-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

幕末期における畑沢出身の大スケールな人物(その6)-2

2014-02-23 12:30:12 | 歴史

天保13年(1842年)において、尾花沢代官が背中炙り峠の通行禁止を意味する差止めをしてから11年後、嘉永6年(1853年)に畑沢、細野、延沢の村々が代官への返答書という形で反撃に出てきました。我慢に我慢を重ねたが、とうとう我慢が出来なくなったという感じです。その返答書の全原文を次に掲載します。これは、尾花沢市史編纂委員会編の「村差出明細帳」から写したものです。長い文章ですので、解釈は次回にするとしまして、今回は原文のままで御覧ください。原文でもじっと見ていると、何となく分かるような気がします。古文書に挑戦です。背中炙り峠の万年堂が応援します。

 

乍恐以返答書奏申上候

 当御代官所羽州村山郡延沢村名主・惣内・新蔵・長兵衛・又兵衛・畑沢村名主源右衛門・組頭佐五兵衛・細野村名主善兵衛・組頭彦八乍恐一同奏申上候、同州同郡尾花沢村名主問屋兼帯清一郎・名主五郎兵衛・組頭弥九郎、土生田村問屋喜六・名主孫四郎、本飯田村名主問屋兼帯与右衛門御訴訟奉申上候ハバ、仙台其外当郡上郷筋江運送之諸荷物、延沢村より畑沢村地内字背中あぶりト申横道之峠を越、秋元但馬守様御領分楯岡村へ継立、且又同郡上郷仙台其外行之商人荷物ハ、右楯岡直ニ延沢村江継立、右様猥りニ相成候而ハ宿益ヲ失ひ、御朱印御證文御伝馬御用通り并諸侯様御荷物継立差支ニ相成難渋ニ付、先年大貫政治右門様御支配中、延沢村へ掛り御訴訟奉申上候処、追々御吟味之上右背中あぶり越之儀者、先前御定之賃銭も無之全横道ニ相違無之候間、以来御武家様方御荷物は勿論、諸荷物背負荷たり共、決而継立不仕様様御差止、且又同村出生之米穀畑産物共、上郷筋江駄送之分、右背中あぶり越御差止被置候義ニ御座候、然処其後猥ニ相成、延沢村畑沢村細野村出生之米穀并畑産物等者、上郷筋へ勝手ニ右背中あぶり横道駄送仕候ものも有之哉ニ相聞へ候に付、以来御武家様御荷物并他郡当郡商人荷物は勿論、右村出生仕米穀畑産物共、一切右背中あぶり峠越不仕、街道筋継送り候様被為仰付被成下置度候様、訴訟人より願上候

