-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

畑沢のお盆ももうすぐ

2016-08-12 18:17:42 | 近況報告

 お盆が間近に迫ったので、昨日(8月11日)畑沢へお墓の掃除にいきました。猛暑日(最高気温35℃以上)ではないのですが、朝から太陽がカーっと照りつけて猛暑でした。こんなに暑い8月上旬ならば、昔は夏休みで元気な子どもたちの声が聞こえてきたものですが、今はひっそりと静まり返っています。小学生が誰もいないので、子どもの声が聞こえないのはしょうがないのですが、大人の姿も見えません。暑くて暑くて、大人も外に出たがらないようです。

 写真の奥に、昔、水遊びをした場所があります。千鳥川が山際にぶつかっている中畑沢のとある場所です。1mぐらいの落差でちょっとした滝のようになっていますので、所謂、滝壺(たきつぼ)のような所が深くなっています。子どもたち(私たち)は、その下流を藁(わら)と川の石で堰き止めて、小さなプールを作っていました。このような暑い日は、その場所に入り浸りでした。川ではしゃぐ子どもたちの甲高い声と、子ども達が足をバタつかせて水面を叩くドーンドーンという低温が、遠く離れた県道まで聞こえたものです。

 思い切り畑沢の奥へ進んでみました。というのも、5月29日に細野地区で行われた大平山登山で知り合いになった方が、畑沢に来ているかもしれない思ったからです。毎日曜日に来ているということでしたが、この日は休日なので「もしや」と思い付いた訳です。あいにく、来ておられませんでした。しかし、間近に見える大平山が素晴らしかったので、さらに近づいて撮影しました。


 畑沢でも、他の地区同様に熊も猪もカモシカも農作物を荒らす危険性が増してきました。田んぼの周りに風でキラキラと光るテープが張り巡らされています。


 弁当をべてから、ようやく墓地の草刈りに行きました。既に皆さんは草刈りを済ませており、我が家の墓が一番と遅くなったようです。最近は鎌での草刈りよりも、除草剤が多く使われています。

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ホオジロ

2016-08-09 18:27:47 | 自然

 連日の暑さのせいでしょうか、体力自慢のはずの私が少々、ばて気味です。そのために出かけるのが億劫になっていて、畑沢へも2週間ほど行っていません。間もなくお盆なので様子も見たいのですが、体が思うようになりません。特に頭の中がぼーっとしています。「それは、いつものこと」と思われる方もおられるでしょうが、いつも以上に「ぼーっと」しているのです。まるで、空腹状態の時と似ています。電気工事士の技能試験に合格でもすれば元気になるのでしょうが、9月2日まで合否が分かりません。もしかして、合否を聞いてさらに落ち込むことになるのではないでしょうか。

 そんなことで、出かけずにパソコン内の写真を整理していましたら、鳥が出てきました。鳥の好きな人は高倍率の望遠レンズできれいに撮影するのですが、私のバカチョンカメラでは、いくら拡大してもたかが知れています。それでも精一杯に頑張りました。

 

 ホオジロという鳥だそうです。目の下が「頬(ほほ)」に見立てたのでしょう。そこが白いということのようです。白いのは頬だけでなくて、眉にあたる部分や喉にアたるも白い様なのですが、それらには着目しないネーミングです。ん、私の悪い癖が出ました。いちゃもんです。御免なさい。

 さて、この鳥は背中炙り峠に向かう道端で見ました。何十年も前から度々見かけていて、名前を知りたかった鳥でしたが、魚と飛行機以外はとんと疎い私には、鳥の名前などは到底、頭に浮かぶはずもありません。ところが、かろうじて写真に収めることができましたので、図鑑で検索することができました。ホオジロは、背炙峠のほかにも、畑沢から五十沢へ抜ける山道沿いでもよく見かけます。

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あのころ細野村でも作っていました

2016-08-04 19:25:37 | 歴史

 細野村の天満神社を見に行った時に、その途中で大きな石仏「湯殿山」を見つけました。荒町の中央部分から東へ曲がると細野地区へ行くことができます。朧気川に架かっている橋の手前の左側に大小の石仏が立っています。

 左側の大きな湯殿山は土台を含めると2.5m近くもあります。中央の中ぐらいの石仏には、「大治明神」と刻んでありました。裏には江戸時代に天領だった時の三人の奉行の名前があります。最も右側の石仏は「象頭山」です。

 この湯殿山に刻まれている年号は、「文化九年壬申五☐」です。西暦1812年です。ここで、畑沢の湯殿山を思い出しました。畑沢の湯殿山は、この前の年、文化八年のものです。畑沢の湯殿山というのは、上畑沢の地蔵堂の北側に立っているもので、高さが3mぐらいあります。伝説の大富豪、古瀬吉右衛門が願主になっています。

