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誠の想像をはるかに越えたことばが伝わってきた。
誠は突然打ち明けられた事実に驚いた。
声がつまった。
驚いて返すことばもなかった。
ふいに体がふるえだした。
小野崎のことばは、彼が息子、慧の死を告げることばは……。
あのまま翔太を神沼に置いておけば。
誠が悲嘆のどん底で。
口にしなければならなかったことば。
の。
可能性がある。
小野崎の悲しみは誠の悲しみになっていた。
暗く惨い現実。
息子の死。
たったひとりだけの息子の死。
それがいかなる形をとったものであっても。
これ以上の悲劇はこの世に存在しない。
回避することはできなかったのか?
心情をあまり吐露したことのない小野崎が取り乱している。
小野崎の暗澹たる声が黒く泡だった。
黒く渦を巻いた。
体操教師ときいただけで。
かつて誠が迫害を受けた橋田先生の姿態が。
声が。
小野崎の声にダブってひびきだした。
――マグロ、マグロ、マグロ。誠は歌うな。、
黒い渦の中にある悪意の粒々が誠にいっせいにおそいかかる。
――マグロ、誠は跳び箱も鉄棒もダメ。音痴だ。
死ね。死ね。死ね。
部屋の温度が凍てつくほど低下した。
なにか途方もない害意をもったものが。
誠をのみこもうと吠えている。
たしかな存在としてそれはここにいる。
それは、いま小野崎をとりこみ。
飲みこんでしまったもの。
陰気な吠え声。
獲物にありついたよろこびの声のような気がした。
全身が恐怖のあまり鳥肌となった。
震えた。
顎ががくがくなって止まらない。
その貪欲な怪物はかつて翔太に牙をむいた。
ものである。
誠を餌食にしようとしたものである。
父の勝平と母が戦いぬいたもの。
冷酷無残にも引き寄せられ取り込まれた慧には。
戦う術がなかった。
――死ね。
といわれて、誠も死のうと思った。
赤毛のニンジンを真似た。
洗面器に水を張った。
顔をひたした。
苦しかった。
死ねなかった。
父に相談することもできなかった。
あいては体育教師の皮をおぶった怪物なのだ。
慧をいたぶることによってますますその力を蓄えている。
八幡山公園の吾妻屋の梁にロープをさげ首をつったのだという。
誠は聴覚がさらに敏感になった。
小野崎のかすかな震えまで感じられた。
受話器をとおして鼓膜に伝わってくる波動。
は。
慄いていた。
どうしようもなく暗く冷えきっている。
「寒かっただろうな。明日になれば、新聞にでるからわかることだが……」
といって、ふたたび嗚咽となった。
そして、電話はかかってきたときとおなじように。
むこうから一方的に切られた。
担任体育教師の慧に対する暴力をうすうす感じ。
悩んで、悩みぬいて。
小野崎はふと誠におなじ悩みで相談をうけたことを。
思い出していたかもしれない。
小野崎が現役の教師であり。
妻の父が県の教育長であるだけに。
悩みはさらに深かっただろう。
誠には。
梁からぶらさがって揺れている中学生の制服が。
慧が。
ありありと見えてきた。
すっかり〈闇〉にとりこまれて逃げ場もなく。
死を選ぶことしかできなかった。
慧が哀れだった。
翔太よりも4歳年長だから中学3年生。
高校受験でがんばっているだろうな……。
ときどき思いおこしていた小野崎の倅。
慧が自殺。
首をくくって死ぬ以外に逃げ道はない。
この苦しみから解放されるのにはし死ぬしかない。
と。
追い込まれた慧が哀れだ。
父親の小野崎に似ていた。
少し気の弱いところのある少年だった。
誠がまだ塾をはじめていないころだった。
小野崎はまだ神沼にいた。
家族ぐるみでよく遊園地などにも遊びにいった。
慧はひとりっ子だった。
それで、慧は翔太を弟のようにかわいがってくれた。
翔太も彼と遊ぶのを楽しみにして幼児期を過ごした。
春の遊園地の丘を慧と翔太が。
一餅になって組みあったままころげていく。
妻たちの明るい笑いが花霞みの空にひびいていた。
作者注 「にんじん」ジュール・ルナールの小説。
赤毛のため「にんじん」というアダナで呼ばれる少年の話です。
ぜひ読んでください。
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