 此段惣内外七人返答奉申上候、右背中あぶり峠筋之儀者、往古奥羽国之太守秀衡公、平泉之居館江羽州之諸侯方往来之道筋ニ相違無之、故ニ日本道中記行程記ニモ顕然たり、且又最上出羽守義光山形在城之砌者、延沢能登守右背中あぶり峠往来被遊、其後寛永年中鳥居左京亮様御領分之節、延沢銀山大ニ盛り山ニ付、家数四万八阡軒在之、延沢村月六日之市立、出銀背中あぶり峠を通り江戸表江般出駄送仕、夫引継是迄商人荷物者勿論村々産物駄送仕来、全く横道而者決而無御座候、尚又楯岡村者鳥居左京様御所替以来御料所而、田口五郎左衛門様御支配之節迄尾花沢楯岡同御支配所、尾花沢モ楯岡モ同様に続而村々是迄楯岡村へ睦敷売買いたし、其の利潤を以村々御年貢御上納仕来、然ニ此節ニ到り新ニ背中あぶり道路差止ニ相成候者バ、百姓相続難相成退転之もの出来可申者歴然之義ニ御座候、一躰村山郡ハ穀物其外共、相互融通不致候而は、一群不穏基与乍恐奉存候、殊ニ延沢村之義ハ松平清右衛門様拾壱万石之御陣屋元ニ而、楯岡其外上郷筋延沢村御陣屋附ニ有之、御年貢金其外江戸表へ右背中あぶり駄送仕、尚仙台其外諸国御家中方背中あぶり峠尓今御通行被遊候処ヲ、横道抔与被申立候而者心外至極に奉存候、且又御上様ゟ被仰渡候ニ者、在方差送候品々誰方江成共勝手次第手広ニ差送可申、并川岸場之義是迄之仕来ニ不拘、何連之川岸成共都合宜敷場所ニ而船積水揚以致可申段、天保十三寅六月中日本中江御触モ有之、籾亦寛政十午年以来、米津越中守様背中あぶり峠御通行ニ而御巡検間々有之、御領分之米穀産物等是迄日々背中あぶり峠も長瀞表江駄送仕候処、尤背中あぶり峠之義ハ前奉申上候通畑沢村地内ニ而、右村々者東西嶽山ニ而平山与申者背中あぶり山斗ニ御座候、百姓農業第一之草苅秣場ニ御座候間、日雇人馬往来仕楯岡市ニ往来いたし百姓相続罷在候村方ニ候、尤極山寄之村方ニ候得者、農業之手透ニハ山励仕市場江運送致し上郷辺ニ而出生之品与交易仕、朝暮之煙ヲ立相続罷在候もの多人数有之村方ニ而、尚又細野村の義も畑沢村同様極深山谷間之村方ニ而、村高六百四拾八石七升七合家数八拾五軒有之、右村高家数江引足不申候得者、平年ニ而も夫食不足之村方ニ御座候間、外ニ金銭売替候品も無之山励渡世仕、畑沢村同様楯岡村市場へ運送いたし交易仕永方御上納差支モ無之往来仕来之村方ニ御座候、既に延沢・畑沢・細野村々へ大貫治右衛門様支配中、穀物其外産物等背中あぶり峠通路差止ニ相成候段、御役所被仰渡モ無之ニ付、往古是迄穀物其外共背中あぶり峠無滞駄送仕来、殊ニ荒町組ニ而者近辺野山無御座草苅秣場無之候ニ付、往古畑沢村江役永差出右背中あぶり峠へ罷越、日々通ひ草苅取罷在候組ニ候、然ニ右道筋差止ニ相成候而者、御田地相続モ出来不申誠ニ難渋至極に奉候、将私共村方之義者尾花沢村・土生田・本飯田村三宿、助郷村方ニ御座候処、訴訟人共申立之趣者、諸侯様方御継立事寄私共村方出産之産物まで、遠路を為廻荷口与名付銭ヲゆすり取、百姓之売物等負買仕存念与相見へ強欲無道言語道断語同断御座候、剰風聞承り候ニ尾花沢村ニ而者、助郷村々凡弐拾ヶ村程之村々、前年暮人馬雇銭与名付金銭請取置候村々方、御大名様方御通行之砌人馬不為差出、此分之人馬外村々へ割掛候間、夫故人馬割当格別多、前年請取金銭ハ全くシヨクニいたし、問屋職ニも不似合甚だ不正之もの共趣専風聞有之、若相違無之時ハ助郷村々百姓難行立、及難渋ニ難敷奉存候、既ニ先年取極之義ハ、近郷村々出生之産物大石田并外村々江附通し利潤の方へ売払候共、尾花沢村ニ而口銭酒代等ゆすり不取積ニ百姓惣連印之請證文、文化年中役人江差出ながら、此段反故ニいたし、外村々へ駄送之品差止支度旨御役所へ願出候段、甚だ不法之もの共ニ御座候、其上尾花沢小前之もの共、大勢雪中の砌延沢村地内字取上之橋を渡り、古殿組九日町組之持林を強制を以伐取候ニ付、古殿組ニ而者番人差出置百姓隙費不少、其上、御廻米大石田岸江雪車ニ而持候節、道作抔与名付銭をゆすり取、不差出ものニは喧嘩を仕掛、怖敷強制之振舞ニ御座候、尚又私共村々雪中之砌、船板并伐木等往古より大石田村迄引届仕来候処、近年ニ相成尾花沢村地内江差掛り候得者、右船板伐木等私共村方之もの江不為引、尾花沢村之者共強制を以多分之引代銭ヲ取、此故ニ船板伐木等格別下直ニ相成百姓損毛不少、此分ニ差置候ハゞ末々如何様之新規仕出候哉も難斗歎敷次第ニ奉候、右強勢強欲非道之始末逸々御賢察被成下さ置候上、従先前是迄通り背中あぶり峠諸荷物并村々之産物無差支駄送背負仕、村山一群穏ニ相成候様御慈悲ヲ以被成下置度奉願上候、何卒右訴訟人共御召出逸々御理解被仰聞被成下置度、幾重ニモ奉御願上候、前書願之通背中あぶり峠諸荷物并村々産物無差支駄送背負仕、村山一群穏ニ相成候様御慈悲ヲ以被成下置度奉願上候、何卒右訴訟人共御召出逸々御理解被仰聞被成下置度、幾重ニモ奉御願上候、前書願之通背中あぶり峠ヲ諸荷物其外村々出生之産物、道路無差支用被仰下置候ハゞ百姓永続仕、莫大之御憐慰与難有仕合ニ奉存候

