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館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

F本観光で行く沖縄その3・グスクを訪ねる(夜のおまけ付き)。

2009-11-25 07:33:19 | 旅は続く
いよいよ沖縄2009本編最後の記事です。すこし長いです。お許しを!!



本日はお勉強!世界遺産になっている「グスク(城)」を訪ねる旅なのだ。
グスクにも説明が要るが、ニライカナイを頂点とする多神教の沖縄信仰の聖地であったり、まさに城であったり、集落そのものを指したりと、3説ほどあるらしいが、めぐって分かるのは、信仰・居城・集落は、聖なる場所を中心に、一体となっている感がある。

世界遺産については、まあ、偶然今回の旅の目的・・グスクの散策が、世界遺産であったに過ぎないのだが、過去の首里城や斎場御嶽(せーふぁうたき)をめぐる旅あわせて、琉球王国のグスク及び関連遺産群の9つの内5つをめぐることが出来たわけである。

僕のめぐった5つについて言えば、見事にめぐる価値のある場所であった。

少し話は長くなる。その分、以下は、短くするので、興味のある方は一読願いたい。

西洋の歴史の尺度で、日本史を眺め、日本史の価値尺度で、沖縄の歴史を眺める・・・このような歴史の見方は、民族史を見る目を曇らせる・・・と思っているがまあ、説明のデフォルメとして、以下の記述になる。

僕は、沖縄の中世・尚氏が琉球王国を統一する1400年代を眺めに来たのだ。
神話の時代から、を有力者収める・そのようないくつものクニが北部・中部・南部の三山に分かれる・やがて中部の尚氏が三山を侵略統一し、第一尚氏時代となり、琉球王国が成立した時代だ。(実際は1470年代にその家来であった、金丸によって第一尚氏は滅ぼされ、金丸自ら尚円と名乗り、第二尚氏時代になり、その尚氏は、薩摩の侵略や、徳川幕府の侵略統治を受けながら、明治へと続くのであるが・・・・)
綿々たる民族の歴史や信仰を知ることは、僕が好きな沖縄の食文化・芸能・人々の暮らしぶり、そこに流れる意識と時間を、僕自身が「腑に落ちる」に必要な気がしたのだ。

さて、僕は、最初のグスク・中部読谷村にある「座喜味城跡(ざきみじょうあと)」に向かったのだ。

写真・どうしても通らなければならない「嘉手納基地」と基地内の「黙認耕作地」である。町の70%を占めるどうしょうもないほど広い基地である。基地フェンスの向こう側にサトウキビ畑が揺れ、隣の耕地は耕され、新しいサトウキビが植えられていた。



数週間前米兵の車が、現地の人を跳ね、逃げて、翌日死体が発見され・・・と、今また基地と米兵の問題がクローズアップされている場所を通過。
写真左の道の突き当たりを、左に曲がった辺りらしい・・・・

写真の道路は、2006年に返還された、読谷補助飛行場の滑走路だ。広い!

今、読谷村には、有名なトリイステーション(Torii Station)がある。・アメリカ軍の、極東地域における軍事情報戦略の要と言える施設である。まあ、巨大なスパイ施設よ!



グスクの前に、知り合いを尋ねた。友人の娘さんであり、音楽では仲間であったユキちゃんだ。焼き物の修行で、「やちむんの里・金城敏幸さん」のところで修行中なのだが、今年こちらで結婚した。
連絡せずに行ったので、申し訳なかったが、温かく迎えてくれた。元気そうで嬉しかった。
帰りはタクシーの側で手を振って見送ってくれた。

運転手氏曰く「もう、あれはウチナンチューですね」



ユキちゃんところから5分、さて、座喜味城跡にやって来た。



北部・北山の要、今帰仁城をにらんだ、中部の北の押さえの城(以下グスクと読むべし)だ。地方豪族の首長(按司・・アジと琉球史では呼ぶ)護佐丸の納めた場所だ。



美しいアーチの城壁・アーチ門には、築城技術の粋、くさびが中央でささえる。



本殿跡。

琉球王国統一の最後の武将達の時代だ。すでに北山は侵略し、南山は併合・尚氏の中山の磐石なる体制が急がれたが、この座喜味の護佐丸(ゴサマル)、そして勝連の阿麻和利(アマワリ)の台頭が尚氏の悩みでもあった。

