-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

畑沢地蔵庵(大改訂版)の追加‥‥考察みたいなもの

2016-06-06 21:49:29 | 歴史

 前回のブログで、畑沢地蔵庵に庵主が住んでいたことを投稿しました。庵主が居たのは、元禄15年(西暦1702年)から明治28、9年(西暦1895、1896年)までの間ということですから193年か194年間ということになります。その間に何代もの庵主が交代したことでしょう。江戸時代は、浄土真宗以外はどの寺の住職も世襲ではなく、全く血縁のない者が代替わりをしていたようです。それもそのはず、浄土真宗以外は妻帯が許されていませんでした。曹洞宗(禅宗の一派)である龍護寺に属している畑沢の地蔵庵は、当然、独身の庵主が住んでいたはずです。しかも、若い僧がどこかの住職になる前に、修行として一時的に庵主になっていたのではないかと想像しています。従って、庵主は畑沢に骨を埋めるのは、かなり例外的ではなかったかと考えてみました。

 しかし、そうは言っても、何らかの理由で衰弱するなどして死亡した庵主は、少なからず存在したでしょう。泰外は一つの石に一字ずつの法華経の文字を書き写すなどの過労などで衰弱したほかに、畑沢を襲った宝暦の大飢饉(1753~1757年)、天明の大飢饉(1783~1787年)などの災難に倒れた庵主もいたのではないかと思います。そこで気になるのが、地蔵庵の北東約30mの斜面にある二つの墓石です。如意輪観音の脇に横たわっています。村人の墓場は、当時こことは別の場所に四か所ありました。地蔵庵近くにある墓石は村人のものとは思われません。恐らく、地蔵庵の庵主のものと思われます。

 墓石は違うタイプのものが二つです。一つは一般人の墓石に用いられている形で、「智岳☐秋信士」の戒名が刻まれています。もう一つは、文字が一切なく、「無縫塔」という卵を逆さまにした形のものです。これは江戸時代には主に僧侶などの墓石として用いられたそうです。例えば、初代庵主の泰外は僧だったと思われますので、無縫塔が建てられた可能性があります。それでは、もう一つの墓石はどうでしょうか。まだ僧になっていない庵主か、又は庵主でない誰かということになります。もし、無縫塔が泰外のものであるとすれば、今から307年前の墓石となります。龍護寺に何らかの記録があるかもしれません。どなたかスビタレの代わりに確認してください。