ただ建築が好きな走るエンジニア、

日系某メーカーを辞めて外資系に転職。資格、建築デザイン、転職と来て今はひたすらす走ってます。2020別大2:49:13。

駅に備え付けのノートに。

2024-12-16 23:30:00 | 回想
これはどこでしょうか?
整理してたら出てきた写真。


こんな文章も。


駅に備え付けのノートに書き込んだら
後日編集したものが送られてきたらしい。

車内の様子。
外が暗いから帰りだね。

この駅の先には日本三大車窓が。
その写真は見つからず代わりにこの写真。


就職した年の秋、
一ヶ月の工場実習のとき。

エンジニアとして歩き始めたばかり。
どんなことを考えていたのか。

今、再び半導体はスポットライトが
当たっているから頑張ってほしい。

そして自分も何かできないかと
考えてしまう。





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日産が好き、

2024-11-16 11:12:00 | 回想
毎日の横浜駅からみなとみらいへ。
好きなランドスケープ。

企業が商品だけでなく
未来を作っていくのは大事だなと思う。



クルマのデザインや技術も
未来を感じたくて好きだった。

記憶に残る走り。


10才から4世代、横にいた。


やっぱりデザイン。


ほぼ一目惚れ。


2009年12月までだったけど。

今でも毎日通るから欲しいんだけど
ずっとすれ違いなんだよね。

がんばれ、日産!



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ゆりかもめ、

2024-05-23 23:59:00 | 回想

久々の新橋駅。
ゆりかもめに乗ってビザの申請。

懐かしい?景色を眺めながら
結構古くなったなぁと思いました。

船の科学館。
もうやってないんだっけ?
小学2年のときに月の石。

東京テレポート駅の発車音は
「踊る大捜査線」なんだ。

大きな有機EL地球儀の未来館。
隣の産総研もくたびれたね。

フジテレビ本社とダイバーシティー。
25年前を思い出す。まだ20台だった。

そんな感じで貴重品満載では
帰宅ランできないので帰宅してからラン。

中2日、脚が軽かった。



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輪島、和倉温泉にて、

2024-01-06 16:16:00 | 回想









13年前、2010年夏に訪れた
輪島朝市通りと和倉温泉。

当時は名古屋に住んでいた。
実家の両親と6人で訪れた。

まだ二女は生まれてない。
翌年の東日本震災の後に生まれた。

当時は走ってなかった。
まるで別人だ。

全てがかけがえのない時間で
失われたものは元に戻らない。

でもまたそこから作っていくしかない。
そんなことを改めて思う。









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朝の通勤で思ったこと、

2023-12-28 09:05:00 | 回想
朝の通勤は電車のボックス席窓側に
座ってボッーと外を眺めるのが好きだ。

少しでもスマホの束縛から逃れ、
落ち切った視力の回復も密かに思う。

近所の山々、水平線と海。

大船駅も近くに迫り、減速が始まる頃、
ずっと前から気になっていた店がある。

別に見た目が不思議なのではなく、
店名に従兄弟の名字を見つけるから。

確かにその従兄弟、義叔父の出身地
だから、その親族なのかなと思ったり。

その叔母と義叔父の結婚式に呼ばれて
鎌倉を訪れたのは1990年くらいだった
と思う。

当時は名古屋に住んでいたので、
観光地としてR134を運転した。

その2年後、従兄弟が誕生した。
従兄弟は今、量子論か何かで博士を取り、
大学で教鞭を取っている。

あっという間だ。

でもそんな長い時間で
断片でしか接して来なかったので
今頃になって色々思う。

叔母と義叔父は従兄弟が幼い頃に
別居した。

その後の義叔父の
詳しいことは知らない。

なぜか、その後、叔母と従兄弟は
愛知の私の実家の隣に越してきた。

でも、その頃には私は就職して
神奈川にいたので入れ違いだ。

でも、何となく成長は見てきた。
(見守ると言うほどではない)

義叔父は数年前に亡くなった。
自転車作りの名工だと聞いていた。

便利な世の中だ。
昔は知り得なかった情報が
今はネットから知ることができる。

いくつかの記事があり、
確かな仕事をしていた様子が伺えた。

亡くなる前にそのブランドを
後継者に引き継いでいた。

そんな30年を不思議に思いながら
東海道線の窓から外を眺めてた。





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スカイライン指数、

2023-11-25 20:32:00 | 回想
もう働き出してからかれこれ2X年。
最近感じる収入と物価の変遷と乖離。

一般には横ばいの平均年収と
自動車などに見る物価上昇?