護佐丸・阿麻和利に、尚氏は娘など嫁がせ、姻戚関係など結ぶ。やがて、阿麻和利を押さえるため護佐丸は、このグスクから尚氏居城の首里城と阿麻和利の勝連を結んだ真ん中に位置する、中城城に移り、にらみを利かせることになる。



グスクの入り口には「読谷村民族資料館」がある。
小さな村だが、石垣市の資料館などより充実、この辺りは学芸員の力の具合だろうな。



骨壷も貧富の差を反映。彩色の高価なものから、テラコッタまでだ。

触れることの許される展示もよろしい!



さて、車で30分・勝連城跡にやってきた。
阿麻和利の城だ。
築城とあるが、護佐丸の中城も含め、中世、群雄割拠の時代の滅ぼされた城跡を修復や利用し、大きくしたものだろう。




長く急峻な坂を上り、正門にたどり着く。まるで、西洋中世の居城のたたずまいに圧倒される。
城を取り囲む幾重ものアーチの城壁・そこには配下の武将達の住居なども建っていたことだろう。



どのグスクも、神を祭る聖域を持ち、いくつもの井戸が掘られている。
多くの神々との生活・その神の力の庇護・沖縄の信仰はまさに現代にも当時の姿のまま残って、行き続けているように見える。



どのグスクもまだ発掘・復元の最中である。
写真・白い城壁は、戦後の発掘復元の姿だ。



本殿より「二の郭殿舎跡」の眺め。




勝連を後に、護佐丸居城の中城城跡に向かった。



先の座喜味の如く、護佐丸らしいアーチ門の、北門をくぐる。拝所には、おばあが祈りを捧げていた。護佐丸に続く、門中(沖縄はこの父系の血縁の繋がりが今も支配しているのだ)の方であろう。



尚氏の伝える歴史では、勝連の脅威を守るべく、護佐丸が中城に移る。阿麻和利は天下を狙い、護佐丸謀反のうわさを流し、尚氏より、護佐丸討伐の了解を得る。
それで、まあ、言って見れば「錦の御旗」を建て進軍・御旗を見た護佐丸は、天子に弓は弾けないと、自害するが、やがて真意が尚氏に伝わり、阿麻和利が撃たれる。数十年の後、成人した護佐丸の子供は、尚氏に迎えられ、取り立てられるとなっているが、歴史の真実は、台頭した阿麻和利・護佐丸を尚氏が、けん制、討伐したということらしい。

この統一を果たした第一尚氏は、やがて、家来に撃たれる。
第二尚氏の世になって、第一尚氏は、墓まで壊され、末裔は地方に「落ち武者」のようになって永らえる・・・のである。




城壁は、硬い古代石灰岩をただ積んだ「野面積み(ノズラヅミ)」から、長方形に加工した琉球石灰岩(時代が進んだ琉球石灰岩は柔らかく、加工しやすかった)を積んだ「布積み」そして、5画や6画に刻んだものを積む、「あいかた積み」などがある。古代石灰岩は非常に硬いので、加工が難しいなどが、積み方の違いに現れるようだが、まあ、時代的にも古いのだろう。

ここは、ペリーが訪れ、その築城技術と、美しさに絵を書かせ、「首里城より美しい」と讃えたグスクである。

多くのグスクが戦争の時代には日本軍の基地に使われ、爆弾を打ち込まれ、壊れてゆくのである。

戦争は、文明の破壊以外になのも無いのが、見て取れるのだ。

残っているものでさえ「美しく・感嘆の声が沸いてくる」・・・・・・あの戦争さえなかったらどんなにかすばらしい景観であっただろうと、無念な思いがこみ上げた。



発掘は続いている。無用な道路やダムを作るなら、こうした発掘に多くの予算をかけ、人を雇ったらどうだ!!

