-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

畑沢地蔵庵(大改訂版)

2016-06-05 18:11:29 | 歴史

 畑沢地蔵庵はもう3年も前に投稿しましたが、このたび青井法善氏が書いた「郷土史の研究」を拝見することができましたので、比べ物にならないほどに新たなことが分かりました。そこで、今回、内容を全面的にあらためて再度、投稿いたします。

   畑沢地蔵庵

 下畑沢にある熊野神社の北北西数十メートルの位置にあります。熊野神社が県道からよく見えるのに対して、地蔵庵は山の陰に隠れています。

 「郷土史之研究(青井法善著 昭和二年発行)」に詳しい記述がありました。「郷土史之研究」に掲載されている原文は以下のとおりです。なお、「郷土史之研究」は縦書きでしたが、書面の都合により横書きにさせてもらいました。

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出羽國村山郡畑沢村地蔵庵地蔵菩薩は恵心僧都の御作なり 此由来を委しく尋ねるに元禄十五壬午の年 武州高麗郡中山能仁寺弟子泰外申禪僧諸国行脚の志 まいりて 三十にして當所源右衛門方に立より一夜の宿を乞い二三日逗留 熊野山を見 此処に住庵せばやと堂へ少しの造りをいたし永く住所にせんと思はれければ法華経一部一石一字を書寫し供養塔を建立す。

彼僧故郷に地蔵尊を安置せりとて下し給はんと上り行き尊像を守り下りしかば源右衛門庄右衛門世話し二間半に三間の庵をつくり安置し奉る 一夜のうちに清水出づ 地蔵水と名づけけり

庵 も地蔵庵と名つけ本寺は龍護寺と定めたり 泰外大に悦ひお守り申せしが宝永六年三月十五日(二一三年前)往生せり 當庵の開基なり。

又羽入村尊寿院と申修験最上四十八ケ所を尋ね當所四十番目の札所に入給ふ。

御詠歌に

「後の世のたすけのかてと今ここに ほたひのたねを植える畑沢」

追加「田もまもるほさつのちかひましませば 五こく豊かにみのるはた沢」

 

施主 有路源右衛門   代々源右衛門あつかる

   古瀬庄右衛門

 寛政二年庚戌二月(一三七年前)鉄心敬誌

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注 

 一部に変体仮名が使われていましたが、パソコンで表示不能でしたので現代の仮名にしました。


 

 上の内容を大まかに次のとおり現代語にしてみました。

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畑沢村地蔵庵の地蔵菩薩は、恵心僧都が作った。

 元禄15年(西暦1702年)に武州高麗郡中山(現在の埼玉県飯能市中山)の能仁寺の弟子である泰外という禅僧が諸国を行脚する志を持って、三十歳の時に当所の源右衛門方に立ち寄り、一夜の宿を乞うて二三日逗留した。熊野神社を見て、ここに庵を造って永く住もうと思ったので、法華経の一部を一石に一字ずつを書き写して供養塔を建てた。

この僧は故郷に安置している地蔵尊を持ってきた。源右衛門と庄右衛門の世話によって二間半と三間の大きさの広さの庵を造って、ここに地蔵尊を安置した。すると、一夜のうちに清水が湧きだして、それを地蔵水と名付けた。

 庵の号を地蔵庵と名付け、庵が従属する寺を龍護寺と定めた。泰外は大いに喜んで地蔵尊を守っていたが、宝永六年(西暦1709年)3月15日に死亡した。地蔵庵は泰外が創始者となった。

 羽入村(現在の東根市羽入)の尊寿院という修験者(現在の修験者とはかなり異なる。)が最上48か所を訪ねて、畑沢の地蔵庵を40番目の札所に入れた。

 (御詠歌省略)

施主 有路源右衛門 代々源右衛門が預かる。

   古瀬庄右衛門

寛政2年(西暦1790年)2月 鉄心敬誌之

 「敬誌之」の意味が分からない。記述者が用いる謙譲的な語句か

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 庵の広さが二間半と三間ですから7坪半となりますので、例えば間取りを六畳間が二室、外に土間などとすると、一人が暮らす最小限度の広さではないかと思われます。

