時々雑録

ペース落ちてます。ぼちぼちと更新するので、気が向いたらどうぞ。
いちおう、音声学のことが中心のはず。

ルーツが重要

2006年02月10日 | 
毎朝NY Timesの見出しだけはチェックして、面白そうなものを読むのですが、Businessのカテゴリにちょっと不思議な記事を見つけました(2月5日)。DNAを使った先祖探しアメリカで商売として規模拡大中、という記事です。たとえばハワイ在住のBoppさんは、父方をたどっていくと1650年ごろのマサチューセッツにさかのぼり、母方をたどっていくと1748年にドイツから渡ってきた人たちにたどり着いたのだそうです。ある会社の需要は1年で2万人、500万ドルの売り上げだそうです(!)。

なんでも商売になる国だなあと呆れ、いや関心したのですが、待てよ…と。ご存知のとおりアメリカはキリスト教が圧倒していて、いわゆるIntelligent Designの提唱者が「進化論による生物多様性の発生の理論と並行して、神…とは言わんが神の「如き」知的な存在による世界の創造を科学として認め、授業で教えよ」という、裁判まで起こしているという国です(勝てないみたいですが)。

進化論の成果の象徴のようなDNAテストと、神による創造を唱える信仰心とはどう折り合いがつくんだろう? と一瞬悩んだのですが、不思議ではないのかも。先祖が、自分のルーツが知りたい、という気持ちと、自分が無目的な自然の作用によって偶然誕生したなどと思いたくないという気持ちは、自分の存在に確固たる根拠を求めたい、という意味で根本的には同じなのでしょう。DNAテストがどういう考え方を根拠に持つかということは棚上げして、信頼性が高いなら使いましょう、というのだとしたらなんとも融通無碍。イギリス人はご先祖様にこだわるので驚いた、というKen先生の話を以前書きましたが(1月28日)、アメリカ人もどうやらご他聞に漏れないようです。

ところでこのテスト、限界があるのだそうです。まず、比較のためのデータがなくてはいけない。つまり他人のDNAもなくちゃダメ。だから、ご先祖様が共通かもしれない人(苗字が同じとか)にも頼んで、口の中の粘膜を一こすりさせてもらったり、既存のデータベースの中にご先祖が一致するものがあることを祈ったり、ということで昔のことまで分かるには何年もかかる可能性が高いのだそうです。とりあえず1700年くらいのケンタッキーまでで止っちゃいました、なんてこともあるとか。

もう一つの限界は、たとえばわれわれは10世代・300年ほどさかのぼれば、1,024(2の10乗)のご先祖がいることになるけれど、分かるのはそのうち2つの流れだけだということです。つまり、男性にだけ伝わるY染色体を利用すると、「父の父の父の父の父の…」と遡っていけるけれど、「父の父の母の…」となるとお手上げ。逆にミトコンドリアDNAを使うと「母の母の母の…」(以下省略)。

1000人も可能性があるうちたった2人しか判かんないのに、それでも知りたいのかーと半ば呆れたのですが、再び「待てよ…」。逆に考えれば、遺伝的にたどれるのは男系・女系のそれぞれたった一本だけ。だからこそ父系を保つ、母系を保つということに意味が出てくるわけで、つまり「子々孫々、ある『特定の』大元までたどれる状態を維持する」ということになるわけです(この推論は正しいでしょうか? 間違ってたらぜひ教えてください)。

皇室典範の改正議論について「女性が天皇になるのは否ではないが、女系を可能にするのは否」という意見があり、その論拠に「男性だけに伝わるY染色体が(再び以下略)」という論理を持ち出す人がいて、なんぢゃそりゃ? と思ったのですが、それは上記の論理でいくと「『特定の』大元までたどれる状態を失ってはならない」と主張している、ということになります。過去父系を維持しようとした人たちがDNAテストによる遡及の可能性を残そうとしたわけはないでしょうが、男系(ないし女系)維持に実践レベルでの意義があるらしい、ということは私には発見でした。この論理でいくと、もし皇族が「女系」として続いていたなら、これまたそれを断ち切ってしまうと、大元に戻れなくなるから、今皇室典範改正に反対してる人は、まったく同様の根拠をもって「女系を維持せよ」と主張するはずです。間違いありません。

とはいえ、今回父系を維持することになって「元までたどれる」状態を維持したとしても、だからといって、じゃあひとつ実際にその「元」を辿りましょう、なんてことは絶対ないんだろうから、「元まで辿れるんだぞ」という状態を維持するだけでいいということでしょう。さすが日本人、融通無碍では負けてはいません。

皇室にお子さんが生まれそうということで、皇室典範改正議論をストップしよう、という勢力が台頭しているというニュースがこちらにも聞こえてきました。さまざまな意見が自由に表明されるのはいいとして、日本の一部の新聞(Webだけですが)の書き方が気になってます。ある雰囲気を醸成しようと先走っているような感が… ともあれ、海の向こうもこちらも、ルーツ=存在の根拠にはやはり大変強いこだわりがあるんだなあ、という感想です。