発掘の石垣は番号が打たれ、修復の際、収まるべき場所(元の位置)が定められる。丁寧な発掘調査が見て取れる。



日本軍が壕を掘ろうとしたが、石垣が続き、掘るのをあきらめた名残だそうだ・・・



グスクの側には潰れたホテルの廃墟が建っている。

観光を当て込み、本丸跡にホテルを建設しようとしたが、多くの反対にあって、グスクの隣に建てたホテルである。(管理組合と、まあ、民間企業のよくある結託だ)海洋博覧会を当て込んだが、潰れて今も廃墟だ・・・かなり見苦しい。

計画通りに、グスク散策が出来て幸せだった。

充実の1日であった。

見る・触るは大事だね~



さて、ホテルに帰って、メモの整理や、マッサージなど行なって、Fもっちゃんとの待ち合わせ時間までを埋めた。

スジグワー(路地)の似合う男である・・・・



二人の意見の一致した栄町の「おとん」を訪ねた。



いわゆる沖縄料理の居酒屋でなく、本土の人が沖縄に移り住んで、始めた店だ。

乾杯は本日の行程で失った水分に、最高だった。



「冷やしゆしどうふ」「グルクンのかまぼこ」・・コチュジャンが効いて見事に旨い!



泡盛は必須!!



「スーチカー」「韓国風タコの刺身」タコは浅草のホッピーの店に同じようなのがあって、旨いったら、ウマイ。



アケタの店か??



地元のベーベーも来ていた。
僕のお勧めを、食べてくれた。うまい~と、言っていた。



泡盛はおかわりね。



「鳥ナベ」「揚げ物」も注文してから作るので、うまい。



もうね、僕は十分だったが、彼がこのまま終わるはずが無い・・・・

手を振って、相変わらず闇に消えていった・・・・



街の賑わいの大通りをちょっとそれると、沖縄の夜の街も、ゆったりと流れる。
コウシュンカズラの黄色が鮮やかだった。

大きな本屋に寄り、「沖縄本」を購入・330円のカレーを食べて、ホテルに戻った。



翌朝は、散歩や、マチグワーを散策。ほとんどの荷物を郵便局から送って、リュックを軽くする。
最後のおみやげ(天ぷらなど、帰って家族で食べるやつね)など、リュックにつめ空港に向かった。



全く、帰りたくなかった・・・・・・・・

本当に、帰りたくなかった・・・・・・・・・・・

本島に、帰りたくなかった・・・・・・・・・・・・・・・


長かったね・・・・ここまで読んでくれた貴方!!!ありがとう!!!なのだ。
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F本観光で行く沖縄その2・座間味を堪能す。

2009-11-24 06:41:54 | 旅は続く


沖縄・2日目。
朝7時起床。お湯を沸かし、ホテルが用意してくれた「さんぴん茶」を呑む。

前日の雨はあがったが、風はやや強い。Fもっちゃんとのロビーでの待ち合わせまで、まったり過ごす。ロビー集合して、座間味へ向かう高速船の乗り場に向かう。

何と!欠航だと!

島に渡る・・・沖縄では、高速船の欠航は結構(しゃれではナイ)な頻度で起こる。んだから、宿も、貸切のタクシーなども、それでたどり着けなければ、お互い「しょうがない」となって、キャンセルも、料金など取られず、暗黙の了解が成立する。

んだが、スケジュールは狂い、変更は余儀なくされる。

この辺り、ラフに次善手など考えておくべきなのだ。



10時には座間味の予定だったが、フェリーしか出ないので、昼過ぎ座間味だ。

ビーチでオリオンビールと共に食べようと思っていた「弁当(Fもっちゃんが、朝、市場で買っておいてくれたのな)」を食べて、フェリーを待った。

写真・僕の食べた弁当と、Fもっちゃんのビーチでのおつまみ。



フェリーな!本でも読んで・・と思ったが、かなりの揺れで、それどころじゃ無かった。僕は、船酔いしやすいのな・・・



さえぎる島の無い、途中の東シナ海は、船底に寝てたら、舟の浮き沈みで、ちょっと体が浮くようだったぜ!