 初代の庵主である泰外が暮らしたのはたった7年だけで、しかも37歳前後と随分、若くして亡くなったようです。関東から慣れない東北の雪国に来て、しかも源右衛門と庄右衛門の世話になっている禅僧の立場ですから、かなり質素な生活をしていたであろうことが推察されます。住環境も食事もこの若い僧の寿命を縮めてしまったのではないでしょうか。

この庵主はその間に、熊野神社の南東にある石仏「大乗妙典一部大恩教主釈迦牟尼仏一石一字一禮」の下に埋められている平たい石に、法華経を書き写した僧でもあることが分かります。

「郷土史之研究」によると、その後も庵主が代々暮らしていましたが、明治28、29年(西暦1895、1896年)ごろから誰も住まなくなったそうです。明治8年にこの地蔵庵で学校が始まりましたので、20年間ほどは庵主が住んでいる場所で学校が行われていたことになります。さて、この「縁起」は源右衛門が持っていたようですが、既に源右衛門家は畑沢になくなっているので、果たして何処に保存されているのでしょうか。

ところで、今の建物は近年、建て直されています。少なくとも昭和40年代までは、古い建物があったことを覚えています。写真でも分かりますように、現在の建物の周囲には、平坦な敷地が余裕を持って広がっています。昔はこの敷地いっぱいに建物が建っていました。部屋数も二室以上あったと思います。その中の一室はかなり広くて、数十人は集まれたと思われます。集会場の役割もあったのでしょう。昭和22年までに生まれた年代は、ここで冬季分校として学んだようです。当時の言葉で「分教場」と言っていました。

地蔵庵の直ぐ南側に湧き水(井戸とも言える。)がありますが、昔はこの湧き水も古い建物の中にあり、炊事もできました。その湧き水は現在も残っており、きれいな湧水が満たされています。「郷土史之研究」に出てくる「地蔵水」はこれを指すものと思われます。

地蔵庵の極、近い場所にも別の湧き水があります。中及び上畑沢の子ども達は、下校途中での喉の渇きをここで満たすことができました。

この地蔵庵についても、「郷土Ⅱ」の資料10「有路家系譜」に記述がありました。

以下は関係部分の抜粋(縦書きを横書きに変更)

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有路家系譜

       幼名 源六後源右衛門改以下

  昌昴  代々同元文二年二月二日卒去八十七歳

       二男伝九郎及び昌昴ノ弟善四郎分家

       熊野社地蔵堂ヲ造営

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 「地蔵庵」ではなくて「地蔵堂」となっていますが、同一と見て間違いないでしょう。昌昴の死亡時期とその時の年齢から察するに、この人物の生存期間は西暦1651年~1737年と推察されますので、庄右衛門とともに地蔵庵を建立した源右衛門は、初代「源右衛門」であるこの昌昴でしょう。

 

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畑沢の大先輩が書かれた歴史資料を見せてもらっています。

2016-06-01 20:40:33 | 歴史

 去る5月29日に細野地区で行われた山登りのイベントで、畑沢に所縁のある方が三人おられたことは、前回のブログで報告しました。その三人の中のお一人が重大な情報を教えてくださいました。その方のお祖父さんが昭和二年に畑沢の歴史をまとめられたとのことです。しかも、それを見せていただけると約束してくださいました。翌、30日に私にその資料を郵送してくださいました。うれしい限りです。

 届くやいなや、早速、内容を拝見しましたところ、素晴らしい内容です。今では到底、入手できないことばかりです。例えば、下畑沢の地蔵庵、中畑沢の稲荷神社、下畑沢の稲荷神社、上畑沢の先達屋敷、下畑沢の経塚、金剛院を中心とした山伏等々です。私がどうしても入手できなくて、詳しく調べられなかったことが書いてあります。昭和二年(西暦1927年)に、当時の徳専寺住職の青井法善氏が書かれたものです。今から90年以上も前ですから、まだ朽ちていない豊富な伝説と資料が残っていた時代です。これで、私の貧弱な説明を大幅に強化することができます。これから、少しずつ取り上げて皆さんに御披露いたしますので、どうか適当な程度(どうせ、私ができるのは限られています。)に期待してお待ちください。

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