 そこで、乏しい頭脳でこんなことを想像してみました。

 文化八年に畑沢で巨大な湯殿山が建てられた話は、直ぐに隣の細野村でも大きな噂になりました。細野村と畑沢はとても密接に結びついています。細野村は、畑沢村の四倍もの規模があります。「畑沢でさえ、あれほどの湯殿山を建てたのだから、我が細野村でも大きな湯殿山を建てよう」。話は直ぐにまとまり、たちまち翌年には細野村の奥から石材を切り出して、建ててしまいました。石材に太く、深くしっかりと「湯殿山」と刻みました。ところが、畑沢の湯殿山の裏面には、「象頭山」も刻んであります。細野村の人達も、湯殿山が完成した後にそのことに気づきましたが、湯殿山の裏に「象頭山」と刻むことをためらいました。そこで、あらためて金毘羅参りをして勧請してもらい、別の石材に「象頭山」と刻みました。年号は「文化」の「文」だけが見えます。

と、粗末な物語を御披露しましたが、まあ案外とこんなものかもしれません。

 古殿にも大きな湯殿山がありますので、もしも年号が分かれば、いろいろと想像するのも面白いと思います。尾花沢市総ての石仏は、尾花沢市教育委員会に勤務していた大類〇〇〇氏が調べ上げています。社会教育委員会にお願いすると、見せていただけますので皆さんも御覧になって下さい。

 さて、「大治明神」は大飢饉のときに領民の救済に奔走してくれた奉行を讃えたものです。有名な奉行は、辻、大貫ですが、ごめんなさい。もう一人が出てきません。

 

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畑沢もあっづえなあ

2016-08-02 17:53:53 | 自然

 一昨日は7月最後の日、畑沢も猛暑でした。気温が高いだけでなくて、湿度も最高でした。その中で私は草刈りに精を出したのですが、全身から汗が流れ、いくら水を飲んでも喉の渇きは治まりません。遂には頭がくらくらしてきました。ほぼ熱中症状態にあったのかもしれません。体力の限界を感じて作業を中止しました。

 肉体労働を止めてもまだ元気が出なかったのですが、せっかく畑沢へ行ったのでカメラを持って散策です。中畑沢から下畑沢方向を見ました。こうして見ると、昔よりも杉林が多くなりました。杉を植えても伐採しませんので、杉林は年々大きくなります。

 大きくなっているのは、杉ばかりではありません。千鳥川の中で葦などがすくすくと伸びて、人間が入り込めないようになっています。勿論、水面は見えません。千鳥川に限らず、何処の川もこんな状態です。昔はこんなことにはなりませんでした。どうして、このようになったのでしよう。

 でも稲は昔のままに成長しています。写真の稲は早生種ですので、他の稲よりも早く花を咲かせていました。

 川の脇にカンゾウが咲いていました。これも実に伸び伸びと成長しました。色も鮮やかです。

 畑沢から山形へ向かう途中、松母入り口でウバユリの花を見つけました。以前からウバユリの花を写真に納めたかったので、絶好の機会を得ました。ところで、「ウバ」とは姥の意味です。それなりの花を咲かせているのに、「姥」とは申し訳ない名前を付けられたものです。そして、名前も正しくはオオウバユリだそうですが、まあ私にはそういうことは分かりません。

 花をアップして御覧ください。確かにユリの仲間のような形をしています。でも、私が関心を持っているのは、地下の鱗茎が食べられるということです。いつか食べてみたいです。

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細野村の天満神社(伝説)

2016-08-01 17:17:26 | 歴史

 畑沢の隣村である細野村に関わる伝説が、青井法善氏が著した「郷土史之研究」にありました。細野は畑沢とは大変に仲の良い村ですので、その伝説を紹介いたします。

 以下、「郷土史之研究」の原文です。

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 天満神社

 天満神社は字幅にあって菅原道真を祀ってある

 傳説に曰く當村鎮座天満神社は菅原朝臣道真公大宰府に左遷せられ若君菅秀才 都嵯峨野之奥に身を寄せられしが時平の謀らへ☐て河内國道明寺に北の方の叔母君何がしの尼の住せられるに勅掟を以て此度菅秀才東國奥へ流罪の趣申渡されける故近江路より北國に出て御船に召され出羽の象潟の津に上陸あり 漢満寺といふ処に三泊の上出発酒田に出て日を経て毒沢の下に船を休め此地に休息をなし(此地を後にべんけい笈☐て渡りしとて笈渡りの天満神社ありといふ)尚登り来りて細野に徘徊し三蔵院に旅の疲れを休めたりしに其夜父君道真公は  出現ありて 我時平の鑱言により筑紫に流罪今将に相果てたり其許も何時か世に出るの期あらん此の地の奥に天拝山に似たる山なり(御堂森の事か)我戀しく思ふなり故に我が姿を刻み此地に遺すべしとの御告を蒙り翌日三蔵院共々村人の懇志を受け神体を刻み一宇を建立して安置せりと之れ即現今尊崇し奉る天満神社なり。其後社殿に奉仕方を三蔵院に托し身は當地を発足し夜國(今の小国のことならん)の山道を過ぎ岩手山栗原の里を通られ日を経て御配所陸奥の國い津くしの荘岩井の陣屋に着せられしとな☐