座間味は、沖縄戦で米軍が最初に上陸したところだ。
その碑が港のすぐ側に建ってるのな。

当然・反省したのな。

んで、民宿で着替え、本日は泳ぐのは止めて、バイクで村内をくまなく走る事にしたのな。(貸しバイク・3時間3000円なり)

Fもっちゃんは、ビーチな!




一番南にある「高月山展望台」から、阿護の浦を眺める。
北面の岡が波をさえぎり、南面は渡嘉敷島が東に控え、内海の浦は、穏やかに美しくリーフが輝いていた。


座間味島は、面積は16.87km2で、平坦地が少なく、北側の海岸は切りたった断崖から成り、南側に僅かに平坦地がある島だ。そこにほとんどの人が住んでいる。世界屈指の透明度とサンゴ礁が見事な島だ。

集団自決で沢山の人が、命を失った島でもある。
戦争で無くなった方の慰霊の塔「平和の塔」には必ず行き、せめてもと・・手を合わせる。集団自決者402名を含め軍民あわせて1,220柱を合祀してある。

そこを過ぎて、南・そして北・西・・と周回する道路があり、その高台には、絶景を眺められる「展望台」が整備されている。



北を目指し・時計と反対周りにバイク旅を進める。
周回道路は整備され、道路の周りの森は、ところどころ人の手が入り、水源の森の保存・育成の植林など行なわれている。戦争で焼かれ、大きな木がほとんど育っていないのである。

岬には「展望台」が整備され(トイレなどもある)絶好の展望スポットになっている。

まず「稲崎展望台」がある。ホエールウオッチングが座間味の売りだが、ここが最適の場所らしい・・

さえぎる何も無い東シナ海は、2メートルはあろうか?荒波にもまれていた。
周囲は断崖絶壁・・海に下りるのは困難を極める。




途中、道路マップに名前が載ってない展望台があった。眼下にはポッカリ空いた平地が見えるが、その四方は急峻な岡に囲まれ、耕地として耕すに、不適だろうな・・・平なのに・・・と、感想。



コーラル・堆積岩・火成岩など、綺麗に重なった岩盤が露出する。
この風景も、座間味の特徴のように思う。
土は少なく、耕作には不向きな土地だな。



フヨウがいたる所で花盛りだった。



女瀬の崎(うなじのさち)展望台・夕日が綺麗らしいが・・その時間はのんだくれなので、見たことは無い。



人を寄せ付けない荒波だったな。



こんな感じね。

さらに道を進めると、神の浜展望台がある。
ここからの眺めは、下の写真の、内海、遠浅の阿真ビーチの眺めだ。



実に穏やか、実に遠浅・・泳ぎが苦手な人には、最適な水遊び場だ。



浜に腰掛、しばしマッタリした。
写真・座ってる僕の代わりに、さんぴん茶。久々に黄昏た~~

流木で足壷棒など作る。この無心がかなり癒す。ナイフて削り・珊瑚で磨く。



コーラルの白い道に、くつろいでいるようなベコが良い。



3時を回って、港に到着、食堂「ざま味」で遅い昼飯を食べた。
ここは、ヤキソバがうまい!



バイクを返し・民宿に戻り、洗濯。
途中の島に1軒だけある、ジェネラルストアで、つまみと泡盛を購入。
氷も100円買うと、驚くほどの量がある。

この宿は屋上があって、実に良いのだ。



実に良い・・・・・



宿の隣は、座間味の小中学校。子供達がサッカーなどしていた。
垣根はあるが、フェンスは無い。外からの進入を拒まない・・・
こんな、学校の原風景がここにはある。
それだけで、幸せな気持ちになる。



この時期どうしてFもっちゃんは座間味なのか?
それは、この夜港の広場で繰り広げられるこれだ!