馴染みのある日産スカイラインと
トヨタカローラで指数化してみました。



2000年くらいまでフラットだったのが
その後少しずつ上昇。2015年で跳ねる。

2015年以降は円安も効いてるのかも
知れません。



僕は親父の影響でスカイラインが好きで、学生のときバイトで稼いで下位グレードの
スカイラインを買いました。

その当時もそれなりにミドルクラスの
安くはないクルマだったけど、

それでも何とか手の届く時代でした。


その後、就職して結婚前に買ったのも
やっぱり下位グレードのスカイライン。


この頃までは平均年収の50%以下で
買えました。

それが今では倍の100%超え。
カローラでも50%超え。

自分の世代は年収の伸びで
そうしたクルマを今でも買えるかも
知れませんが、

若い人にとっては違うものに
映ってるかも知れません。














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珈琲店の話。

2022-04-09 00:34:00 | 回想
高校に通っていた3年間、
最寄りの地下鉄駅から学校までの間に
小さなコーヒー専門店が一軒あった。

知らない店名だったが、
珈琲店と書いてあるから
そうなんだろう。

高校生は珈琲店には入らない。
部活後は前店で60円のチェリオ、
たまに弁当忘れた土曜はスガキヤ。

友だちとカッコ付けてせいぜい
ラーメンかお好み焼き。

大学生になりクルマに乗ると
地元で有数の高級住宅地の中に
同じ名前の珈琲店があった。

近くで家庭教師をやっていて
たまたま知った。

余談だが、その家庭教師先の生徒は
市内で有名な私立男子校に通い、
お父さんは某有名西洋風名前の靴店の
社長か重役と言っていた。

さらに余談だが、
最近長女からその社長の息子さんが
某有名な?イケメンタレントだと
聞いて少し驚いた。

まぁ、いい。

少し脱線し過ぎたが、
その珈琲店は驚いたことに?
オーダーすると目の前で店員さんが
コーヒーをドリップしてくれた。

親が不良だったので
コーヒーは小6から毎朝飲んでいた。
もちろんカッコ付けていただけだ。

コーヒーの味を引き立たせるために
サトウ二杯は入れるが、
ミルクは入れなかった。

今はミルクは入れるが
サトウは入れない。

とにかくそのドリップしたコーヒーは
何も入れてはいけない気がした。

頼んだメニューで一番高い
ブルーマウンテンと言う名のコーヒーは
ブレンドの倍くらいの値段だった。

でも大して旨くはなかった。
香りは良かったが。
デートするなら常連にしようと思った。

キリマンジャロは注文しなかった。
寿司でも竹を頼むのは好きじゃない。

その代わり好みと偽って
もっと安いモカをよく注文した。

実は今では酸味のあるモカが
一番好きだ。

多分味覚が大して発達してないから
苦味とか、雑味とか言われても
分からないだけかも知れない。

まぁ、そんな訳でよく通った。
もう四半世紀前の話だ。

大学を卒業して関東に住み、
たまに帰省したときも通った。

でもそのうちにメニューは
ブレンドコーヒーだけになった。

しかもカップが店名入りの
ダサいデザインになった。

転勤でたまたま4年間、
近所に住んだ。

そうだ。
会社の転勤者補助を総動員して
職場から27kmも離れた
新築マンションに住んだ。

でももうその珈琲店には行かなかった。
その頃にはところ構わずに
雨後のタケノコの様に
あのコーヒーカップのような店が
蔓延っていた。

一度だけ遠出の時に
仕方なく入ろうとしたが、
店内禁煙ではなかったのでやめた。
子供がいれば当然だ。

今では転勤から戻った我が家の近所にも
たくさん蔓延っている。

もちろん行ったことはない。
と思う。

でも、先週末、