右之段乍恐以返答書奏申上候 以上

嘉永六年丑九月

      当御代官所

         羽州村山郡延沢村

         返答人 名主 惣内

                新蔵

                長兵衛

                又兵衛

         同郡畑沢村

             名主 源右衛門

             組頭 佐五兵衛

         同郡細野村

             名主 善兵衛

             組頭 彦八

戸田嘉十郎様


幕末期における畑沢出身の大スケールな人物(その6)-1

2014-02-22 16:41:16 | 歴史

 長吉一件(1848年)で役人たちの不正を追及していたころよりも16年も前からずっと、畑沢では大変なことが起きていました。「尾花沢市史」及び「尾花沢市史の研究」の内容で説明します。

 天保3年(1832年)に、尾花沢代官から背中炙り峠を通ってはならないとの言い渡しが出ていたのです。畑沢村にとって、背中炙り峠は生活そのものですから、大変なことです。
 それでは、いったい何が起きていたのでしょう。その前に、ここで、時代背景を探ってみます。江戸時代になると宿駅制度というのがありました。幕府は、参勤交代、物資の輸送等を行うために、全国に街道を定め各地に宿駅を設置し、宿駅から次の宿駅へ荷物を運ぶ「継立」と称する輸送方法を取っていました。尾花沢周辺では、羽州街道(ほぼ現在の国道13号線ルート)を本街道と定め、本飯田、土生田、尾花沢、名木沢が宿駅となっていました。背中炙り峠を通る街道は、ルートに入っていません。しかし、江戸時代なっても延沢(野辺沢)銀山では盛んに金銀が採掘され、背中炙り峠がその搬送路として使われていました。また、金銀の搬送以外でも、背中炙り峠は、太平洋側から楯岡、山形、西村山への物資の搬送と旅をする際は、大変に使いやすい街道でした。太平洋側から奥羽山脈を越えるにあたって、宮城県側の漆沢、軽井沢を通って、現在の銀山温泉の奥の「上の畑」村へ抜ける「仙台街道」は、笹谷峠越えや二井宿峠越えなど山形県内の他のルートと比較して、標高が低く勾配が緩やかであるなどの点で優れた街道でした。

 また、そこから、楯岡、山形、西村山へ行くのには、背中炙り峠越えのルートは、最も短い距離です。とても、延沢から尾花沢を通って遠回りはしないでしょう。太平洋側からの荷物や旅人にとって、背中炙り峠越えルートを通行するのは、当然のことです。背中炙り峠越え街道沿いだけでなく、仙台街道に近い村々にとっても背中炙り峠は、生活の支えでした。


 ところが、江戸時代の後期になってくると、宿駅制度が疲労してきます。それは幕藩体制の疲労でもあります。大名はお金が不足してきて、参勤交代で宿駅を使っても宿駅に対する十分な支払いができなくなってきました。どの宿駅も収益が少なく、経営が苦しくなってきます。すると、今までは何にも言わないできた、背中炙り峠越えのルートを目の敵にしてきました。そこで、天保3年(1832年)に本飯田、土生田、尾花沢の宿駅が共同で、背中炙り峠越えのルートを使わないよう尾花沢代官へ訴えました。その内容は、次のとおりです。


① 背中炙り峠越えは、正式な街道ではなく脇道である。
② ところが、沢山の荷物が背中炙り峠を搬送されている。
③ そのために、本来の街道にある宿駅の利益が少なくなっている。
④ 背中炙り峠の通行を差し止めてもらいたい。


 宿駅側の訴えを聞いた代官は、とりあえず、背中炙り峠を通ることを一切、禁じてしまいました。そして、その10年後の天保13年(1842年)に、あらためて訴えの吟味が行われ、さらに峠付近の村の米、産物の輸送も差止られてしまいました。宿駅側の言い分を全面的に認めた内容です。
 これでは、背中炙り峠越え付近の畑沢、細野、延沢(荒町、古殿を含む。)、上の畑、六沢、原田などは、わざわざ、尾花沢を通らなければならなくなりました。当然、畑沢、荒町の峠越えによる荷駄運搬で生活していた人たちの困窮は、想像を絶するものだったでしょう。このことに対する村人と豊島☆☆☆たちの抗議は次回に投稿します。


