-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

22年前まで畑沢には冬期分校がありました

2015-03-20 22:25:11 | 歴史

 私が現在進めている「畑沢のまとめ(仮称)」から、畑沢分校のところを以下に抜粋しました。

 

 江戸時代における畑沢の子どもたちの教育は、寺子屋として徳専寺が担っていました。明治になると寺子屋の役割が終わり、新たに学校制度が始まりました。畑沢では、下畑沢の地蔵堂(現在の地蔵堂は、平成年に建て替えられたものです。)が明治7年(1814年)から畑沢村だけの学校として始まり、その後、細野や延沢の学校と統合されたので分教場となりました。この地蔵堂が校舎として使われた歴史は長く、昭和29年まで実に140年間にわたります。ただし、昭和時代に「分校」と名前が変わりましたが、畑沢ではその後も「分教場」と呼ばれました。分教場となった地蔵堂は、昔々、庵主様が暮らしていた時代もあったほどですから、生活できる水場や便所は最初からありましたし、村人が念仏を唱えるために集まる大きな部屋も二部屋ありましたので、分教場には持って来いの場所だったことと思います。


 昭和30年(1955年)になると、分校(分教場)は地蔵堂での仮住まいをやめて、畑沢公民館との併設という形で新たに別の場所に建設されました。元々は菅戸家の畑とさらに隣接する山の一画も削って敷地を造成しました。現在の畑沢地区生涯学習推進センター(長い名称なので、以下「生涯学習センター」と言うことにします。)の場所です。現在の生涯学習センターの建物の場所に体育館があり、体育館の規模もほぼ生涯学習センター全体の大きさと同じでした。


 例えば、昭和34年の12月に畑沢分校で学んでいた子どもたちは、1年生が12人、2年生が13人、3年生は10人でした。その頃の分校の間取りを上図のように表してみました。確かな資料によるものではなくて、単なる記憶頼りの図です。多少、実際とは異なるものがあると思いますが、大方は表現されていると思います。二つの教室に三つの学年が入っているわけですから、二つの学年は一つの教室で一緒に学習する複式学級でした。一・二年生が一緒だったような気がします。分校の先生は、最初、畑沢の古瀬S氏と古瀬T氏でした。その後、細野地区の方からも先生になっていただいたようです。複式学級でしかも分校ですから、本校の子どもたちよりも学力が落ちるような言い方をしておられる方もいたようですが、全くそのようなことはなく、本校の子どもたちに何ら引けを取ることもありませんでした。


 宿直室は、建設してから暫くの間、常盤小学校に赴任した新任教諭の宿舎として提供されていましたが、その後、その役を小学校の先生と分校の先生をされていた古瀬Sh氏御一家が引き受けて下さった時期もありました。
分校のために畑沢の大人たちが労力奉仕する負担はかなりあったようです。いよいよ冬になり分校が始まろうとする季節には、大人たちが本校から机と椅子を方に背負って分校まで運び、屋根に雪が積もれば雪降しをやり、春が近づいて分校が終わる時期には本校まで机と椅子を本校まで背負っていきました。分校は父兄によって支えられていました。


 さて、分校での生活に関する思い出の一つに昼食風景があります。弁当を持参し、教室内で大きな火鉢で加温しました。大きな四角の特別製火鉢の上に、底が金網になっている加温する箱を載せ、中に弁当箱を入れます。底の方に置いた弁当は炭火に近いので、火力が強い時は焦げ付くこともありました。多少の不満もありましたが、温かい弁当は嬉しいものです。昼食時には、味噌汁の給食がありました。児童の母親が交代で2人ずつ、食材を持参して作ってくれます。お母さん方がその日その日に工夫して作りましたので、個性溢れる味が楽しめました。