実家に帰省することになり
大学生の長女がこともあろうか、
その店で名物のモーニングを食べたいと。

もちろん長女のお願いは喜んで聞く。
調べると今はほとんど全店禁煙らしい。
アスリートには大切だ。

結局モーニングを頼んだのは
私だけだった。

あのコーヒーカップに入ったコーヒーは
意外と美味かった。

以前、どこかのフランチャイズ店で
仕方なく飲んだ時は本当に不味かった。





私が歳を取っただけと言うことか。










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コロナ禍と通信制の大学、

2021-05-11 12:07:00 | 回想
もう8〜9年前のことになりますが、
通信制の大学で学んでいました。



このブログを書くきっかけ?
このブログを始めて決めた?

昇格、転勤、資格と続いて
次に何がやりたいか?と思ったときの
新たな学びの機会でした。

転勤先で仕事は忙しく、
二女が生まれたばかりで妻も忙しく、
色々無理、迷惑があったと思いますが、
通信制だから何とかなりました。

3年次編入、想定の2年で
きっちり卒業しました。

通信制は自宅学習が約7割で
課題や提出は主にオンライン。
作品はたまに郵送。

3割は年に12回のスクーリング。
1回あたり土日9:00〜18:00。

京都か東京が選べますが、

最初の一年は転勤先の名古屋から
京都に新幹線で1泊2日。

最後の一年は神奈川の自宅から
神宮外苑まで日帰り。

事前課題もきっちりあって
不十分だと悔しい思いもしました。

高校卒業して最初に学んだ大学と
比べるのは難しいけど、

41歳から選んだ学びはより自主的で
真面目でした。

そして妻と子どもたちがいたことが
大きな力でした。

今、コロナ禍でオンラインが
当たり前になりつつも、
それを否定する流れもあるけれど、

それは本人次第かなと言う気もします。
通信制の自宅7割、スクーリング3割は
結構いい塩梅だったと思います。

今春通学制の大学に入った長女も
4月に週一か二日で数回通っただけで
5月からオンラインに逆戻り。

それなりに一生懸命にやっている姿は
昔のことを思い出させます。

がんばれ。



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分かれ道(7)

2021-03-01 20:14:00 | 回想
9月26日月曜日午前9時過ぎ、
出社してすぐにメールを書いた。

今は異動して新規事業開発室にいる、
社内募集前の部署で課長だった、
その部長に短いメールを送信した。

午前9時36分だった。

その前の週、現在の部署の部長から
呼び出され、人事からと同様に
異動希望があるなら調整すると
伝えられた。

その部長は疲れ切っていた。

一人でも関係者が少なくなることを
望んでいるように思えた。

休み時間にカリスマにも呼ばれた。
今までのことは忘れて一緒にやろうと
誘われた。

部署が解散するかもしれない中で
よく分からない話だった。

カリスマと常に一緒にいた女史からは
これ以上あの人に迷惑をかけるなと
言われた。

人それぞれ信じるものがあるのかも
知れないと思った。

でも私にはやはり分からない話だった。

同じ境遇の他のメンバー数人と
何回か飲みに行くようにもなった。

以前からの事をよく知るメンバーから
いくつかの信じられない話も聞いた。

メールの返信は直ぐだった。
余りにも早かったので断りか、
叱りのメールだと思った。

メールは一言、ちょっと待ってろと。
まさかその日の内に異動が決まるとは
全く予想していなかった。


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分かれ道(5)

