○ (※SHOCK千秋楽記念・1月の博多座追記)
あっというまに4月末でEndless SHOCK帝国劇場も無事祝・千秋楽の模様。おつかれさまでした。遅ればせながら1月に見た時の感想なども含めて。



「夜公演のみでございます」 お花の届いているロビーにいるキイロイトリ「カンバイ オンレイ デスネ」


(むすび丸「パンフだよ♪」くまモンやたれぱんだやバリィさんなど「博多座パックのめんべい、ちょうだい^^」)
今回は本当にロングランでしたね。帝国劇場とは広さや高さなど状況も違って工夫もご苦労もされたことだったろうと思われる博多座だったが、その1月があったおかげで、今年は辛くも久しぶりに身近に観ることができて地元的にはありがたかったし、改めてSHOCKというものがこういうものだったなと再認識できて、よかった。メンバーも内くんとさやかさんが「若い世代」になってきた。最初のSHOCK(座長が子供世代)を見たときよりもずっと「座長が全員の中で歳が上の方」になってきた雰囲気だ。2005年のEndless~の話になってからは年々、見るごとに「…座長が落ち着くってことはまだまだないのか…いつ落ち着くのか…いや、座長が丸くなってしまって向こう見ずじゃなくなると、この話の場合は中盤からの展開は難しいのか(笑)」などと思い直したり。ま、森光子さんの『放浪記』も主人公は演者が70歳だろうが80歳だろうが何百回と「憎まれ嫌われ続ける」わけだから(^^;)、堂本光一さんもそういう役割だと思えばいいのか。
衝撃・時々突発寸劇乱入・じゃなくてだんだんshow劇が「ミュージカル」らしいナンバー構成になってきたな、という箇所も増えていた。また、SHOCKも微妙に台詞が変わっている、という点では確かに、座長の微妙な年齢の進行に伴う設定の調節等も関わっているのかもしれない。思うにこのEndlessの話は一種の寓喩であるように感じられ、その年その年のその都度の様々な問題…会社や地方公共団体のプロジェクトや経営状況の問題だったり、日本の経済や政治の問題だったり、「がむしゃらな戦後昭和日本みたいな座長」と「平成世代のゆとり教育・新学力観と関係のある?新型うつ」(NHKスペシャル?^^)とか、ま、何か複数の思惑が錯綜するチームで動くときの何かのような場合で発生する問題に、自然脳内変換されてしまったりするのだけれど。この「別室」を書き始めた最初のきっかけの10年前の2002年再演版の時から、自分も確実に10年経過して、今、10年前とは明らかに物事の観方が変わってしまった自分が存在する(外から見りゃたいした進歩もないようなものだが、そりゃ、この10年におこったことを考えると、考え方は10年前と同じではいられない)。ある種、こうした芸能事entertainmentに対する価値観や生活観、ひいては人生観まで、もう自分は1998年や2000年の頃のままではいられなくなっているなあ、と、今年の博多座では一種の感慨をしみじみと感じたのである。つまるところ他人事ではなく、気晴らしの芸事観覧で享楽しているだけですまなくなってきたというか、その享けたものから何かを為すために「自分自身が肚をくくる」番になってきてしまった、と。年齢が若いときの方が「世捨人の無用者」でいることを赦されていて、そのことにも無自覚で向こう見ずでいられたのかもしれないが、そろそろ(昭和と平成の狭間で)「そういうふうにがむしゃらな自分ががむしゃらなりにも甘やかされてきたこと」に気づいてきて、自己韜晦的に言ってられなくなってきてしまったような気がする、というような。そんな「無邪気に向こう見ずでばかりではいられない、かといって落ち着く場所も物もなく、落ち着いてはいられず、これからもっとひどくかっこ悪くあがき続けるのかどうか?」といった状況にいる自分を感じながら、SHOCKを見ていた。不思議なもので、こうした「毎年その季節がやってくる」ような公演は「円環しながら進む季節の時間」とその中にいる自分の微妙さをも気づかせる。なぜなら、座長は毎回そのラストで何度「若気の至り」をくりかえしてもそれでいいとしても、生きている自分は20を過ぎても30を過ぎても死なずに、その人生の延長線上を老いつつ生き続けているわけだから。
もしまたこれからも見る機会を幸運にも得られたとしたら、その時はまたその都度の「必死になっている何か」の寓喩を感じるんだろうな、と予想しながら。(20120430)