去る2月24日に行われた上畑沢のオサイドで、初めて耳にすることがありました。早々とオサイドを燃やし終えて、延命地蔵堂で懇談している時のことでした。「せんだづやすぎ」なる言葉が出てきました。そのことを口に出した人も、その謂(いわ)れを知らなかったので、出席者に問いかけたようです。私も畑沢に生まれてからかなりの月日が流れて、どんなに訛った畑沢語でも、標準語に直すことぐらいはできます。「せんだづ」は畑沢でしばしば使われています。「△△へ出かけるときに、〇〇がせんだづして行った」などと使われ、「せんだづ」は先達のことで、「案内役」又は「指導者」的な意味です。「やすぎ」は、屋敷を意味していますが、単なる建物の敷地を意味するものではなくて、敷地とそれに連続する畑も含まれます。畑沢で「〇〇屋敷」と呼ばれているのは、先達屋敷の外に「他人太屋敷」と言われている所があります。こちらは以前、ブログで取り上げたことがあり、かなりのお金持ちでした。
さて、私も大いに興味が湧いたのですが、誰に聞いたらよいのかも分からず、途方に暮れていました。ところが、昭和2年に青井法善氏が著した「郷土史之研究」に次の記述がありました。
==========================
金剛院
金剛院は字荒町にある ‥‥
‥‥‥寛永年中 羽黒派の修験となり最上十七院の触頭となった。
延享四丁卯年四月
‥‥
畑沢
屋敷 一畝十歩 正学坊
畑 八畝十五歩 名主 九右衛門
‥‥
正学坊址
金剛院の支配下で延享四年四月調べ上げた帳簿の内にある正学坊の址 現今は畑となって先立屋敷といふてある 中畑沢と上畑沢の間右の丘の上である。
===========================
それでは説明します。正学坊は、山伏又は修験者と言われる者です。江戸時代までは、各村に山伏、修験、又は修験山伏などと表現される者が住んでいました。この者たちは、現代の山伏や神主とはかなり異なっていて、村の民間信仰や加持祈祷、相談役などを生業としていました。当時、民間信仰は沢山ありました。庚申供養塔に見られるような石仏を見れば、その数の多さと種類の多さにお気づきになると思います。畑沢にも石仏は50体近く残っています。山伏(以下、この表現にします。)は宗教に携わる者なので、「生業(なりわい)」と言うことには、抵抗を感じる方もおられましょうが、それで収入を得て生活するのですから、私は一般の生業と何ら変わらないとものと思います。しかも、山伏は寺の僧などと同じように、公租を免じられていましたので、普通の百姓たちから見れば、羨ましい限りの生業です。
前置きがかなり長くなってしまいました。この正学坊は金剛院という荒町の山伏をトップとする羽黒山グループ17人に属していました。正学坊は、湯殿山参りをする参詣者を先達する役割も持っていたことになります。これは推測ですが、正学坊は背中炙り峠を通る参詣者を担当したものと思われます。江戸時代は背中炙り峠を通る参詣者が多かったことでしょうから、正学坊の収入もかなり多かったのではないでしょうか。
羽黒山は、このころ天台宗に改宗していました。湯殿山は真言宗です。石仏「湯殿山」が山形県内ばかりでなく、県外の東北はおろか関東地方にも広く建てられています。それだけ湯殿山参りが盛んだったことが分かります。はて、天台宗である羽黒山のグループなのに、真言宗派の湯殿山詣でとはこれ如何に。そうです。かなり込み入った事情があったようです。宗派間の問題、奥之院の問題、時の権力者との関係等々があり、宗教は決して一途な信心だけでは済まない状態でした。あまりにも複雑なので、私には説明する根気と明晰さが欠けているということで、とりあえず本題に戻ります。
その正学坊の建物としての敷地面積は、一畝十歩となっていますので、現在のメートル法に換算すると、約700㎡になります。畑は八畝十五歩ですから約5,300㎡です。従って、先達屋敷全体では約6,000㎡になります。山伏としての収入の外にこれだけの土地面積を有するのですから、「広大な面積」と「羨望」の意味を込めて、畑沢の人たちは「先達屋敷」と呼んでいたことだと思います。
いよいよ、6月8日に先達屋敷の場所を探しに行くことになり、いつものように「行き当たりばったり方式」で、道路を歩いていた中畑沢のH.T氏に先達屋敷を知っているかを尋ねました。すると、驚くほどに詳しく御存じでした。私は極、少数の人しか御存じないと思っていたのですが、幸運にもその極、少数の人に最初からお会いすることができました。同氏によると、「先達屋敷は、甑岳に登る人たちを先達する者の屋敷で、上畑沢に入る直ぐ手前にある右カーブにあるブロック擁壁の上にある。今は杉林になっているだろう」ということでした。しかも同氏はその場所が畑になっていたことを覚えているとのことでした。私が知りたいことを完璧なまでに教えてくださいました。正学坊は湯殿山詣での先達だけでなく、甑岳詣での先達もやっていたようです。甑岳でも山岳信仰が盛んに行われたそうですから、このお話も信憑性が高いものです。背中炙り峠を越えて、新山村から登るルートがありました。正学坊は広範囲な仕事を持っていました。
教えて下さった場所に行ってみました。ブロック擁壁は直ぐに分かります。県道29号線の西側です。擁壁の高さも間知ブロック6段だけです。簡単に登ることができました。
擁壁を登り少し凹んだ地形をさらに登ると、平坦な地形が広がっていました。完全な平坦ではなく、緩斜面といったところです。一面、杉林になっていて、杉は胸の高さでの太さが40cmぐらいもありました。植えてから半世紀以上は経っているようです。屋敷跡に杉を全面的に植林してあります。比較的、手入れがされています。
「屋敷」の県道に面している側は、中央部分が道路側に岬のように突出していて、灯台が立っている岬のような形になっています。その突端からは甑岳を眺望できます。決して自然の地形ではなくて、ある強い意図をもって作られた地形に見えます。この場所には何らかの石仏のようなものがあったかもしれません。