不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

昭和5年の常盤村の人口

2017-04-01 20:40:36 | 歴史

 尾花沢市史編纂委員会が昭和51年12月に発行した「市史資料第三輯 郷土調査」には、昭和5年に尾花沢小学校、宮沢小学校及び常盤小学校が「郷土調査と学校経営」とした調査内容が記載されています。

 そこで、この資料から昭和5年当時の常盤村の様子を見るにあたっては、当時の全国的な状況を把握していただきたいと思います。などと言いたいのですが、私の高校時代の日本史については、江戸時代あたりまでしか覚えがありません。高校3年3学期の日本史の授業では、しばしば机の板が私の頬にぴったりと張り付いていました。とても現代史が頭に入るわけがありません。そんな私ですが、ブログ投稿上、長女が使っていた古い日本史の本を出して、俄(にわ)か勉強をしました。

 その勉強の成果を御披露いたします。まず、昭和5年の5に25を足すと30になります。そうですね、昭和5年は西暦1930年です。さて、1920年頃までは第一次大戦などの不幸なことがありましたが、幸い日本は大きな戦禍の外にありました。そればかりか、米国と日本は、ヨーロッパの不幸を尻目にして、ぼろ儲けしていました。戦争が終わっても消費がまだ伸びていないのに、飽くなき利潤を追求して過剰生産が続き、1920年代はたびたびの恐慌に襲われたそうです。特に1929年は大恐慌となってしまい、世界の経済はどん底に落ちてしまいました。日本の輸出産業は大きな痛手を蒙り、農家に関係が深い生糸が暴落して、農家の困窮は著しかったそうです。しかも、このころの小作地率、48.1%の最高を記録したそうで、小作農家の生産物は、半分を地主によって持っていかれます。小作農家は二重三重に苦しめられ、身売りなどの悲惨な光景があったようです。

 皆さんは、私のように日本史を粗末に扱っていないでしょうから、こんなことは既に御承知でしょう。それでは、常盤村の人口を見てみましょう。当時の3校からの報告書では、集落のことを「」「聚落(しゅうらく)」と記述していましたが、ここでは「集落」と統一いたしました。また、「郷土調査」のグラフは、漢数字を用いていましたが算用数字に置き換え、列の順序も左右逆にしました。右端には1家族の人数を計算しました。

 幕末期の畑沢の戸数は、50戸と言われていましたので、昭和5年までの62年間にに6戸が増加しています。1家族の人数おおよそ人ですので、3世代が一緒に住んでいるようです。これまでのデータに昭和5年を加えて、江戸時代からの戸数の変化を下図に示しました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする