Endless SHOCK(2009.2.8.昼の回13:00~)
今年のShockも恙無く「千秋楽に乾杯」の時節を迎えたようである。自分の観劇の日は2月のしょっぱなで早かったのだが、往復の飛行機でも帰ってからも連日連夜残業の延長でなかなか感想を振り返れずすまんかったっす。拝見できた御礼に今年のちょっとだけ覚書。
○ストーリー的に「これまでとちょっと違うようでいて結構違う」要素=「植草克ちゃんのオーナーがリカちゃんの父親」ていう「家族的」人間関係のニュアンスだろう。なぜならそれは否応無く「座長コウイチの年齢設定」とも関わるからだ。克ちゃんが40代でワシらとそんなに変わらんみたいに見えるのは別にいいし、リカちゃんみたいな10代後半~20前後の娘がいてもおかしくない。だが座長が30前後ならリカちゃんは10コも下かと思われ。だからリカちゃんがコウイチ先輩を崇拝して「ついていくだけだから」という台詞は納得できるわけだが、そーするとコーイチというよか「コーイチさん」と呼んだ方が自然なのかもしれん、と思ったり。いや、実はコーイチもヤラっちもリカちゃんもあんまし歳離れてなくて、若く見えるけどオーナーだけ50代なんだよきっと(と、ついつい待遇表現の事を考えてしまう自分って、日本語的発想が骨髄まで染みとおってるなあ)などと、憶測はつきない(爆)
以前の尾藤イサオさんや井上順さんの時にも感じたことを思い出しただけかもしれないが、ともかくオーナーが傍らで一座の成長を見守ってる感、というのは、去年までの(同年代の連中間の仁義なき闘争感)との違いだな、と思った。何でもかんでもプレッシャーを座長が背負う、という感でなく、葛藤も准相対化されるようなところに展開がある(ま、そんなにオーナーが頼りがいあるかっていうとそうでもないのだが・笑)。純粋に無時間的な瞬間・若い演者だけの活気を見たいような宝塚的な客筋には好き嫌いがあるかもしれない。だが年齢差のある人間関係の構成というのは多少落ち着きだけでなく、台詞にも暗示にも時間性のニュアンスの陰影を含ませる。そういうものがあると「人間は永遠に子供ではありえない」という、世代間の「リアルな感じ」が少しずつ入ってくる。Shock的な世界にこの「ドラマの幅」は今後、どのくらい入ってくるのだろうか、ということを改めて考えた。コウイチは毎晩昇天して再生し永遠の時間にendlessに取り残され、見る観客はその瞬間をアトラクションのように通過し続けるのだろうけれども。(何せ作家伝記的な「放浪記」とは違って架空のストーリーだから如何様でも展開の可能性はありうるのだ)
○舞台の左右のボックスに本当のオケを配置して「生音」で行くというのも、自分は1Fの後列で陣取れたおかげで音響効果がわかって非常に面白かった。帝劇自体が広さでいうとZepp的に「箱」な上、建物が近代化遺産的に(笑)音の篭り方も「昭和」で、架空の「Imperial Theatre」の古臭い感じも空気の匂いとして醸し出されてたと思う。
本日のBGM:GReeeeN「刹那」PV
直江の初婿・山下真司氏VS八名信夫先生のビジュアルが残りすぎる。奥さんが美人。(20090404追記)
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