2021-02-16 00:17:00 | 回想
社内募集で異動する前にいた部署で
シンガポール国費研究生のチューターを
担当したことがあった。

私自身も中途入社1、2年だったので
どちらかと言うと同級生のような
感じでくだけた関係だった。

彼らは国立大学を優秀な成績で
卒業したエリートだった。

しかし、シンガポールに限らず
アジアの他の国でもそうだが、
すでに在学中に兵役を終えていて
一人前の成人だった。

その懇親会は、2年の期間満了で
帰国する彼らの送別会だった。

異動して一年になるのに
彼の意向で私も呼んでくれたのだった。

部長、以前の課長と話すのも
1年ぶりだった。

1年前、なんで一言も相談せずに
異動を決めたのか?と問う部長に
私はすみませんでしたとしか
言えなかった。

まさか、そこまで気にかけてくれて
いるとは想像していなかったからだ。

周りの人のことを考えられない、
想像できない自分の愚かさを
再び知り、後悔する出来事だった。

前の会社でも似たようなことがあり、
結局転職したのだった。

課長にはすごい無茶振り、厳しいことも
たくさん言われたが、確かにいつも
骨は拾ってくれた。

そんな以前の課長は何も含むことなく
昔通り接してくれた。




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分かれ道(4)

2021-02-12 10:29:00 | 回想
その前の部署の部長との出会いは
30歳で転職、入社した時だった。

当時は課長で、まだ30台だった。
バイクが趣味で、ヨット部にも
いたらしい。

メンバーも新人や転職組が多く、
皆20台か、30台前半だった。

服装もくだけていて、一つ間違えると
大学のサッカー部か、バスケ部の
ようだった。

そして頭が良くて積極的だった。
入社前に描いていた理想工場が
そこにはあった。

入社して3か月くらいした頃、
その当時課長から海外顧客向け
設計のリードを任された。

正直、分野を跨いで転職したので
分からないことばかりだったが、
半分は前職の知識も役立って
ちょっと毛色の違う設計ができた。

シンガポールや台湾、中国、北米、
毎週のように課長と同行して
顧客を訪問し、設計の折衝をした。

このお客様に対しては君がうちの
顔だから、お客様のためにも担当は
変えない。と言われた時は嬉しかった。

気付くと事業部で最大の販売台数を
稼ぐ製品の設計を担当していた。

色々なアイデアで低価格も含めた
ほぼ全ての顧客の希望を実現した
結果だった。

でも生産の初期段階でいくつかの
トラブルに見舞われた。
経験不足が露呈した。

愛知にあった生産現場と
神奈川、台湾の間を週に何度も行き来し、
昼夜問わず対応して問題は解決した。

その後、課長は別の部の部長に昇格し、
私も事業部の功績賞を受けた。

しかし、組織変更で私は別の課に異動し、
自社向け別製品の担当に変わった。

ちょうど転職して2年が経過していた。

自社向け製品の設計は
正直言って地味で新しいアイデアを
試す必要がなかった。

何となく罰を受けているよう、
理解されてないように感じた。

次第に意欲が薄れる頃、
社内募集で新規デバイス開発の募集を
見つけて応募した。

しかし、
その部長に昇格した前の課長は、
私の異動が決まったことを知ると
なぜ事前に相談しなかった?と
怒っていた。





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分かれ道(3)

2021-02-09 23:55:00 | 回想
水曜日の午前中、大学時代の友人と
サーフィンをしていた。

30半ば、せっかく海辺に住んでいるの
だから、経験しておきたかった。

2時間ほどロングボードで
穏やかな波乗りで過ごし、
そこで友人とは別れを告げて
会社に向かう。

2か月前にはこんな平和な日が
再び訪れるとは想像できなかった。

カリスマを追い出しに掛かったところで
意外な事件が起こった。

カリスマと行動を共にしていた
女史が部長をセクハラで訴えた。

課長も任を解かれて
隣の課長が兼任になった。

そして私たちの業務は停止になった。

人事からは個別にインタビューが
行われた。

ポイントはセクハラと業務上の
服務規程違反だった。

部長は否定したが、
利害当事者の人事異動は
出来なかった。

約2か月の間に度重なるインタビューや
双方からの懐柔工作が行われた。

正直もう沢山だったが、
先行き見えずに不安だった。

私は双方から見て中立に映った。
自分でも外れたことはしていないと
思った。

ブラックボックスの調査も
背景は別としてオープンに
行動していたからだと思う。

そんなある日、社内募集の前にいた
職場の部長から懇親会の誘いを受けて
出向いた。

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分かれ道(2)