 毎年三月廿五日祭典を行ひ社殿の所在付近を今尚天満原といふ

 元の社殿は慶應二年字幅大火の際消失したり

 お木造は火災の時五十嵐長吉未だ幼少の時なりしが社殿より出したれば今も昔のままに☐れり世に虫食天神と称せり

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 以上が原文です。これを次のように現代語にしてみました。

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天満神社

 細野の巾地区にある天満神社には、菅原道真が祀られている。細野村に鎮座している天満神社については、伝説で(次のように)言われている。

 菅原朝臣道真公が大宰府(現在の福岡県太宰府市にあった地方の行政府)に左遷させられた。若君の菅秀才(かんしゅうさい)は、都の嵯峨野の奥に身を寄せていたが、時平の謀(はかりごと)によって、河内の国の道明寺(今の大阪府藤井寺市)に道真公の奥方の叔母にあたる尼が住んでいた所に、天皇の命令により東国の奥へ流罪となることが言い渡された。そのため、菅秀才は近江(今の滋賀県)の北へ出て船に乗り、出羽の象潟(今の秋田県象潟で、昔は松島のような海だった。)の港に上陸した。蚶満寺(かんまんじ)という所に三泊してから酒田へ出て、何日か経って毒沢の下で船を休めた。この場所を後に弁慶が笈で渡ったとして、「笈渡りの天満神社あり」と言う。

 さらに上流に登って細野の中を歩き回って、三蔵院で旅の疲れを休めている夜に父親の道真公が表れて、

「私は時平の讒言によって筑紫に流罪となった。今、将(まさ)に相果てた。お前もいつか世に出るときがあるだろう。この地の奥に天拝山(てんぱいざん)に似たる山(御堂森のことか)がある。私は恋しく思っている。だから私の姿を刻んでこの地に遺してほしい」

との御告げがあった。

 翌日、三蔵院ともども村人の助力を受けて神体を刻み、お堂を建てて安置した。これが現在、尊崇している天満神社である。その後、社殿への奉仕を三蔵院にお願いして、菅秀才は細野村を発って、夜に国(今の小国のことだろうか)の山道を過ぎ、岩手山栗原の里を通られて、日数を経て、言い渡された場所である陸奥の国い津くしの荘岩井(今の「磐井」か)の陣屋に着いたということである。

 毎年、三月二十五日に祭典を行っていて、社殿がある辺りを今でも天神原と呼ばれている。元の社殿は慶応二年(西暦1866年)に巾地区が大火になった際に焼失した。火災の時に、五十嵐長吉はまだ幼かったが社殿から木像を出した。(同氏によると、)木像は今も昔のままに残っているそうだ。世に「虫食天神」と呼ばれている。

 

注1 笈;修験者などがランドセルのように背負っていた箱型の入れ物。

注2 天拝山(てんぱいざん);福岡県筑紫野市にある小高い山で、菅原道真が自分の無実を訴えるべく何度も参拝したとの伝説が残る

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 この伝説を考えてみますと、「菅秀才」という人形浄瑠璃などに出てくる人物名や、平安時代での山伏の存在にはかなり難しいものがありますが、大変、スケールが大きい物語になっていて面白い内容です。常盤地区には、全国規模の伝説が残っています。この菅秀才の時代からさらに三百年以上も下った1221年の承久の変で、佐渡に流された順徳天皇が最上川を遡り、さらに丹生川に上って落ち延びたという伝説が残っています。一方、細野の菅秀才の伝説では、朧気川を遡ったことになります。丹生川も朧気川も常盤地区の大きな立派な川で、その源流は行き止まりになっていますので、隠れ場所の伝説には持って来いです。その点、畑沢の千鳥川では、そうはいきません。背中炙り峠越えの大きな街道が走っていますので、隠れる場所がありません。

 天満神社の場所は下の看板から探して下さい。細野地区で最初の建物に架かっていました。

 天満神社の境内には高く伸びた杉があり、遠くからでも天満神社の場所が分かります。

 

 神社の鳥居です。一見、コンクリート製かと思いましたが、これが石造りですから驚きです。よくもこれほどの石材があったものです。

 

 鳥居の裏側には、「寛政十一☐未天」の文字があります。「天」は「年」の意味です。西暦1799年に建てられたもののようです。天明の大飢饉から12年経っていて、まあまあ落ち着いていた時代だったかと思います。畑沢では、古瀬吉右衛門が元気に活躍していたころです。

 鳥居の石材を近づいて確認しました。凝灰岩のようですが、1cm程度の小さい硬質頁岩が混じっています。細野地区は硬質頁岩が多く産する地域ですから、この石材も細野地区で産したものと思われます。昔、石材は地元の物を使っていたそうです。それにしても、長大な石材を採れる石切り場なようです。

 長大な物を採れる点では、畑沢の石材よりも優れているかもしれません。

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