幕末期における畑沢出身の大スケールな人物(その5)

2014-02-20 16:14:13 | 歴史

 豊島☆☆☆は畑沢出身であっても延沢村に移って久しいので、畑沢には直接的に関係する出来事が見当たりませんでした。ところが、弘化5年(1848年)の長吉一件から4年が過ぎた嘉永5年(1852年)、ここで初めて畑沢の記録に豊島☆☆☆が出てきます。
 背中炙り峠(現在の背炙り峠ではなく、古道の峠です。)には、大きな石仏「湯殿山」があります。側面にはそれぞれ次のように刻まれています。

向かって右の側面

  畑沢の名主格2人の姓名・建てた年号・「畑沢村中人足」


向かって左の側面

  当時の畑沢のリーダー2人の姓名・「豊島☆☆☆」
  その従者と思われる人物・「別当 金剛院」(荒町の八幡神社)


 一般に石仏の主催者は、「願主」として刻まれていますが、この「湯殿山」には、「願主」の文字を見つけることができませんでした。しかし、この石仏は豊島☆☆☆が主催者であるのは間違いないようです。台座を含めると、地上からの高さが約2.3mあり、畑沢の石切り場から運ばれました。この程度の大きさならば、集落近くには珍しいものではありませんが、馬車等が使えない山道の峠に標高差200mも上げることは並大抵のことではありません。もちろん、冬季に雪上を橇(そり)で運んだそうですが、それでも大事業です。かなりの資金力を必要とします。それは、豊島☆☆☆しかいません。このころ豊島☆☆☆55歳ごろです。


幕末期における畑沢出身の大スケールな人物(その4)

2014-02-19 16:09:19 | 歴史

 次に豊島☆☆☆の名が「尾花沢市史の研究」と「尾花沢市史」に出てくるのは、先の嘆願書が出されてから15年後のこと、豊島☆☆☆51歳です。直接、その事件に入る前に、そのころの時代背景を素人なりに説明しておきます。

 江戸時代、天領から徴収された年貢米は、大石田から最上川を下って酒田へ運ばれ、そこから日本海を西へ回って江戸へ運ばれます。その際、船賃などが村の負担になります。そればかりか、昔のことですから、倉庫も完全ではありませんし、船の中の設備も不十分極まりないものですが、途中で米が虫に食われたり更(ふけ)てしまった時も、村が負担しなければなりません。つまり、年貢を納めても、江戸へ運ばれる途中で減った分は全て村が負担しなければなりません。ところが、村が年貢米を船積みしても、船には村人が乗っていませんので、運ぶ途中での様子が分かりません。実際、不正なことがしばしば起きていたようでもあります。そのために、村人と船方との間では、トラブルが起きていました。それに対して、村名主(村役人)たちの考え方は、天保14年(1843年)の次の記録に出ています。


差上申御請証文之事
大石田三町ノ分尾花沢ニ引続船方役所モ有方河岸附並ノ場所ニテ他所ノ者共モ立入多ク百姓方船方兎角不合之趣相聞不穏趣、百姓ハ農業ヲ専ラ出精御国恩ノ難有ヲ辯ヘ他ニ不構朝ヨリ耕作ニ出、夕日入迄出精可致候。左候得バ船方與不穏ノ訳モ無之候。右之通可相守於不取用ハ急度事申付候。 

 この古文書の前の一部と後ろの一部が解読できませんが、大凡を次のように読み取ることができます。素人でも原文の字面を眺めていると、何となく意味が伝わってきますので、皆さんも挑戦してみてください。

―――――スビタレによる解読――――――――
 大石田には大石田と尾花沢の船の番所があります。その場所へ他の場所から来た者どもが立ち入っているのが多く、百姓たちは船方と兎角(とかく)合わないとの趣(おもむき;雰囲気)があるやに聞こえていて穏やかならない趣がある。百姓は専ら農業に精を出して、お国の恩を弁(わきま)えて他のことには構わず、朝から耕作に出て、夕日が沈むまで精を出すべきである。そのようにすれば、船方との間が穏やかならざる訳もなくなるのである。
――――――――――――――――――
 と言っているのですが、読んでいて段々と腹が立ってきます。要するに「百姓はつべこず言わずに、働いていりゃいいんだ」となります。これでは、村人には納得できません。とうとう、豊島☆☆☆が立ち上がります。最初、村の名主を通して村役人へ申し入れましたが、取り調べをしてくれません。それではと、代官所へ訴えました。弘化5年(1848年)二月に延沢村、古殿組、阿ら町組(この時は、畑沢村は入っていない。)の豊島☆☆☆ら3人の名前で、柴橋役所へ訴状を出しました。その内容の一部は次のとおりです。