 冬期以外は分校としての機能はありませんが、夏休み期間中における小学生の勉強会場でした。夏休みの間中は、朝8時ごろから10時ごろまで分校に集まり、小学生は勉強しなければならないのです。ただし、この場所を使うのは中畑沢の子どもたちだけで、下畑沢の子どもは「下のずんど様(畑沢地蔵堂)」、上畑沢の子どもたちは「上のずんど様(延命地蔵堂)」が会場です。勉強しているはずが、実はそうでもありませんでした。少なくとも、分校を会場にした中畑沢の子どもたちは、とりあえず勉強を始めるものの直ぐに飽きてしまい、「本日の遊びの計画」を開始します。天気がよければ、当然のごとく水浴びやザッコシェメの約束をします。


「今日はよう、ドンドン川の上の方でカズカ突ぎすんべ」


「んだが、んだら勉強なええがら直ぐんぐべは」


夏休み期間中の分校は、勉強どころか遊びを企む場所だったのです。今の子ども達は携帯電話などで遊びの約束をする者もいるようですが、当時の子どもは「勉強しなければならない」場も上手に利用して遊びの約束をしました。


 分校は公民館も兼ねていましたので、体育館では分校以外の用務にも使われました。年に何回かは、映画も上映されました。どこからかポータブルタイプの映写機が持ち込まれ、16ミリフィルムから日常とかけ離れた映像が飛び出します。赤穂浪士、旗本退屈男、百姓一揆などが上映され、映画の終わりには、視聴者から拍手がおこりました。映画は神楽などとともに村の一大イベントでした。婦人会は食生活改善運動でしょうか、料理講習会も頻繁に行なわれ、青年団も活発に活動し、分校の体育館で剣道、柔道の練習が行なわれました。分校兼公民館を中心にして、畑沢が活発に活動していた時代でした。


 分校が建てられてから26年後の昭和56年(1981年)には休校、38年後の平成5年(1993年)には廃校となり、畑沢冬期分校の幕を閉じました。

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もしかしたらユキツバキかなあ

2015-03-15 19:09:12 | 自然

 一昨年の秋、下畑沢の地蔵庵の周りを散策していたところ、地蔵堂の敷地の山手側(裏側)と如意輪観音が立っている場所ぐるりに椿らしき灌木が生い茂っていました。今は荒れた場所とは言え、昔は人の手が絶えず入っていた場所なので、園芸品種の椿が植えられているものと思っていました。確認さえもしなかったのですが、去年11月に白鷹山に登った時に、ちょっとした椿の群落があり、友人から「これはユキツバキだよ」と教えてもらいました。

 ユキツバキと言えば、私がまだ二十歳の頃、隣県でユキツバキを教えてもらったのですが、全く覚えようという気持ちがなく、そのまま忘れてしまいました。実に教えがえのないやつでした。その報いは、40年以上も経ってから現れました。全く、椿の種類を区別できません。どうしようもない馬鹿です。

 それを友人が救ってくれました。あらためてユキツバキを教えてくれたのです。しかし、直ぐには地蔵庵裏の椿に思いが至りませんでした。怠慢な生活と怠慢な頭脳は、怖ろしいものです。結びつくまでには、4か月ほどの月日を要しました。結びついたのは、突然のひらめきです。何の前触れもありません。ただ単にぼうっとしていた時に思いついたのです。

 さて、それではとユキツバキの何とか・かんとかと言うのを調べたところ、葉の形、鋸歯の状態、生育環境、国内での分布から、どうも地蔵庵裏の椿は「ユキツバキ」そのもののような気がしてきました。これまで、畑沢の山々を何度も歩き回ったのですが、椿の群落はおろか単独の椿も見たことがありません。ところが、ここの椿は大群落です。地蔵庵は江戸時代初期に建てられたものと考えられますので、そのころは、そこかしこにユキツバキの群落があったのかもしれません。その後、何らかの理由でユキツバキが選択的に伐採されたものかもしれません。昔は、絶えず炭焼きのために山の木が伐り倒されました。その伐採圧がユキツバキを極端に減らしてしまったのでしょうか。ところが、地蔵庵の裏は怖れ多いものとして、炭焼きの対象にならないで残った可能性があります。もしも本当にユキツバキだとすれば、畑沢のこの群落は村として誇れる自然の一つになります。