村内の店が、出店を出し、踊りや歌が、夏祭りのように繰り広げられるからだ・・

そこで、カチャーシーを踊る・・・のね。



グルクンのから揚げ・タンシオ。



ラフテー・ピザ・・・・・かなり旨い。



酒はすぐ空になる。




僕は、ここらで、退散。
部屋に戻って、すぐ寝たようである。



6時には起床・Fもっちゃんと散歩などする。
ベーベーが良かったが、居なかった。すこし悲しい・・・

朝飯・・・高速船が出るか心配だった。



何とか出航し、11時を目指して、那覇に向かった。
那覇では、内間さんという名ガイドを兼ねるタクシーがチャーターしてある。
僕は、グスクの見学・・・を決めていた。
Fもっちゃんは、自転車で徘徊らしい・・・

2日目が終わった。
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F本観光で行く沖縄その1・「さかえ」「やすし」そして「インターリュード」の夜。

2009-11-23 07:25:39 | 旅は続く

さしん・離陸前のしこーきのF本である。いつも窓側だ。

僕の沖縄2009下期がやってきた。今回もF本観光のお世話になった・・・感謝だ。

13日3時のしこーきで、その夜は那覇・14日座間味・15日那覇・16日には館林に帰る・・・の日程だ。



5時台に那覇・ホテルでシャワーの後街へ・・・おみやげを速攻で購入・発送を済ませ繰り出した。5時着では、呑みしか、選択肢は無いのだ・・・

露地の似合う男である・・・・かなりの雨だった・・・



また沖縄に来れた感謝を忘れない僕であった・・・



どうしても「やぎ」が食べたいと・・F本のチョイスで「さかえ」に向かった。



物静かなおばあと、話が止まらないネーネの切り盛りする店だ。
地元の方・観光客だがリピーターらしいグループなど、満席に近かった。
ワリワリはカウンターに陣取り乾杯だ。
カウンターに大皿でおかれた「油ミソ」「大根シリシリー」は無料・酒はさっと出るが、なんせネーネが孤軍奮闘状態で料理など作る。注文が出るまでに「無料先付け」で・・・と、配慮が良い!



目の前の大きな釜には、氷の中にビールが冷やしてあるのな。



牛刺しは自慢の品らしい・・・確かに旨い!



臭いとか、獣臭がするとか・・賛否両論の「ヤギ刺し」。

ヤギは地元では、お祝いの料理らしい・・・

かなり警戒して食べたが、臭みなど無く、皮の部分のゼラチン質はコリコリでンマイ。
まあ、牛刺しと比べると、牛刺しに軍配かな?



泡盛も入って、あーだこーだと楽しいひと時が続く。

そして何と、おばあは、白い物体を切りながら、大きなフライパンに放り込み揚げ始めた・・・
やがて、揚がった物体は、何と!「島豆腐の厚揚げ」だった。

店の皆に「無料で」配られた・・・

旨いのなんのって!!今回の沖縄の「食」の感動的瞬間であった。



そろそろ2軒目・・・と、ネーネの「ありがとう!」の言葉を背に受けて、2軒目に向かった。

これも、F本があたりを付けて置いた「やすし」と言う店だ。

寿司と、手羽先の揚げ物が旨いらしい・・・



スキンヘッドの強面風のマスターだったが・・話すと、やさしいのな。



呑みはね・・・どうしてもお腹を満たしにくい・・・寿司はありがたい。
ネタは新鮮で旨かった。



手羽先は甘辛の味付けで、パリパリの皮の食感と相まって、いい味を出していた。
酒も、又、進んだのだ・・・・



ここで終わらない辺りが、「鉄の胃袋」Fもっちゃんなのだ・・・
まだ、はしごらしい・・・

僕も、お目当てがあって、彼と別れた・・・



写真・昔、おばあに太ももを触られて・・ちと、値段が高かった、おでんやな!
こんな所に行ったのだろうか??