 乍恐以書付奉願上候
当御代官所羽州村山郡延沢村阿ら町組古殿組百姓惣代☆☆☆吉兵衛源八乍恐一同奉申上候
御廻米川舟御積立之節さし取米並郡中入用之義ニ付同村役人共江相預置候越左奉申上候
一、 御廻米川舟御積立之節川岸場ニおゐて御米壱俵多ニ大成さしを以テ御米をさし取夫を板に取被成御改右米さし取以儘差戻し不致其の儘ニ差置是ニ而は俵之升目相減此分郡中一統之俵数ニ掛て見候時ハ多分之石数ニ相成損毛不少間以来は御米を俵江差戻しニ相成候様被成下置候ハハ御米俵之升目減不中百姓相助り可申候間此段差勤被下置度様口上を以村役人中江度々相預置候。
是ハ右之義去未三月中川岸ニおゐて村役人中江相願其後是迄同人共江度々相願置候義ニ御座候
―――――スビタレによる解読――――――――
 恐れながら書状を以て、願い奉(たてまつ)り候(そうろう)
当お代官所の羽州(山形県と秋田県)村山郡(大よそ、現在の東南村山、西村山、北村山にあたる。)延沢村阿ら町組(荒町)及び古殿組の惣代(総代)の☆☆☆、喜兵衛、源八が、恐れながら一同で申上げ候。
一、 御廻米(江戸へ運ぶ年貢米)を川舟へ積む時、川岸で一俵ごとに大成さし※で米を板に差し取って、そのまま俵に戻しません。これでは俵に入っている米が減ってしまい、村中の俵分となると、その量は多くの石高の損耗になってしまいます。今後は差しとった米を俵に戻してもらえれば、俵の内容量も減らないで百姓は助かること申上げ、このようにやって下さるよう口頭で村役人(村山郡の惣代)へ何度もお願いしてきましたが、預かり置かれた状態です。
このことは去年(弘化4年未)の三月中には、川岸場で村役人へもお願いをし、その後もこれまでに私たちは何度もお願いしてきました。

大成さし;米を検査する時に使う道具で、俵へ突き刺して米を取り出す物。具体的な形は分からないが、俵を使っていた昭和40年代ごろまでは、米を出荷する時に農林省食糧事務所による「米検査」と称する径2.5cmほどの金属の筒の上半分が切り取られた形をしている物が使われていました。「大成さし」もこれと同じような物だったかもしれません。
――――――――――――――――――――――――


 原文の解読は、まあまあこのようなところです。米を検査する役人とそれにグルとなっている人達のせせこましさが見えます。いつでも、どこでも、役人の悪いところです。そして、幾重にも搾り取られる百姓たちの苦しみと怒りがあります。

 ところで、この弘化5年の出来事については、「尾花沢市史の研究」と「尾花沢市史」にも掲載されていないものがあるようです。「尾花沢市史」には、訴えの内容について、さらに次の旨のことが記載されています。


―――――「尾花沢市史」の記載内容を要約――――――――――    
 弘化元年(1844年)に大阪へ運んだ年貢米についての役所の俵の受払状況、同年の二月から現在(弘化5年)までの年貢を江戸へ運ぶ廻米会所で各村々へ村山郡で割り当てた諸経費の内容、品物、会に来た書状及び上納した書状等を全部、見せてほしい。
 この件については、村名主を通して村山郡の惣代などへもお願いしましたが、聞き入れてもらえませんでした。私たちは安心できませんので、どうか、役所で明らかにしてください。
―――――――――――――――――――――

 というものでした。今で言うところの「公文書公開」を請求しました。秘密保護法とは、全く逆の考え方です。ところで、公文書公開条例を全国で最初に開始したのは、山形県金山町です。
 この件で、豊島☆☆☆は江戸へ行くように命じられました。延沢村の名主と豊島☆☆☆の親戚たちは豊島☆☆☆を救うために、帰してくれるよう必死に尾花沢役所へお願いをし、ようやく1年後に豊島☆☆☆は帰宅できました。