 

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背中炙り峠以外の畑沢村集落内の古道ルート

2015-03-06 10:02:15 | 歴史

 これまで背中炙り越えの古道については、何度か投稿してきました。中でも峠付近の古道のルートについては、素人なりに苦労しながら頑張って調べましたので、それなりの成果を上げることができました。しかし、背中炙り峠に入る前の畑沢村集落内での古道ルートについては、現地形での確認が困難なことと「ヘヤミ」な性格が災いして、全く進みませんでした。ところが、畑沢で先輩たちと雑談をしているうちに、少しの糸口が見えてきました。加えて、以前読んだ本をもう一度読み返したところ、さらに形が見えてきました。そこで、「畑沢のまとめ」に書き加えている所ですが、少しでも早く閲覧していただきたく、今回、いつものように恥をかくことも恐れずに投稿いたします。以下を御覧ください。

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下畑沢と中畑沢の古道ルート
 尾花沢市史編纂委員会発行「村差出明細帳」には、正徳四年(西暦1714年)に延沢領畑沢村名主の九右衛門らが、時の代官の秋山彦太夫に宛てた「正徳四年 畑沢村高反別村差出明細帳」があります。これには、次のような記述があります。


  ……
一、往還道筋ハ、堂か沢と申所ゟせなかあふり峠迠作り申候、御巡検之御通り之時分ハ、大山ニ御座候間、隣郷ゟ人足かり申候而、峠ゟ一之渡戸と申所を作リ申候
  ……


――現代語訳――


一、行き来する道は、堂が沢と言う所から背中炙り峠まで作りました。巡検が来られる時は、大山(現在の鶴岡市の大山地区)におられる間に近隣の村から人足を借りて、峠から一の渡戸という所までを作りました。

 

 昔、畑沢は堂が沢から始まるという認識だったようです。今ですと、松母の林を抜けると畑沢というイメージです。松母と堂が沢の間に住宅が建てられたのは、昭和になってからのようですので、昔は荒町の集落を出ると堂が沢まで何もなく、堂が沢の近くまで荒町が続いていたということだったようです。確かに、荒町の火葬場が松母の墓地を過ぎて、しばらく畑沢側に進んでから東側にあったような話を聞いたことがあります。暗くなってから学校からの帰り道では、怖い思いをして通りました。
 堂が沢から始まった畑沢の中を通る古道は、現在の県道と同じとの見方がありますが、別のルートの可能性をおっしゃる方もいます。そのルートを追ってみます。それは、堂が沢から岡田沢、山楯、荒屋敷を通る山沿いのルートです。昔の道は、山沿いにあるのが通例ですから、その可能性は十分にあると考えられます。堂が沢から岡田沢への山沿いの道は、今はありませんが、昔あったものがその後に不要となって消失した可能性があります。岡田沢から山楯、荒屋敷へ通じる道は、耕運機が一般的でなかった時代でも幅が2mほどあり、畔道にしては広過ぎるほどでした。江戸時代の街道としての基準である「七尺(約2.1m)」ともほぼ同じ幅です。ただし、岡田沢から山楯までの途中にある北の沢から荒屋敷までの道は、近年、自動車が通れる生活道として拡幅・舗装されましたので、昔の面影はありません。


 また、山楯のことについて、「南出羽の城」(保角里志著)に次のように書かれています。

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畑沢楯跡 下畑沢集落東の丘陵突端にあり、山楯や荒屋敷の地名があり、古瀬蔵人が楯主であったと伝えられる。楯跡には、階段状に曲輪があり、高所の主曲輪は畑地開発、先端の曲輪は住宅建設によって消失し、その間の二つの曲輪だけが残っている。縄張り図は、未作成である。なお、楯跡の前の道は、延沢と背炙峠を越えて楯岡・山形を結ぶ重要なルートであった。



