〇そして突然有楽町駅前に出現しているキイロイトリです
まさに渦中の、ということで2018年以来の、まさかの帝国劇場に来た。
Endless SHOCK (帝国劇場、4/30 13:00~)
本編の方で、勝利くんと麗乃さん、美波里さんと越岡くん松崎くんたちである。
この世代間年齢差の配役構成により、昨年の配信で見た時よりも勝利くんの「若い」危うさが含まれた迫力が、立体的空間における一種の空気圧的に、びんびん伝わってきた。彼もリカ役も美しい容姿が話題に上る人たちのようだが、自分にとっては二人とも声がすごく特徴的な人という印象だ。それで「ひりひりした焦燥感」を生の波動で、音で体感的に記憶したところがある(前に来た時に、優馬くんも「この人、こういう声でしゃべり方の人なんだ」と、さかなクンとは全然違う声だと判別できるようになったのだった。何度も言ってすまん)。
また、Endlessの十数年前の当初の頃に屋良くんなどのあたりでまだ「座長とライバル」という同世代間対立的設定で包み覆われていた構図の、その外皮が、長年やってるうちに剥げてきて、次第に「父と子」的な、何かと挑発し続けるパワハラ的なトラウマと抑圧の連鎖の深層心理が、透視されるレベルに達しているように感じる。いずれ安富歩先生か宮台真司先生あたりがそのうち、この展開が社会的な何の象徴であるのかについて、さぞ神話批評的な構造分析をしてくれるのでは、と怪しんでいるんだが(だがそんなYouTubeで本間龍さんがしゃぺっていても、途中でボールドやアリエールなどのCMが、がんがん乱入してきて、しょっちゅう話が途切れるのを見て苦笑を禁じ得ない。YouTubeですら)。
帰ってきてからネットのコメントを色々流し見していたら、2019年以降~昨今の状況から解読した仮説として、このトラウマに抑圧され続けるライバル役(今回でいうと勝利くん)の方こそが光一氏の深層心理の象徴で、Koichiの亡霊役こそが所謂超えるに超えられないeternal producerの存在と執念(か妄念か)の象徴なのだ、という構図みたいにとらえているっぽい説も、どこかで見かけた。なるほど。戦慄する。「俺もお前も被害者だ」という叫びはその側面の客観的かつ妥当な表現なわけで、この自分のブログでも2002年(まだEndlessになる前)から、enteitainmentの執念の怖い話であることは何となく感得はしていたが、あながち違ってなかったのかもしれない。
「ぼろぼろになるけどその分、輝ける」かどうかは、もはや社内コンプライアンス的にいろいろ問題が問われているところなはずで、もはやライバル役の「自分を殻に閉じ込めている」のを直せば治る程度のレベルの問題ではないだろう(それを強制されたらまた二次ハラだよな)。ストレスが適量な薬のように作用して何かを生み出す場合では済まず、暴力的な何かをはらんだ猛毒となって人を蝕むこともある。と思いながら見ていた。ミレニアムから20年以上続き、そういう状況や時勢であることは否定できないのでは、と思いつつ、しかし非常に叩き上げ的に、もはやそれこそ「放浪記」的に強引に乗り切っていくのかどうかという、仕組まれた技や趣向を、今回も見てしまった。演者やスタッフ、作り手と観客の熱気や迫力に久しぶりに打たれてきた。この建物にもあと何回来れるだろうか、という点においても貴重な機会であった。なお、2Fの売店で帝劇のペンとキャンディ缶をお土産に買った時、支払いでEdyが使えた。自分の近所のスーパーで使うカードの日常性の延長で、まさか帝劇売店で使えるようになっていたとは。コロナ禍前と後の「かくも長き」時間の経過を、もろにそういう時にまた実感した次第である(20230430)
レシートに帝劇の建物のマークが刷られている