豊島☆☆☆は畑沢出身であっても延沢村に移って久しいので、畑沢には直接的に関係する出来事が見当たりませんでした。ところが、弘化5年(1848年)の長吉一件から4年が過ぎた嘉永5年(1852年)、ここで初めて畑沢の記録に豊島☆☆☆が出てきます。
背中炙り峠(現在の背炙り峠ではなく、古道の峠です。)には、大きな石仏「湯殿山」があります。側面にはそれぞれ次のように刻まれています。
向かって右の側面
畑沢の名主格2人の姓名・建てた年号・「畑沢村中人足」
向かって左の側面
当時の畑沢のリーダー2人の姓名・「豊島☆☆☆」
その従者と思われる人物・「別当 金剛院」(荒町の八幡神社)
一般に石仏の主催者は、「願主」として刻まれていますが、この「湯殿山」には、「願主」の文字を見つけることができませんでした。しかし、この石仏は豊島☆☆☆が主催者であるのは間違いないようです。台座を含めると、地上からの高さが約2.3mあり、畑沢の石切り場から運ばれました。この程度の大きさならば、集落近くには珍しいものではありませんが、馬車等が使えない山道の峠に標高差200mも上げることは並大抵のことではありません。もちろん、冬季に雪上を橇(そり)で運んだそうですが、それでも大事業です。かなりの資金力を必要とします。それは、豊島☆☆☆しかいません。このころ豊島☆☆☆55歳ごろです。