 「山楯の前の道」とは、正に岡田沢から荒屋敷に向う道です。保角里志氏が、何を根拠にしてこのように断じているかは分かりませんが、現場の状況から見ても間違いないことのように思います。
 ところで、荒屋敷に住む大戸M氏によると、「下畑沢の地名が荒屋敷を中心にしたものになっている」とおっしゃっていました。そのことから古い道との関係を探ってみます。「西の沢」「東の沢」「北の沢」「南の沢」「向かい」の地名は荒屋敷からの方角です。荒屋敷が下畑沢の中心部であったことを伺わせるものです。確かに「向かい」の有路一族は、最上家の改易に伴う野辺沢家の領地没収後になってから畑沢に定着しました。その前には、「向かい」の集落は、なかったか又はほぼなかったとものと思われます。そうすると、当然、古道が荒屋敷を通っていたことは十分に考えられると思います。ただし、その後に変わったことも十分にありうることです。さて、荒屋敷に古道があったとしたら、そこから中畑沢へつながるには、千鳥川を渡らなければなりません。どの位置に橋があったのかは、難しい問題です。水田の改良工事が行われる前には、荒屋敷から旧分校の方へ進む畦道がありました。道幅は2mよりはずっと狭かったのですが、その近くに石仏「馬頭観世音」がありますので、一つの有力なルートと考えられます。
 さらに荒屋敷から中畑沢を通る昔の道は、ほぼ現在の県道と重なっていますが、古瀬K氏によると、昔の道は微妙に県道から左右に外れて山際に沿った形で曲がっていたそうで、その場所の一部が「作業場跡」「炭貯蔵庫跡」だそうです。それよりも南の中畑沢における古道のルートは、現在の県道と一致しているとも言われています。ところが例えば、江戸時代に関嶺(寒嶺)和尚が幼い頃に住んでいた場所は、稲荷神社への登り口ではなくて、もっと東側で千鳥川にほど近い場所だったという伝説もあります。そうだとすると、荒屋敷方面から続くルートが現道よりも東側にもあったのかもしれません。


 
下畑沢・中畑沢内の古道推定ルート(赤い線)


 
 上畑沢になると、そのような言い伝えもありませんし、昔の道型もないので、現道に沿ったルートのままなのでしょう。特に上畑沢の延命地蔵堂には、街道沿いに見られる沢山の石仏がありますので、街道がここを通っていたのは、間違いないことと思います。巳待供養塔が街道を挟んで延命地蔵堂の向かい側にありましたので、昔の街道が現道の位置とまったく同じであろうと思います。

 

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常盤中学校閉校に関する情報

2015-03-04 10:56:39 | 近況報告

 昨日(3月3日)に常盤公民館にお邪魔しました。その時に常盤中学校閉校に関する情報を入手しました。常盤中学校は、ことしの3月で閉校となり、4月からは鶴子地区も含めて、常盤地区の中学生は尾花沢中学校へ通学します。

 そのため常盤地区では、閉校の記念誌が作られていました。編集はとっくに終わり印刷も終わって、今週(3月6日)には全てが完了するとのことでした。来週の13日には、各地区の区長さんのお宅に地区ごとの分が配布されると言うことでした。古殿82冊、九日町79冊、袖原10冊、三日町53冊、荒町39冊、畑沢31冊、細野第一地区23冊、同第2地区52冊、六沢第一地区49冊、同第二地区67冊だそうです。どのような記念誌になったのか、楽しみです。私は入手できませんので、尾花沢市立図書館で閲覧させていただきます。

 閉校の記念式典は、3月22日に中学生の保護者を中心にして尾花沢で開催されるようです。私のように「昔の昔」に卒業した者は、これまで中学校の中でお世話になった方々と支えて下さった地域の方々に対して、会場外から感謝申し上げたいと思います。

 

 ところで、話は全く変わります。タラの芽です。五月に美味しく天ぷらで食べるこの山菜も、まだまだ小さな小さな蕾です。早く来ないかなあ、「春よ来い、早く来い」

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