畑沢の隣村である細野村に関わる伝説が、青井法善氏が著した「郷土史之研究」にありました。細野は畑沢とは大変に仲の良い村ですので、その伝説を紹介いたします。
以下、「郷土史之研究」の原文です。
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天満神社
天満神社は字幅にあって菅原道真を祀ってある
傳説に曰く當村鎮座天満神社は菅原朝臣道真公大宰府に左遷せられ若君菅秀才 都嵯峨野之奥に身を寄せられしが時平の謀らへ☐て河内國道明寺に北の方の叔母君何がしの尼の住せられるに勅掟を以て此度菅秀才東國奥へ流罪の趣申渡されける故近江路より北國に出て御船に召され出羽の象潟の津に上陸あり 漢満寺といふ処に三泊の上出発酒田に出て日を経て毒沢の下に船を休め此地に休息をなし(此地を後にべんけい笈☐て渡りしとて笈渡りの天満神社ありといふ)尚登り来りて細野に徘徊し三蔵院に旅の疲れを休めたりしに其夜父君道真公は 出現ありて 我時平の鑱言により筑紫に流罪今将に相果てたり其許も何時か世に出るの期あらん此の地の奥に天拝山に似たる山なり(御堂森の事か)我戀しく思ふなり故に我が姿を刻み此地に遺すべしとの御告を蒙り翌日三蔵院共々村人の懇志を受け神体を刻み一宇を建立して安置せりと之れ即現今尊崇し奉る天満神社なり。其後社殿に奉仕方を三蔵院に托し身は當地を発足し夜國(今の小国のことならん)の山道を過ぎ岩手山栗原の里を通られ日を経て御配所陸奥の國い津くしの荘岩井の陣屋に着せられしとな☐
毎年三月廿五日祭典を行ひ社殿の所在付近を今尚天満原といふ
元の社殿は慶應二年字幅大火の際消失したり
お木造は火災の時五十嵐長吉未だ幼少の時なりしが社殿より出したれば今も昔のままに☐れり世に虫食天神と称せり
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以上が原文です。これを次のように現代語にしてみました。
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天満神社
細野の巾地区にある天満神社には、菅原道真が祀られている。細野村に鎮座している天満神社については、伝説で(次のように)言われている。
菅原朝臣道真公が大宰府(現在の福岡県太宰府市にあった地方の行政府)に左遷させられた。若君の菅秀才(かんしゅうさい)は、都の嵯峨野の奥に身を寄せていたが、時平の謀(はかりごと)によって、河内の国の道明寺(今の大阪府藤井寺市)に道真公の奥方の叔母にあたる尼が住んでいた所に、天皇の命令により東国の奥へ流罪となることが言い渡された。そのため、菅秀才は近江(今の滋賀県)の北へ出て船に乗り、出羽の象潟(今の秋田県象潟で、昔は松島のような海だった。)の港に上陸した。蚶満寺(かんまんじ)という所に三泊してから酒田へ出て、何日か経って毒沢の下で船を休めた。この場所を後に弁慶が笈で渡ったとして、「笈渡りの天満神社あり」と言う。
さらに上流に登って細野の中を歩き回って、三蔵院で旅の疲れを休めている夜に父親の道真公が表れて、
「私は時平の讒言によって筑紫に流罪となった。今、将(まさ)に相果てた。お前もいつか世に出るときがあるだろう。この地の奥に天拝山(てんぱいざん)に似たる山(御堂森のことか)がある。私は恋しく思っている。だから私の姿を刻んでこの地に遺してほしい」
との御告げがあった。
翌日、三蔵院ともども村人の助力を受けて神体を刻み、お堂を建てて安置した。これが現在、尊崇している天満神社である。その後、社殿への奉仕を三蔵院にお願いして、菅秀才は細野村を発って、夜に国(今の小国のことだろうか)の山道を過ぎ、岩手山栗原の里を通られて、日数を経て、言い渡された場所である陸奥の国い津くしの荘岩井(今の「磐井」か)の陣屋に着いたということである。
毎年、三月二十五日に祭典を行っていて、社殿がある辺りを今でも天神原と呼ばれている。元の社殿は慶応二年(西暦1866年)に巾地区が大火になった際に焼失した。火災の時に、五十嵐長吉はまだ幼かったが社殿から木像を出した。(同氏によると、)木像は今も昔のままに残っているそうだ。世に「虫食天神」と呼ばれている。
注1 笈;修験者などがランドセルのように背負っていた箱型の入れ物。
注2 天拝山(てんぱいざん);福岡県筑紫野市にある小高い山で、菅原道真が自分の無実を訴えるべく何度も参拝したとの伝説が残る。
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この伝説を考えてみますと、「菅秀才」という人形浄瑠璃などに出てくる人物名や、平安時代での山伏の存在にはかなり難しいものがありますが、大変、スケールが大きい物語になっていて面白い内容です。常盤地区には、全国規模の伝説が残っています。この菅秀才の時代からさらに三百年以上も下った1221年の承久の変で、佐渡に流された順徳天皇が最上川を遡り、さらに丹生川に上って落ち延びたという伝説が残っています。一方、細野の菅秀才の伝説では、朧気川を遡ったことになります。丹生川も朧気川も常盤地区の大きな立派な川で、その源流は行き止まりになっていますので、隠れ場所の伝説には持って来いです。その点、畑沢の千鳥川では、そうはいきません。背中炙り峠越えの大きな街道が走っていますので、隠れる場所がありません。
天満神社の場所は下の看板から探して下さい。細野地区で最初の建物に架かっていました。
天満神社の境内には高く伸びた杉があり、遠くからでも天満神社の場所が分かります。
神社の鳥居です。一見、コンクリート製かと思いましたが、これが石造りですから驚きです。よくもこれほどの石材があったものです。
鳥居の裏側には、「寛政十一☐未天」の文字があります。「天」は「年」の意味です。西暦1799年に建てられたもののようです。天明の大飢饉から12年経っていて、まあまあ落ち着いていた時代だったかと思います。畑沢では、古瀬吉右衛門が元気に活躍していたころです。
鳥居の石材を近づいて確認しました。凝灰岩のようですが、1cm程度の小さい硬質頁岩が混じっています。細野地区は硬質頁岩が多く産する地域ですから、この石材も細野地区で産したものと思われます。昔、石材は地元の物を使っていたそうです。それにしても、長大な石材を採れる石切り場なようです。
長大な物を採れる点では、畑沢の石材よりも優れているかもしれません。