那覇、そして、彼女の「ライブ」があれば、最高なのだ・・・



この階段を登れば、「歌姫」が待っている・・・

日本を代表する、JAZZシンガー、寄世山 澄子さんの店だ。



しばし待つ・・・



ピアノ氏のソロの導入があって、寄世山さん登場。



ガーシュイン・エリントンと、彼女の得意なバラードが流れ、至福の時間を過ごした。

約40分だろうか?

12時を回っている。

セカンドステージも聴きたかったが、初日で頑張ると後の日程がきつい年頃の僕であった。

外は、少し雨交じり・・風は強い。なんとも満たされた思いで、ホテルまで15分程かな?歩いて帰った。

沖縄の1日目が終わった。
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庭師鮮やかなり!など・拾遺物語。

2009-11-22 09:19:40 | 生活雑感


奄美なら、キノコ取り放題だったか!!

残念ながら、那覇・座間味であった・・・・
fもっちゃん、来年、この時期は、奄美だで?



柿は我が家、「次郎柿」と「百目柿」が植えてある。
味・食味は百目がはるかに勝る!!俺、固いのが好き!!

んが、渋がなかなか抜けず、で、年によって違うが、今年は6割は渋が抜けなかった。
収穫して、食べるとき、ヘタ回りを切ると、渋かどうか分かる。



渋はね、そのまま、干し柿にします。



大した植木があるわけでないが、垣根含め、2年に1度くらいは、職人にやってもらう。
木々が、見事に美しく蘇る・・・・

職人は、毎年がよろし!と言うが、家計と相談なのだ・・・・



いや、しかし、お見事!!

今年は、柿や柚子まで、剪定していったぜ!
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北村英治・僕の育った音楽・Kの仲間達その6。

2009-11-21 07:52:51 | 僕の育った音楽


僕がJAZZ聞き始めた頃は、おじさんはスイング、若者は、モダン、わけてもバップを気難しく聴いていた。

僕は、節操無く、デキシーからモダールなのまで聴いた。

んだが、フリーには今もって馴染めないでいる。まあ、ドルフィーが限界だな。

グッドマンは好きだった。
多分その深層は・・・テディ・ウイルソンや、ライオネル・ハンプトンなど、グッドマン率いる黒人の音にほれていたのだと思う。

グッドマンつながりで、北村英治さんなども、良く聴いた。

軽快で、おしゃれで、田舎の高校生には、実に都会の音がしたもんだ。

ちょっと、コピペ。

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慶應義塾大学在学中にクラリネットを学ぶ。22歳でプロデビュー。
大学在学中から進駐軍やクラブのバンドで演奏したりして腕を磨いてきた北村は、1951年に南部三郎クインテットの一員としてプロ入り。以後、57年に憧れのベニー・グッドマンとジャムセッションを行ったり、77年には名門のモンタレー・ジャズ・フェスティバルに招待されるなど、スタープレイヤーとしてジャズ界を支えてきました。

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まあ、日本のジャズクラリネットの草分けと言って良いだろう。欧米のジャズフェスティバルにも招待されるほどの、クラでは実力だと思う。80歳近い高齢ではあるが、現在でもライブハウスでのセッションを精力的にこなしている現役だ。

ずばり、テディ・ウイルソンとのアルバム。
これにまず惚れた!
そこから始まって、気が付いたら、これだけ有ったか!


JAZZは楽しい・・・・そんなアルバムが多い。

まず、この辺りからJAZZに入れば、以降JAZZを聞き続けるように僕は思うのだ。

ベルベットタッチと呼ばれた、ウイルソンの美しく・優しく・華麗なピアノに、北村の見事なスイングのメロが絡んで、ファイブオクロック・シャドーに合う、良質なJAZZがここにはある。

時には、こんな、スイング?如何ですか?


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