これまで、畑沢における姓のうち、「有路」と「古瀬」については、文献に残っていたり伝説がありましたので、これまで十分とは言えないまでも説明をしてきました。しかし、畑沢で最も多くを占めていた「大戸」姓については手ががりが掴めずに、スビタレ流の知らないふりをしていましたし、読者から何の御咎めもないことをいいことにしていました。
ところが、手がかりが見えてきてしまいました。そうなると、知らないふりはできないようです。ところで、本題に入る前に畑沢の姓について、概略を説明します。畑沢の現在の戸数はおよそ30戸で、昔と比べると激減していますので、昭和30年ごろを対象にします。その頃、畑沢の姓別の戸数は次のとおりでした。
大戸…24戸
古瀬…18戸
有路…15戸
豊島… 4戸
菅戸… 2戸
青井… 1戸
矢萩… 1戸
合計65戸
今の2倍以上の戸数です。このデータの源は、昭和41年(1966年)発行の住宅地図に私の幼き頃の記憶を加えたものです。
さて、「大戸」姓は、上記のとおり24戸で、畑沢の37%を占めています。畑沢以外にも、荒町、車段、尾花沢にも大戸姓がありますが極、少数で、大戸姓はほぼ畑沢の中にあります。畑沢の大戸のルーツは、3戸であると伝えられています。それが、24戸に増えたようです。
そのうち、1つのルーツは最も新しく、文献からも推察できます。それは、「尾花沢風土記」(昭和55年尾花沢市発行)に、「18世紀半ば、江戸から大戸伝右衛門が銀山の採掘を試みたが失敗した」との旨が書かれています。また、畑沢村の名主が当時の代官へ村の様子を報告した「畑沢村高反別村差出明細帳」において、正徳4年(1714年)では、村に寺はないとしていますが、天明8年(1788年)では浄土真宗の徳専寺があると書かれていますので、1714年から1788年の間に徳専寺が畑沢に建てられたことになります。この徳専寺は、元々、銀山にあったが、大戸家とともに畑沢へ移ってきたと伝えられています。即ち、銀山の採掘に失敗した大戸家が寺と一緒に畑沢へ現れたようで、そのルーツを持つ「大戸」は昭和41年に4戸ありました。
「大戸」姓の残り2つのルーツはこれとは全く別で、歴史も古いようです。確かとまでは言えないのですが、野辺沢城があったころ、野辺沢氏の家臣団に次の名前がありました。「野辺沢家と霧山城」(田村重右衛門著 1979年発行)によるものです。
三百五十苅 大戸内匠助
千百苅 大戸大学
野辺沢氏には、「大戸」姓の家臣がいたのです。ただし、俸禄は高くはないようで、農業をしながらの「お勤め」であったようです。そのため、家老職だった「有路」ほどの記録がないのでしょう。また、大戸姓が多い場所は、荒屋敷と言われている所で、武士集団が居住していたような地名です。荒屋敷のすぐ近くには、「山楯」という楯があったようです。山楯へは荒屋敷から尾根を通って容易に駆けつけることができます。山楯を守る武士集団が大戸だった可能性が高いと思われます。この荒屋敷の背後には、大戸一族が祀った「稲荷神社」があります。「向かい」有路一族の「熊野神社」、「上畑沢」古瀬一族の「延命地蔵堂」に相当するものでしょう。従って、荒屋敷の大戸は、野辺沢氏の家臣の末裔だろうと推察するものです。「大戸」姓3つのルーツのうち、2つのルーツは、文献にあった家臣の人数(2人)と合致する気がします。でも、やはり確認が必要だと思いますので、稲荷神社を守っている人に聞いてみます。
下の写真は「荒屋敷」地区
ところで、そもそも「大戸」姓は、どこに由来するのでしょうか。教えてください。