観からの脱却を求めつつある青年諸君は、日本再建のための指針を読み取ってくれることと信じている。

 昭和48年、私は29才だった。まさしく私の年代の者に向かって氏が書いた本だ。当時は高度成長時代で、月月火水木金金と、休日なしで日本中が働いていた時だ。林氏がどのような本を出していたのか、知る暇が無かったし、若い時の自分は、今よりもっと無知な人間だったから、読んでも理解できなかったに違いない。

 下巻はまだ読んでいないが貫いている主題は、「大東亜戦争とは、いったい何だったのか。」という問いかけだ。石川達三氏は「太平洋戦争を起こしたのは、明治以来の軍国主義教育が原因だ。」と言ったが、林氏は、もっと長いスパンで考えようとしている。

  11ページに書かれた氏の言葉を読んだ時、不思議な感銘を受けた。

 ・私は自身にたずねる。明治大正生まれの私たちは、「長い戦争 」 の途中で生まれ、その戦争の中を生きてきたのではなかったのか。

 ・私たちが平和と思ったのは、次の戦闘のための小休止ではなかったか。

 ・徳川二百年の平和が破られた時に、「 長い一つの戦争 」 が始まり、それは昭和20年8月15日にやっと終止符を打たれた・・のではなかったか。

 氏はこれを「東亜百年戦争」と自ら名付け、その意味と歴史の事実を語る。国を思う人間としての、静かだが強靭な意志を感じさせられ、中間小説家と氏を軽視してきた自分を反省させられた。

 敗戦後の日本が、どうして今も米国の属国に甘んじているのか、一人世界ののけ者となり、責められ続けているのはなぜなのか。

 それを氏が、幕末の日本から説き明かしてくれる。それはもはや、石川達三氏の言う「太平洋戦争を起こしたのは、明治以来の軍国主義教育が原因だ。」という、そんな短い期間の話ではない。

 私は暫く氏に導かれるまま、秋の夜長を、氏の著作と過ごしてみたい。長くなっても、氏の言葉を根気よく紹介し、いつかブログを読んでくれる息子や孫たちのため残したい。「三っの史観」という章にある、氏の言葉をそのまま紹介する。

  ・上山春平氏によれば、敗戦後の日本人は、アメリカの立場からの太平洋戦争史観、ソ連の立場からの帝国主義戦争史観、中共の立場からの抗日戦争史観を、次々に学習させられて来たそうである。

  ・確かにそうであった。あの戦争は、アメリカに従えば、デモクラシーのファッシズムに対する勝利であり、ソ連に従えば、米英帝国主義対日独帝国主義の衝突であり、中共に従えば、日本帝国主義による中国侵略の惨めな挫折である。

  ・が、いずれにせよ、上山氏は、この状況を次のように述べている。

  ・あの戦争をこれほど主体的に、これほど多元的角度から反省する機会を持った国民が、他にあるだろうか。こうした独自な国民的体験を、私はかけがえなく貴重なものと思う。 

 林氏は、上山氏のいう「独自な国民的体験」の上に立ち、日本人自身の「大東亜戦争史観」を築く時が来ていると説明する。ここで氏が述べるのが、「東亜百年戦争」という考え方だ。

 つまり、「大東亜戦争は東亜百年戦争の一部であり、終局でもあった。」という捉え方である。予想していない思考だったため最初は戸惑ったが、読み進むうちに納得した。反日左翼マルキストの日本人を除けば、なるほどとうなづかされる意見だろう。

 東亜百年戦争に関する説明はある種の謎解きにも似て、思わず引き込まれてしまう。

  ・では、その百年戦争はいつ始まったのか。さかのぼれば、当然明治維新に行き当たる。が、明治元年では、まだ足りない。

  ・それは維新の約20年前に始まったと、私は考える。薩英戦争も下関戦争も、その一部であり、開始はもっと以前だと考える。

  ・米国海将ペルリの日本訪問は嘉永6年、1853年の3月だ。明治元年からさかのぼれば、15年前である。それが始まりか。いや、もっと前だ。

  ・オランダ、ポルトガル以外の外国船の日本近海出没の時期は、ペルリ来航の更に7年以上さかのぼる。それが急激に数を増したのは、弘化年間だ。

  ・国史大年表によって、弘化元年から嘉永6年までの外国船と、海防関係の記事を拾ってみると、実に80件以上に上る。

   太平の 眠りを覚ます 蒸気船

     たった四杯で 夜も眠れず

 ペルリ来航時の朝野の騒ぎを詠んだ狂歌として、日本史の時間に習った。林氏の説明では、その7年前から外国船が日本近海に現れ、幕府・朝廷のみならず、在野の学者、武士階級の間に深刻な影響を与えていたという。

 東京湾をはじめ日本沿岸各地の砲台も、この頃から次々築造されたとの説明だ。

 水戸斉昭や藤田東湖の「攘夷論」、平田篤胤の「日本神国論」が生まれ、抗戦イデオロギーが発生したと氏が言う。人物名と書名だけは受験勉強のため丸暗記していたが、本の中身も時代背景も頭に残っていない。

 吉田松陰といえば、日本人が誰でも知っている歴史上の人物だが、彼がどのような考えをしていたのか、私は氏の本で初めて理解した。大東亜戦争を考える上で、大切な部分なので、次回のブログにすることとした。

 73才で死去した氏は、もしかするとこの上下二巻の著作を、自分の遺言として書いたのかもしれない。同じ年の私は死は望んでいないが、隣り合わせの友みたいな近さがある。そうなれば「ねこ庭」のブログも、子や孫に残す遺言と言っておかしくはない。生きている間は相手にされなかったとしても、死後に私のブログを読めば、考え直すことがあるのかも知れない。

 ちょうど先日、亡くなった叔父の蔵書を読み叔父に感謝したり、失礼の数々を反省したりした自分のように・・。しかしちょっと待て、取らぬ狸の皮算用は止めるべしだ。子供たちのことは、ブログと無関係な雑念だ。

 林氏に比べなんという卑小な思考であることか。これだから小人は困る。

 ( キリがないから、本日はこれまで。)

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