これまで畑沢出身の傑物と言える方々を紹介したことがあります。年代順に、関嶺(寒嶺)和尚、古瀬吉右衛門、豊島他人太です。関嶺(寒嶺)和尚の墓石は尾花沢市丹生の巣林寺に、豊島他人太の墓石は尾花沢市荒町の墓地にあります。しかし、古瀬吉右衛門の一家は、流行り病で全員が亡くなってしまったと伝えられていたので、墓石もないものと思い込みをしてしまい、探す努力を怠っていました。しかし、2月24日のおさいどの日に、上畑沢の方々から古瀬吉右衛門家の古い墓を教えてもらいました。
古瀬吉右衛門は、天明の大飢饉(1782~1788年)の時に村人の窮乏を救うために、私費を投じて畑沢から尾花沢までに石橋を48箇所も作り、その事業によって、村人は糊口を凌ぐことができました。また文化八年(1811年)には、村人を守るために巨石で湯殿山と象頭山の石仏を造立しました。しかし、その後、ぷっつりと消息が途絶え、記録がなくなっています。
上畑沢の墓地の一番奥にあるのが古瀬吉右衛門家の墓のようです。同時代における他の家の墓石は、約50cmの高さで板碑状ですが、古瀬吉右衛門家の墓石は高さが2m近くもあり、ほっそりとした本体に屋根が付いた形になっています。当時、古瀬吉右衛門家がかなり裕福だったことを想像させる立派なものです。
墓石の裏には、「寛永九年」に建てられたことが刻んであります。天明の大飢饉から10年目です。この時期、まだまだ吉右衛門は健在だったと思われますので、この墓は吉右衛門本人が建てたものでしょう。この13年後に吉右衛門は湯殿山・象頭山を造立し、さらにに何年後かに吉右衛門自身もこの墓に埋葬されたものと思われますが、墓に刻まれた戒名を確認しておりません。