山遊塾With You

ハイキングやウォーキングの紀行、感想など。
気の向くままに歩いています。

20年前にも行った0富士(海抜0mから3776mへ)に村山古道から再び挑戦しました。

2021年07月27日 | 登山
 77歳6ケ月のゼロ富士挑戦です。体力、気力共に20年前とは較べものにならないほど落ちている現在、はたして登れるものだろうか、自分自身半信半疑で行った富士登山でした。7月23日オリンピック開催日の午後家を出て吉原まで行き、田子ノ浦に近いビジネスホテルに泊まり、その日の内に田子ノ浦鈴川海岸まで足を運びました。そこには護岸用のテトラポットがうず高く積まれており、海に入るどころか海水に手を浸すことさえ出来ない状態になっていました。山部赤人が詠んだ田子ノ浦の面影はまったく無し。


 ここをゼロ富士スタート地点としました。


鈴川の富士塚でここが本来の富士登山の起点になっているようです。後方に富士山があるのですが当日は曇りで見えず。見えていれば親子富士が楽しめたのですが。


鈴川の町中にはこのような津波避難塔が建っています。四国お遍路旅の際にも良く見かけましたが、海辺に住む人たちの海に対する警戒心の高さが判ります。


翌明けて24日の吉原駅前から見上げた早朝の富士山です。


村山道は旧東海道から始まるので、途中有名な左富士を見る所を通過します。左富士神社、左富士の松などありますが、肝心の富士山は折悪しく雲に隠れて見えませんでした。


 和田川の手前にある「平家越えの碑」です。富士川の合戦で平家の軍勢が飛び立った水鳥の羽音に驚き、戦わずして退却したという場所です。


 吉原宿の面影がまったく残っていないアーケード街を過ぎ、東海道と別れて富知六所浅間神社にも立ち寄りました。立派な神社です。



 伝法2丁目を過ぎた辺りから道は徐々に登坂に変わっていきます。東名高速富士ICの左のアンダーガードを抜け、更に新東名の下を潜り広見公園に入って休みを取りました。建物も疎らになってきて、写真のような古い石の道しるべが出てくるようになりました。道しるべは新しく設置されたものもあって村山浅間神社までは安心して歩くことができました。


 村山浅間神社には午前11時に到着しましたが、ここで丁度ひどい雨になり30分休憩を取りました。ここの杉の大木が見事です。


村山浅間神社の左手から石畳の村山古道に入ります。石畳の道は200m足らずで終わりますが、しばらく林道を進むと右に細い窪みが現れ、そこから猛烈に荒れた流水溝を辿ることになりました。これが道かと訝るなかを登っていると、下りてくる人と出会い、その人が言うには「とんでもない道だ。溝の右や左にコースが変わるので道を探すのに大変苦労した。そこに加えて道も悪い。気を付けて登ってください」と念を押されました。


 室町時代後半から江戸時代にかけて富士信仰の道として、多くの信者が通った道だと思いますが、何しろ明治維新の神仏分離令、更に続いた廃仏毀釈により、この歴史ある古道は人の往来が無くなり廃道となってしまったようです。この流水溝のような道が出来たのは、柔らかい火山灰質の土を人が歩くことでそこが雨水の流水溝となって、周囲の土が削り落とされて長い年月の間にこのような大きな溝になったものと思われます。この古道の歩き方はこの溝に沿って登れば基本的にコースは誤ることは無いと言えます。


 このような道が続きます。


 そのうちとても分かりにくい場所があって、流石に道を失い所々に付けられた古いテープを頼りに登っていたら、砂防堰堤の工事現場に出てしまい、そこでコースを右に寄り過ぎたことがわかり、一旦作業用の林道に出て左に進んで正規の古道に戻ることが出来ました。標高800mを過ぎた辺りで大ケヤキの広場・札打ち場跡を通過。さらに進ん広い林道に出たところが天照教社という新宗教団体の建物に着きました。ここでやっと標高1000mを登ったことになります。


 美しい原生林の中を一筋の道が続きます。気持ちのいい所です。


 富士山麓山の村脇を通り、歩き易い一本道の脇に馬頭観世音がありました。馬も歩いた道だったのですね。


中宮八幡宮跡に着きました。明治末ころまでには茅葺の社殿や馬立小屋などがあったと言います。ここまで馬で来ることができたと言われます。


 このような首を落とされた石仏もありました。廃仏稀釈によって破壊されたものと思われます。


 中宮跡を過ぎると標高1350mで富士山スカイラインを横切る所に出て、24日は登りをここで打ち切り、自動車道を3km左に下ってPICA表富士キャンプ場に宿をとりました。キャンプ場に着いたときは既に午後6時を回っていました。同じキャビンにはこれから村山道を登り山頂を目指す若者と、既に登頂を終えて田子の浦まで下る青年と相部屋になりました。


 25日朝再び富士山スカイラインを昨日のゴール地点まで戻りそこから再スタートを切りました。途中の西臼塚駐車場からこれから登る富士山が見えていました。


 道は先日に較べ格段に歩き易くなり林相も変わり明るさも増してきました。


 広い開けた明るい場所もありましたが、鋭いトゲの付いたアザミが多い所です。




 女人堂跡、六観音堂跡と登って行くのですが、風倒木が行く手を遮り跨いだり潜ったりの余分な労働を強いられるところです。


 周囲がダケカンバの森に変わってきました。


 低く曲がったカラマツ林の先に新6合目の小屋が見え始めました。小屋には午後2時前に着きましたが、早いけど25日の泊りは新6合目宝永山荘にしました。かなり疲れていたので、これ以上登っても疲れが増すだけでむしろマイナスと考えました。東京オリパラやコロナ問題が影響してか、宿泊客は7~8名だったようです。


 26日は台風8号が関東目指して進行中、午後から雨や雷の予報が出たため、午前4時前に小屋を出ました。雲一つない青い空が広がる中に山頂が見え、消えぬままの雪がまだしぶとくへばりついていました。


 富士宮口山頂まで途中で会ったベトナム青年二人と前後しながら登りました。彼らの登り方はパタパタと20mほど登るとすぐに座り込んで休むというスタイルなので、ゆっくり登っている私でもすぐに追いついてしまいます。青年一人が日本語が堪能だったため、苦しい登りだった割には楽しく登ることが出来ました。上の写真の左が私です。


 富士山本宮浅間大社奥宮に午前9時55分に到着。ここで30分も休んで神社にお参りをしたり、お守りも買って70歳以上の高齢者が記帳できる奉賀帳に署名もしておきました。


 午前10時50分に剣ケ峰3776mに着いて77歳6ケ月のゼロ富士が完了しました。下山は吉田口下山道を下り5合目からバスに乗り、河口湖駅で特急新宿行に乗れたため、埼玉の自宅には午後7時前に帰り着きました。