2021-02-06 12:41:00 | 回想
その分かれ道の約1年前、
私は少し困った状況だった。

さらにその1年前のこと、
社内募集である先端デバイスの
開発部署に異動したのだが、
そこでトラブルに巻き込まれた。

40半ばの課長と同格のリーダーの間に
確執があり、気付いたら
その真ん中にいた。

リーダーはアイデアと関係者を巻き込む
カリスマだった。

課長は企画上がりの将来を嘱望された
存在だった。

リーダーの独善を危惧した課長は
新参の私にリーダーを追い出すことを
前提とした調査を命じた。

確かにほとんどのアイデアは
カリスマであるリーダーから出ていたが、
余りにもブラックボックス化していた。

協力会社との関係もカリスマが
繋いでいたが、詳細は誰も
知らされていなかった。

大きい会社でもこう言う状態が
容易に生まれることが不思議だった。

その天才に畏怖しつつ
私も振り回されていた。

どれもアイデアは奇抜だが、
実際やってみると大変だった。

毎日のように横浜と青梅と鹿児島を
昼夜問わず行き交った。

クリーンルームの床で寝たことも
朝の4時に鹿児島空港で
始発の飛行機を待つことも
ざらだった。

それでも次第に自分のアイデアも
採用され、具現化に喜びを
感じ始めた頃、問題も顕在化した。

それを知った課長は部長と一緒に
カリスマの追い出しに取り掛かったが、
すぐにバレた。

Comment

分かれ道(1)

2021-02-03 22:21:00 | 回想
会議室には部長と全ての部員、
向かい側にはシンガポール帰りの室長

部員の半分は20台、自分も30半ば、
みんな若くてキラキラしていた。

ようやく一つのものを世の中に
送り出してこれからと言う時だった。

ここで止めてしまえばもう、
ライバルとの差も取り返しの付かない
ものになることは皆分かっていた。

上からの決定事項を伝える室長、
その理由を問い質し、
正論をぶつける若手。

私は事業化に伴い一年前に部長に
拾われて加わったベテランだった。

皆が研究上りの中で
本格的な商品設計のリードを任された。

儲けになる設計をして
百万台という単位でモノを
世の中に送り出した。

それを覆して
メンツにすがる分かれ道だった。





Comment

今年もありがとう、

2020-12-31 14:43:01 | 回想
今年も何とか平和に家族と年の瀬を
迎えようとしています。

長女の受験で実家に帰省する予定は
最初からなかったけど、

しばらく会っていない親族や友人の
様子は気がかりです。

来年の今頃は今日のことを懐かしく
思い出せるくらい平和になることを
祈っています。

今年はとりあえずクルマを変えたので
旅をする準備は万端です。



2月に別大を走り、サブエガでPBを
記録できたことは本当にラッキー
だったと思います。

そのあとのレースが軒並み中止になり、
今こうして調子を落としていることを
考えるとあの時しかなかったのかもと
今は思います。

でもいつかまたマラソンをサブ3で
走ろうと思います。



働き方も変わってしまいました。

電車通勤をしなくなったので、
気付くと時間の境目なく仕事をする
ようになり、帰宅ランもなくなりました。

帰宅ランは単に走力だけでなく、
気持ちのバランスを保つためにも
必要な作業だったので、
やはり仕事を切り上げてでも走る時間を
捻出しようと今は考えています。

反面、仕事に集中する時間も増え、
論文や特許、新しいアプリ開発など
いくつかの成果に繋がったのも確かです。

やはりまったく昔に戻ると言うことは
ないのでしょう。

幾つかの必要ないものに気づいてしまいました。

長女はこれから大学受験ですが、
そこでも今までの価値観が崩れていることに
気付きます。

既に私大の出願など始まっていますが、
合格したとしても果たして都心の大学に
ちゃんと通うことができるのか?

状況が厳しくなって柔軟に対応できない
公立の学校。

結局、自分の身は自分でしか守れない
という状況に危うさを感じますが、
それでも模索の末に光明が見えることを
信じています。





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