ご近所の農家さんから分けて頂いたお米がとても美味しいので
今年のお米の様子が気になり現地へ!(わが家から徒歩数分先の田園です)

気候を心配しておりましたが、なんとか成長している様子、嬉しいです。
一生懸命育てたお米はそれなりの価値を発信するべきだとかねてから考えています。
自分のお米を過小評価ぎみのこのご近所さんのお米の価値を今年はきちんと多くの人に伝えようと決めました。

実は私も、いろんな人から言われる言葉があります。
「あなたは自分自身を過小評価しすぎ!」
そうかな~と未だその言葉とかみ合わない自分がいます。
そう見えるのならそれは周りがが過大評価しているだけかもしれないなあ・・とか。
これを乗り越えられたら自分は大きく飛躍するだろうな、という想像してみたり。
事実過小評価しているとしたらその根源は何か、
それはやはり私の生まれ育ってきた環境だと思います。
人はほめられて成長すると言われますが、
私は小さな時から決してほめられては育ってきませんでした。
母は決してほめてくれる人ではありませんでしたから。
ほめて欲しい時もほめてくれませんでした。
ひとりっこの私は母の生きがい、人生そのものでした。
母は私にあらゆる夢を託して来ました。
母は勉強が大好きでした。
母は戦争のせいで、学びたかった事をすべて放棄しなければならなかった悔しさが残っていました。
先に生まれた母の兄や姉は戦争の犠牲をまぬがれ、それなりの教育を受けることができ
教職についたり東京でエリートになったりしました。
遅く生まれた母だけが直撃を受けてしまったのです。
ですから、母が叶えられなかった思いも私に託してきました。
母は高いレベルを私に要求し続けてきました。
だから、母から見ていつでも「まだまだ」の私しかいませんでした。
5歳の頃、とても仲のよい「みずこちゃん」といつも遊んでおりました。
みずこちゃんは何でもできるとてもすごい子でした。
よく一緒に裏山に写生をしに行きましたが
母から絵をほめてもらった記憶がありません。
私は決してみずこちゃんの絵を越えることはできませんでした。
(みずこちゃんはその後、高校進学の時内申書がオール5で盛岡一高にトップ入学しました!)
小学校2、3年の時、私はクラスで2番の成績でした。
いつも1番には「あつこちゃん」という人がいました。
あつこちゃんと私はおそろいの長さで三つ編みのおさげを肩から垂らしておりました。
母は1番の成績の私を求めました。
ですから2番でも一度もほめられたことがありませんでした。
(あつこちゃんはその後東北大学の薬学部にさらっと入学しました!)
中学の時、高校進学を決める時も私は出来て間もない合格安全圏の高校を選びました。
母は激怒しました。母が私に望んでいたものはもっと上のレベルの高校でしたから。
大学受験を決めた時も母は国公立大学だけしか視野にありませんでした。
私にはその能力も意欲もありませんでした。
私立音大に入りたかったのですが、いとも簡単に却下されました(笑
急きょ音楽の道以外を探さなければならなかったのです。
ぎりぎりの進路変更で私立短大に入りました。
こうしてみると、見事に母の期待を裏切ってきたものです!
いつも母は私の努力の足りなさを指摘し続けて来ました。
一番大きな存在の母の言葉はいつも「脅威」で絶対的でした。
ですから、私はさっぱりだめな娘と自分でも思いこんできました。
思い込むとさらにだめな方向にばかり行ってしまうから不思議です(笑
「過小評価」の自分から脱却するには、
これらの過去の出来事を洗い出して、
そこに在る自己の存在をあらためて承認し、
「自分史」を書き換えていく作業かなと思います。
今年のお米の様子が気になり現地へ!(わが家から徒歩数分先の田園です)

気候を心配しておりましたが、なんとか成長している様子、嬉しいです。
一生懸命育てたお米はそれなりの価値を発信するべきだとかねてから考えています。
自分のお米を過小評価ぎみのこのご近所さんのお米の価値を今年はきちんと多くの人に伝えようと決めました。

実は私も、いろんな人から言われる言葉があります。
「あなたは自分自身を過小評価しすぎ!」
そうかな~と未だその言葉とかみ合わない自分がいます。
そう見えるのならそれは周りがが過大評価しているだけかもしれないなあ・・とか。
これを乗り越えられたら自分は大きく飛躍するだろうな、という想像してみたり。
事実過小評価しているとしたらその根源は何か、
それはやはり私の生まれ育ってきた環境だと思います。
人はほめられて成長すると言われますが、
私は小さな時から決してほめられては育ってきませんでした。
母は決してほめてくれる人ではありませんでしたから。
ほめて欲しい時もほめてくれませんでした。
ひとりっこの私は母の生きがい、人生そのものでした。
母は私にあらゆる夢を託して来ました。
母は勉強が大好きでした。
母は戦争のせいで、学びたかった事をすべて放棄しなければならなかった悔しさが残っていました。
先に生まれた母の兄や姉は戦争の犠牲をまぬがれ、それなりの教育を受けることができ
教職についたり東京でエリートになったりしました。
遅く生まれた母だけが直撃を受けてしまったのです。
ですから、母が叶えられなかった思いも私に託してきました。
母は高いレベルを私に要求し続けてきました。
だから、母から見ていつでも「まだまだ」の私しかいませんでした。
5歳の頃、とても仲のよい「みずこちゃん」といつも遊んでおりました。
みずこちゃんは何でもできるとてもすごい子でした。
よく一緒に裏山に写生をしに行きましたが
母から絵をほめてもらった記憶がありません。
私は決してみずこちゃんの絵を越えることはできませんでした。
(みずこちゃんはその後、高校進学の時内申書がオール5で盛岡一高にトップ入学しました!)
小学校2、3年の時、私はクラスで2番の成績でした。
いつも1番には「あつこちゃん」という人がいました。
あつこちゃんと私はおそろいの長さで三つ編みのおさげを肩から垂らしておりました。
母は1番の成績の私を求めました。
ですから2番でも一度もほめられたことがありませんでした。
(あつこちゃんはその後東北大学の薬学部にさらっと入学しました!)
中学の時、高校進学を決める時も私は出来て間もない合格安全圏の高校を選びました。
母は激怒しました。母が私に望んでいたものはもっと上のレベルの高校でしたから。
大学受験を決めた時も母は国公立大学だけしか視野にありませんでした。
私にはその能力も意欲もありませんでした。
私立音大に入りたかったのですが、いとも簡単に却下されました(笑
急きょ音楽の道以外を探さなければならなかったのです。
ぎりぎりの進路変更で私立短大に入りました。
こうしてみると、見事に母の期待を裏切ってきたものです!
いつも母は私の努力の足りなさを指摘し続けて来ました。
一番大きな存在の母の言葉はいつも「脅威」で絶対的でした。
ですから、私はさっぱりだめな娘と自分でも思いこんできました。
思い込むとさらにだめな方向にばかり行ってしまうから不思議です(笑
「過小評価」の自分から脱却するには、
これらの過去の出来事を洗い出して、
そこに在る自己の存在をあらためて承認し、
「自分史」を書き換えていく作業かなと思います。