-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

まだまだ石仏がありました。(その1 稲荷神社)

2016-04-29 17:22:11 | 歴史

 半月前の畑沢祭(4月15日)の熊野神社で、予想だにしない情報が入りました。3月13日に私が畑沢地区生涯学習推進センターで皆さんにお上げした資料についての話題になり、その資料に載っていない石仏がまだあるというのです。畑沢の石仏を調査するにあたっては、楯岡高校社会部が発行した「郷土Ⅱ」、渡部昇龍氏の「尾花沢の信仰と民族」、そして尾花沢市内のほぼ総ての石仏を調査した大類氏の調査結果などを踏まえつつ、私が畑沢の方々から聞きながら徹底的に調べたつもりでしたので、思いがけないお話でした。「おらえ(家)のどごさ、〇〇がある」、「あそごのえ(家)んどごさ、△△がある」と言うのです。最初その話に唖然としながら聞いていたのですが、その人たちの話ぶりには興味が引かれました。実に面白くお話をされていました。

 お話によると、まだ石仏は4体以上はあるようでしたが、先ず道路から近い場所にある楽な所から始めました。下畑沢の山楯の近くです。「山楯」と言うのは、昔の楯跡がある所です。その石仏も楯跡と関係があるのではないかという期待もありました。

 写真の道路は、江戸時代までは背中炙り峠へ至る主要な街道でした。明治以降に県道が別のルートにできたので、農道程度に思われていましたが、歴史ある道です。石仏はこの道の直ぐ脇の土手の上でした。

 

 石仏は、石の祠です。畑沢では万年堂と呼んでいる形のものです。周辺の家々では、「稲荷様」と呼んでいたそうです。ここにもユキツバキが植えられていたようで、結構、大きな株になっていました。石祠の周囲はきれいに刈り取られていました。近くの家の方(大戸K氏)のお話によりますと、一時は藪だらけになって近づけなくなっていたのだそうですが、そのままにしておけない性分なので、刈り取って下さっているようです。

 石祠の周囲も春の雰囲気が溢れています。ウバユリ、カタクリ、笹筍が見えます。祠の中には卵のような二つの石が入っており、その石の真ん中には不思議な形の小さな石が入っていました。大戸K氏によると、祠の中に何もなくなっていたので、御神体になりそうな「ありがたい石」を拾ってきて、中に納めたそうです。こんな話を聞いていると、大戸K氏のお人柄が分かります。こんな先輩が畑沢におられることが、たまらなく嬉しくなります。


 石祠に向かって右側を見ると、年号と人名が刻んでありました。

明治三拾七辰年 八月四日設☐  ☐☐☐荷 有路庄次郎

と読めるような気がしました。「楯」の時代とは関係はないようです。有路家の家内安全を願って造立したものかと思います。明治37年ごろと言えば、畑沢でも大きな変化があったようです。「有路」姓の家々は、元々、畑沢の「向かい」地区に居住していたのですが、このころに居所を移すなどにより、家の守り神を家の近くに造立したものかと思います。このように畑沢の中で居所を移した場合には、移した場所に家の守り神を新しく造立した例が多く見られます。下畑沢ら中畑沢へ移った私の家もそのようです。

コメント
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