退職オヤジのひとりごと

退職オヤジが直面する新しい日々…感動か困惑か?
カオスの日々を綴ります

投票率Ⅲ

2019年08月09日 05時42分34秒 | 時事問題

先日、県知事選挙の入場券が郵送されてきました。
そんなことなので、「投票率低下の原因を考える③」です。



③政治に関する教育が著しく欠落しているのでは?


 これは、選挙権年齢変更によるデメリットの対応にもつながりますが、今の制度変更の下での学校教育は、初めての道を歩む人にあまりにも不親切。
 「目的地は南南東の方向にあります」
とアドバイスだけしているようで、地図やコンパスを渡されていない迷い人はどうすればいいのかわからない…みたいな感じかな。



「子ども扱い」する日本の主権者教育 → パターナリズム

 2016年以降「主権者教育」が本格的に始まったにもかかわらず、10代の投票率が大幅に下がった(以前の20代よりも低い)という事実は大きな問題として捉えるべきでしょう。

現状の「主権者教育」が抱える最大の問題点は、『知識の伝達』になっていて、使えない点だといえないでしょうか。


文部科学省が定める主権者教育の目的は、

「単に政治の仕組みについて必要な知識を習得させるにとどまらず、主権者として社会の中で自立し、他者と連携・協働しながら、社会を生き抜く力や地域の課題解決を社会の構成員の一人として主体的に担うことができる力を身に付けさせること」

で簡単にいうと、自ら社会の問題を考え、行動していく主権者を育成することです。


しかし実際には、問題解決の手段は「選挙」に偏り過ぎており、教育の多くは「仕組み」にとどまります。

過去に成立した法案がどういう問題を解決するものなのかも教えられません。

もちろん、実際の法案成立過程や各党の違い、政治家が日々何をしているかも、教えられることはほとんどないのです。

だから、その法案に対する評価のしようもなく、選挙結果を「国民の支持を得られた」と声高に主張する政治家の発言が空しく心に届かない。



教育現場では模擬投票を実施しているところもあるようですが、多くは架空の政党・候補者であり、せっかく本物の選挙があるのに、わざわざ架空の題材を作っている。(理由は文科省の『主権者教育に関する通知』での制約で、その努力自体は褒められるべきだが、もう一歩踏み込めずもったいない限りです)



例えばドイツなどの国々では、小学生の頃から、問題解決の手段として、「市役所への連絡方法」、「メディアへの連絡方法」、「デモの手順」など、段階にあった方法を教えられるようです。


ノルウェーでは、中学校の社会科などの授業の一環で、子どもたちが各党の「選挙事務所」を回り、候補者やその支援者に直接質問し、各党の違いなどをまとめたりします。

そして、選挙があれば、本物の政治家(候補者や青年部)を学校に招いて、討論会を行っており、本物の政党・候補者で模擬投票を行う…すごいです。



それに対し日本では討論会どころか、本物の政治家に会う機会もほとんどありません。

「よくわからない人たち」もしくは(スキャンダル報道などで)「イメージの悪い人たち」が主張することに対して、選挙の時だけ「興味を持て」と言われても、それは無理でしょう。

このように、海外の主権者教育(政治教育)では現実社会で“使える”ものになっているが、日本ではそうなっていません。(政治教育後進国と言わざるを得ません)



この背景の一つには、「政治的中立性」に関する考え方の違いもあるようです。


先ほど挙げた「文科省2015年10月の主権者教育に関する通知(高等学校等における政治的教養の教育と高等学校等の生徒による政治的活動等について)」では、

「議会制民主主義など民主主義の意義、政策形成の仕組みや選挙の仕組みなどの政治や選挙の理解に加えて現実の具体的な政治的事象も取り扱い、・・・・具体的かつ実践的な指導を行うこと」

を明記しています。


しかし一方で、

「学校は、・・・・政治的中立性を確保することが求められるとともに、教員については・・・・公正中立な立場が求められており、・・・・法令に基づく制限などがあることに留意する」

と「政治的中立」を強調し、「教員は個人的な主義主張を述べることは避け、公正かつ中立な立場で生徒を指導すること」としています。



でも、人は「完全に政治的中立」になることができるのでしょうか。そんな人に知識ではない「生の政治教育」ができるのでしょうか。

しかしながら現状の教育現場では、もし「政治的中立」から逸脱すれば、教育委員会や政治家から指摘の対象となります。

そのため、この「政治的中立」を守るために具体的な事象を扱えない、先生は意見を述べることができない、のが正解(現実)になっているようなのです。

結果的に、上記で述べたように制度などの話にとどまり、ほとんど“使える”ものになっていないようなのです。


他方、ドイツなどは、多様な意見を扱うことで「政治的中立」を担保しており、討論会などでは、全ての政党を招くようです(イデオロギーによる「拒否」は禁じているが、先方が自主的に欠席する場合など、出席は必須ではないとのこと)。

ドイツの政治教育の指針になっている「ボイテルスバッハ・コンセンサス」が守られていれば、意見が分かれる現実の政治問題を扱っても問題ないとされています。

 ※ボイテルスバッハ・コンセンサスとは※
  1.圧倒の禁止の原則。
     教員は、期待される見解をもって生徒を圧倒し、
     生徒自らの判断の獲得を妨げることがあってはならない。
  2.論争性の原則。
     学問と政治の世界において論争がある事柄は、
     授業においても議論があるものとして扱う。
  3.生徒志向の原則。
     生徒は、自らの利害関心に基づいて政治的状況を分析し、
     政治参加の方法と手段を追求できるようにならなければならない



つまり、意見が分かれる問題について、その真ん中の立場を探したり、そもそもそういう難しい問題を扱わないというのでは政治教育は成り立たないと考えられているということでしょう。


これは、ドイツ国民が不幸な過去から学び取った成果なのでしょう。




日本の過去に対する評価は「被害者」的な表現が多いのですが、同様の歴史をたどった政治教育先進国に学んで、教育の在り方を変えていくべきだと考えます。それが投票率に反映し、新しい世界を担う政治が構築されていくと感じるのです。


今回、印象に残ったのは『パターナリズム』という言葉でした。

先生方頑張れ!