 豊島☆☆☆が江戸へ行っている間に、残された延沢村の名主と豊島☆☆☆の後継ぎたちが、今度は柴橋役所へ同年の3月に同様の訴状を提出しました。


 この一連の豊島☆☆☆の働きは、地域のリーダーとして身を挺して権力の不正に立ち向かったものです。これほどの覚悟と実行力が備わっていた人物は、なかなか現れるものではないでしょう。今どきのリーダーと自称する方々は、利権に群がり、強者に媚びて、弱者が虐げられても見向きもしません。
 ところで、この訴えの結果、役所がどのような措置を取ったかは、「尾花沢市史の研究」と「尾花沢市史」のどちらにも記述がありません。私の希望としては、「役人が訴えにより自らの非を認め、以後、正しく行われるようになった」となって欲しいのですが、どうでしょう。相手が役人ですから、どうなったか分かりません。でも、結果がどうあれ、豊島☆☆☆は、これで怯むような人物ではありません。専門家たちは、この事件を「長吉一件」と言っています。長吉といのは、人の名前のように見えますが、何故にこのような名称なのかは、この事件の内容からは推察できません。


幕末期における畑沢出身の大スケールな人物(その3)

2014-02-18 12:15:22 | 歴史

 豊島☆☆☆に関する歴史の記述に出てくるものは、最初の時期は天保11年(1828年)です。「尾花沢市史の研究」(昭和35年尾花沢市史料調査委員会発行)には、次の旨のことが書いてあります。


――――――――――――――――――
 元々、畑沢や延沢を含む尾花沢領は、徳川幕府が直轄していた所謂、天領でした。幕末になると、天領の変更が全国的に盛んに行われ、文政元年(1818年)ごろに尾花沢領から次の三か村が柴橋代官領に移されました。


松橋村(現在の船形村内)


荒町村

(畑沢の隣の荒町は延沢村に含まれるはずなので、どこの荒町かが分からない。)


工藤小路(現在の河北町内)


 ただ単に移されただけの場合は、何ら問題はないのですが、尾花沢領が減らされても尾花沢領全体における諸々の負担の量が変わらない仕組みだったようです。そうなると、当然、残された村人の負担が大きくなってしまいました。そこで、10年経った文政11年(1828年)に尾花沢領の村々48か村が立ち上がって、尾花沢領から減らされた三か村を元に戻すよう尾花沢領の代官へ必死に嘆願書を出しました。原文は次のとおりです。

 

前畧 私共郡中村高相減シ素より辺鄙困窮の土地柄而郡中村々之儀定例仕来り候而村用其外共壱村限り相弁シ候儀は格別郡中一統エ相拘り候儀は諸色入用共則郡中ニ而割合取斗来候間村々引請割合入用高自然与相嵩ニ次第ニ罷成必至与難儀仕候間依之村々一統評議之上得与勘弁仕候 後畧

 

 私には、まだ直訳する力が不足していますので、「尾花沢市史の研究」の解説を元にして説明します。書いてあることは、要するに、「尾花沢領から三村が減らされたために、残った村々が負担する役務が多くなってしまった。そして、辺鄙(へんぴ)な地域なので元々、苦しい所です。どうか御勘弁下さい」ということのようです。この嘆願書を提出した結果、7年後の天保6年(1835年)に工藤小路と松橋村が尾花沢領に戻ってきました。嘆願の一部が叶えられました。

 この嘆願書を出した48か村の代表が豊島☆☆☆でした。即ち、豊島☆☆☆は、このころ既に尾花沢地域全体のリーダーになっていたのです。当然、経済的に豊かだったと思いますが、決して畑沢の狭い耕地面積での富農は考えられないので、延沢村で多くの土地を所有していたのでしょう。当時の豊島☆☆☆の年齢は、推定31歳ごろかと思われます。実に若きリーダーが登場しました。この人物の活躍は、こんな程度では終わりません。


 ところで、豊島☆☆☆は天保7年(1836年)39歳のときに、荒町の八幡様(金剛院)に石仏「白山大権現」を建立しました。嘆願書の一件が決着した翌年にあたります。この石仏は、よく見ると「権現」の文字が消されています。尾花沢市教育委員会の専門家(私の師匠)によると、明治の廃仏毀釈によるものだそうです。実は、この背景には、出羽三山が明治以降に仏教である密教から神道に変わったことと深く関わっていると思われます。出羽三山の廃仏毀釈は凄まじいものがあったようです。金剛院は江戸時代まで、太平洋側からの湯殿山参りの人達を世話する立場にあったようです。湯殿山が神道になったので、金剛院もその流れにあったかと思います。

  豊島☆☆☆が建立した石仏「白山大権現」