-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

背中炙り峠の楯跡の最新写真です。

2016-04-12 18:17:45 | 歴史

 4月6日に行った「背中炙り峠の楯跡」の調査は、いつもどおり一人ぼっちで行いました。国会議員の方々でさえ、どの政党にも属しないで一人ぼっちで活動するのは寂しいようで、一人ぼっちの議員があるグループと一緒になりました。しかし、私はスビタレですが、それでも一人ぼっちで活動しています。

 この日、私は畑沢側からの古道を調査しながら登っていきましたが、尾根に出る少し手前の残雪に、この日に歩いた真新しい靴の跡を発見しました。大人と子供と思われる長靴の跡でした。長靴は普通のタイプのものではなくて、滑り止め用のスパイクが仕込んであるものです。普通の人がこの辺りに来る理由を考えられなかったので、山菜取りかとも想像したのですが、まだまだ、山菜の時期ではありません。この靴跡は、そこから乳母木地蔵、楯跡を通って村山市側古道へ向かっていました。恐らく、「楯跡」に興味を持って、県道29号線の背炙峠近くの林道から入りこんだ人たちのようです。私以外にも興味を持っておられる方がいることうです。仲間ができたような気分でしたが、最後までお会いできませんでした。もしかして、畑沢通信を御覧になって興味を持って下さったのでしょうか。ここは熊も猪も出ます。怖がらないで来たようです。

 さて、楯跡で確かめたかったことがありました。私が楯の櫓台の説明をこのブログに投稿した時に、「櫓から野辺沢城が見える」らしきことを書いていましたが、実のところ確かめていませんでした。そこで、見とおしがよいこの日に確かめてみました。櫓台と言っても「櫓」そのものはなく、「台」だけになっていますので、「見える」「見えない」を厳密に論じることはできませんが、それなりの確認はできます。櫓がないなら木に登ろうと大木の枝を見たところ、一番下の枝でさえ頭上はるかで手が届きません。これでは木に登ることができません。ロープを持参しなかったことを悔やみましたが、しょうがありません。そのままの状態で野辺沢城があったお城山を探しまたが、大平山(宝沢山)から繋がっている尾根が邪魔していて、とても野辺沢城が見えるような状況ではありませんでした。この櫓台から野辺沢城と直接に連絡をとることは難しかったようです。それでは、どのようにして野辺沢城と連絡を取っていたのでしょうか。考えても私の頭では直ぐに思いつきません。私の頭に閃きが起きるには時間がかかります。それも年単位の時間です。ところで、この櫓台からは村山側が良く見えます。敵の侵攻を監視するのに十分に機能を発揮できそうです。

 これまで確認できなかったものは外にもありました。堀切の末端がどうなっているかです。草が生え樹木に葉が茂っている時期は、険しい堀切の東側(畑沢側)は、急峻な坂が暗い闇の中に吸い込まれ、奈落の底に向かっているように見えました。そのため、スビタレとしては、とても堀切の端を確認などできませんでした。しかし、この日は草も木の葉もまだです。堀切が十分に見えました。坂の下に転がっていかないように十分に注意しながら末端の方に近づきました。そして、末端の方から上を仰いで撮った写真がこれです。「背中炙り峠の楯」調査結果(2)に載せた曲輪(5)と曲輪(7)の間にある堀切(3)です。右が曲輪(5)の南端で、左が曲輪(7)の北端です。中央の窪んだ真ん中の一番上には、虎口が見えます。堀切の幅は約5mです。

 同じように上記の堀切の南に位置する堀切(5)です。この堀切は曲輪から少し離れた場所に作られたものですが、堀切としてはしっかりとしたもので、巾が5mにもなります。

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