第3章 なんにも知らないバカはこんなことをする より抜粋
1 基本を知らない困った作家
◆二羽目のウサギ
「やってみなけりゃわからないこと」はいくらでもある。「セーターの本」を書いていた時にも、「とんでもなくヘンテコリンなウサギ」を捕まえた。「文章に関するウサギ」である。「セーターの編み方」を説明するため、やたらの数の絵を描いた。次はその絵に合わせて、文章による説明を書いた。わかり切ったことの絵を描くことも面倒だったが、文章にいたっては飽きてしまっていた。そんな時、目の前に「とんでもなくへんなウサギ」が突然現れる。
◆写生文のお手本
そのウサギの名前は、「志賀直哉」というものであった。有名な写生文『城の崎にて』を思い出した。谷崎潤一郎は『文章読本』において《此処には温泉へ湯治に来ている人間が、宿の二階から蜂の死骸を見ている気持ちと、その死骸の様子とが描かれているのですが、それが簡単な言葉で、はっきりと表されています。》と語っている。ここで重要なのは「蜂の死骸を見ている私の気持ち」ではなく「私」に見られている「蜂」なのである。
◆「説明」は作家の基本である
「対象をきちんと書く」が出来ていなかったら、「それを見る私の気持ち」なんかは伝わない。「説明」は小説の基本で、「説明をする」がすべてでもあるような「実用の文章」なら、これはもっと重要である。
◆「基本」は死なない
作家になった1970年代の後半、既に「写生文の必要」とか「重要性」は、もう古いものになっていた。重要なのは「新しい感性」で、それは「写生文に頼らない感性」だとういことになっていた。しかし「写生文」とは、「書かれて必要な対象をきちんと書く文章」なのである。「比喩」とか「表現」とか言われるものは、「なにかに仮託して別のなにかを語ること」なのであって、「対象」をきちんと書けなかったら、成り立たない。文章において写生文が重要であることは、一向に変わりがない。
◆「基本」に気がつく
「説明する」は、作家であることの基本である。「編み方のプロセスを教える絵」は、「城崎温泉の旅館の陰にある蜂の巣」であり「そこをブンブン飛び回る蜂の姿」なのである。これを理解したとき、「単純な説明」を単純なまま書くことが出来た。これが私の捕まえた「二羽目のウサギ」である。
◆困った人と困った時代
「就職するまで〝働く〟ということを考えたことのない人間」はいくらでもいる。目標は「大学に行く」で、「大学に行けたら就職はできるはず」と考えていた若者達は、バブル以後の不況前まで、いくらでもいた。目的は「就職」であって、その先にある「働く」がまったく見えていない。「就職した以上は仕事もできる」という錯覚に陥る。「できるはず」と思い込んでる人間が壁にぶつかると「自分の無能」を理解せず、「自分を不適合にする状況が悪い」という、とんでもない判断をしてしまう。仕事が「自分のもの」にならないのは、その仕事の中に隠されている「基本」が見えず、マスターできなくなっているからである。教えられた通りのことを教えられた通りにやっていたって、その先はない。薄っぺらな自分が薄っぺらに見た程度のことだけを「仕事」と勘違いしていたら、すぐに壁にぶつかってしまう。ただそればかりのことである。
1 基本を知らない困った作家
◆二羽目のウサギ
「やってみなけりゃわからないこと」はいくらでもある。「セーターの本」を書いていた時にも、「とんでもなくヘンテコリンなウサギ」を捕まえた。「文章に関するウサギ」である。「セーターの編み方」を説明するため、やたらの数の絵を描いた。次はその絵に合わせて、文章による説明を書いた。わかり切ったことの絵を描くことも面倒だったが、文章にいたっては飽きてしまっていた。そんな時、目の前に「とんでもなくへんなウサギ」が突然現れる。
◆写生文のお手本
そのウサギの名前は、「志賀直哉」というものであった。有名な写生文『城の崎にて』を思い出した。谷崎潤一郎は『文章読本』において《此処には温泉へ湯治に来ている人間が、宿の二階から蜂の死骸を見ている気持ちと、その死骸の様子とが描かれているのですが、それが簡単な言葉で、はっきりと表されています。》と語っている。ここで重要なのは「蜂の死骸を見ている私の気持ち」ではなく「私」に見られている「蜂」なのである。
◆「説明」は作家の基本である
「対象をきちんと書く」が出来ていなかったら、「それを見る私の気持ち」なんかは伝わない。「説明」は小説の基本で、「説明をする」がすべてでもあるような「実用の文章」なら、これはもっと重要である。
◆「基本」は死なない
作家になった1970年代の後半、既に「写生文の必要」とか「重要性」は、もう古いものになっていた。重要なのは「新しい感性」で、それは「写生文に頼らない感性」だとういことになっていた。しかし「写生文」とは、「書かれて必要な対象をきちんと書く文章」なのである。「比喩」とか「表現」とか言われるものは、「なにかに仮託して別のなにかを語ること」なのであって、「対象」をきちんと書けなかったら、成り立たない。文章において写生文が重要であることは、一向に変わりがない。
◆「基本」に気がつく
「説明する」は、作家であることの基本である。「編み方のプロセスを教える絵」は、「城崎温泉の旅館の陰にある蜂の巣」であり「そこをブンブン飛び回る蜂の姿」なのである。これを理解したとき、「単純な説明」を単純なまま書くことが出来た。これが私の捕まえた「二羽目のウサギ」である。
◆困った人と困った時代
「就職するまで〝働く〟ということを考えたことのない人間」はいくらでもいる。目標は「大学に行く」で、「大学に行けたら就職はできるはず」と考えていた若者達は、バブル以後の不況前まで、いくらでもいた。目的は「就職」であって、その先にある「働く」がまったく見えていない。「就職した以上は仕事もできる」という錯覚に陥る。「できるはず」と思い込んでる人間が壁にぶつかると「自分の無能」を理解せず、「自分を不適合にする状況が悪い」という、とんでもない判断をしてしまう。仕事が「自分のもの」にならないのは、その仕事の中に隠されている「基本」が見えず、マスターできなくなっているからである。教えられた通りのことを教えられた通りにやっていたって、その先はない。薄っぺらな自分が薄っぺらに見た程度のことだけを「仕事」と勘違いしていたら、すぐに壁にぶつかってしまう。ただそればかりのことである。